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傷ついた地を癒やすということ──。タイのアートシーンを牽引する、マリサ・チャラワノンが投げかける問い

  • 2026.7.6
マリサ・チャラワノン/バンコク・クンストハレ、カオヤイ・アート・フォレスト設立者・会長 Hearst Owned

タイのアートシーンに、いま多くの視線が注がれている。その動きを内側から支え、「文化圏」として育ててきた人物が、フィランソロピストでありコレクターのマリサ・チャラワノンだ。

「仕事を通じて築く友情や人との関係をとても大切にしています」。そう語る彼女の関心は、展覧会やイベントの成功そのものよりも、アーティストの制作や、人々の交流、そして時間をかけて文化が醸成されるための条件を整えることに向けられている。

「今は忙しくて公私を分けることが難しいですが、だからこそ仕事仲間とビジネス以上の関係を自然に築き、深い信頼を育むことが大事。仕事を通して出会う人々と自然に友達になっていくような、そんな関係性を求めているんです」

その姿勢は、コロナ禍をきっかけに始動した社会支援プロジェクト「Chef Cares」にも色濃く表れている。食を通じてコミュニティを支えるこの活動は、彼女にとっての「ケア」や「持続性」をかたちにした試みでもある。現場でいかに思いを共有し、具現化するか。その一貫した哲学は、彼女が創設した二つの場所に通じている。

マリサ・チャラワノンが立ち上げた「Chef Cares」に参加するタイのトップシェフをカオヤイ・アート・フォレストに招いて開かれる、ダイニング・イベントの様子。 Hearst Owned
「Chef Cares」の共同創設者で世界的なシェフ、ウッティサック・ウッティアンポーンが手がける美食のクリエイション。 Hearst Owned
オノ・ヨーコのインスタレーション《Mend Piece(A4アート財団[ ケープタウン]バージョン)》(1966/2018)。壊れた破片をつなぎ合わせる観客参加型の作品だ。 PHOTO: COURTESY OF BANGKOK KUNSTHALLE

2024年1月にオープンした、バンコク中心に位置するバンコク・クンストハレ(Bangkok Kunsthalle)は、旧印刷関連施設を活用した実験的なアートスペースだ。だが、そこにたどり着くまでには彼女の強い意志があった。実は当初、周囲の意見は否定的だったのだという。

「会社の人たちや夫も、はじめは誰も気に入らなかったんです。本当に古くなっていて、火災に遭った跡が大きく残り、しかも構造的にも非常に特殊な建物でした。3つの異なる棟から成る建物なのですが、40センチほどの隙間がそれぞれにあって、実際には各棟がつながっていないんです。床の高さもそろっていないので、中を移動するには建物から建物へとジャンプしなければならないような状態だったんです」

周りの人々は「建て直すか、全面的な補強が必要。その費用は購入価格の3倍かかる」と反対した。だがマリサは、この場所からの“呼びかけ”を信じて物件の購入に踏み切った。

その構想をかたちにするために迎えたのが、バンコク・クンストハレと、後述するカオヤイ・アート・フォレスト(Khao Yai Art Forest)の立ち上げを主導したファウンディング・ディレクター、ステファノ・ラボッリ・パンセラである。ヘルツォーク&ド・ムーロン出身の建築家であり、世界最大のギャラリーの一つ、ハウザー&ワースのディレクターなどを歴任してきた人物だ。彼は当時のマリサの決断をこう振り返る。

ヤワラート(中華街)の一角に位置するバンコク・クンストハレの外観。 PHOTO: COURTESY OF BANGKOK KUNSTHALLE

「グローバル化されたアートの世界では、ニューヨークでも香港でも、どこへ行っても似たようなホワイトキューブの空間で、同じような作品ばかり。まるで牢獄の中にいるかのようです。しかし、この建物は現在のバンコクにしか存在し得ない、無二の条件を持っている。私たちが目指したのは、ミュージアムという存在をアップデートし、既存の型を壊してまったく異なるモデルを見せることでした」

バンコク・クンストハレのオープニングを飾ったのは、フランス出身の映像作家ミシェル・オデールによる個展だった。続く展示では、国際的に活躍するタイ出身のアーティスト、コラクリット・アルナーノンチャイのインスタレーション作品が発表され、宗教、記憶、テクノロジーといったテーマが都市の文脈と重なり合うように展開された。この空間で作品は、固定された意味を与えられるのではなく、人々が移動し、また留まることで、建築とも深く呼応しながら身体的な体験として刻まれていく。

2024年11月、コラクリット・アルナーノンチャイの個展会期中に行われたトッシュ・バスコによるパフォーマンスの一場面。 PHOTO: COURTESY OF BANGKOK KUNSTHALLE

もう一つの拠点、カオヤイ・アート・フォレストは、カオヤイ国立公園近郊の自然環境を舞台にしたプロジェクトで、2025年2月に正式にオープンした。「この傷ついた地を癒やさなければならない」──そう語るマリサは「ヒーリング」という言葉をとても大切にしている。構想が動き出したのは2022年の夏。コロナ禍で都市が封鎖されるなか、彼女が朝の森を歩きながらふと抱いた直感が、その始まりだったという。

カオヤイ・アート・フォレストの俯瞰写真。中央に見える円環は、リチャード・ロングの《Madrid Circle》(1988)。石を使った直径1160㎝の作品だ。 PHOTO: KRITTAWAT ATTHSIS AND PUTTISIN CHOOJESROOM

❝東洋やグローバルサウスの女性表現者は、自然に抗わない。ただそこに潜む“見えない力”をかたちにするのです❞

エルムグリーン&ドラッグセットが手がけた《K-BAR》(2024)。月に一度、夕暮れ時に開催されるイベントでは、観客は森の中をめぐりながら、この小さなバーを探し当てる。 PHOTO: KRITTAWAT ATTHSIS AND PUTTISIN CHOOJESROOM

この場所を象徴するのが、中谷芙二子の代表作の一つ、大規模な霧のインスタレーションだ。マリサはこの作品を、自然に人間の痕跡を残そうとしたこれまでのアートの思想とは異なる、「ランドアート2.0」のマニフェストと呼ぶ。「アメリカのランドアートの巨匠たちは、自然の中に痕跡を刻む“開拓者”の思想が強かったと思います。でも、東洋やグローバルサウスの女性アーティストたちは、自然に対して何かを押しつけることはありません。彼女たちは目に見えない力を美しく顕在化させることに関心を持っているんです」とマリサは話す。

中谷の作品は、風や温度など目に見えない力を可視化する。「霧は、見えるものを見えなくし、見えないものを見えるようにする」という作家の言葉どおり、霧が発生すると、それまで見えなかった蜘蛛の巣が突然浮かび上がることもあるという。

バンコク・クンストハレ同様、カオヤイ・アート・フォレストでもディレクターを務めるステファノは、この作品の興味深い側面として、「時間をデザインする」という視点を挙げる。「中谷さんは、霧がすぐに消えてしまわないよう、地形そのものを人工的にデザインしました。堤や谷をつくることで霧が滞留し、消えるまでの時間を遅らせる。単なるランドスケープではなく、時間を彫刻しているのです」

さらに驚くのは、この作品が生態系を再生させているということだ。もともとタピオカ畑として疲弊していた土地に霧が発生し続けることで、湿度が保たれ、キノコやコケが生え、昆虫が集まり始めているのだ。

中谷芙二子の《Khao Yai Art Forest, Fog Landscape #48435》(2024) は、自然の内部に潜在するエネルギーを可視化する“霧の彫刻”。 PHOTO: ANDREA ROSSETTI, COURTESY KHAO YAI ART

カオヤイのプロジェクトには、キャリアや国籍を問わない多様なアーティストが参加している。例えば、現在協働しているコロンビア出身のアーティストは、自らの作品の背景に「land(土地)」ではなく「humus(フムス:土)」という言葉を使う 。「フムスは、『humanitas(人間らしさ)』の語源でもあるんです。人間は大地から生まれるという思想に基づいているんですね。こうした『育む、癒やす』という繊細な感性は、マリサが追求している理念とも深く響き合っています」とステファノは語る。

また、元僧侶であるタイ人の若手作家、ウバサット(ubatsat)の起用も象徴的だ。彼は、家族が寺院にストゥーパ(仏塔)を奉納した際に余ったブロンズの鋳型を使い、現地の土やセメントを混ぜて作品を制作している。タイにおいて仏塔の建立に関わることは最大級の功徳とされるが、マリサはこうしたローカルな文脈を大切にしながら、若手と世界的なトップアーティストを同列に扱うことで、タイのアートのエコシステムそのものを底上げしようとしている。

このカオヤイの森をさらに深めるために、目下マリサが構想中なのが“オープンエア茶室”。きっかけは東京郊外の友人宅で体験した茶道の儀式だったそう。「小さな部屋で身をかがめ、深く礼をする。その謙虚な所作はとても印象的でした。最初は本当に少しだけ冷たさを感じますが、それも伝統の一部。茶室はまるで瞑想のような空間です。完全な密閉空間ではなく、風や光が入る半屋外の場所で、タイと日本の茶を融合させた茶会を開きたいと思い描いています。自然への謙虚さや癒やしを体験するプロセスこそが、このプロジェクトの核心ですね」と、マリサはほほ笑む。

計画中の茶室のコンセプトイメージ図。組木構造を再解釈し、金属のネジやクギを使わず、木材のみで構成される予定だ。 MET TEAM ARCHITECTS

彼女の活動は、一国に留まるものではない。2025年からは、京都で展開されているアートフェア「Art Collaboration Kyoto(ACK)」との提携によるフェローシップ・プログラムも始動した。これはACKに出展するアーティストのなかから対象者を選び、タイでのレジデンスの機会を提供するものだ。

ステファノはこの提携について、「タイを世界のアートワールドの地図に位置づけ、既存の型を壊して新しいフォーマットを生み出しているACKと手を取り合うことは自然な流れでした」と言う。マリサもまた、コラボレーションの精神を重んじる。「世界が分断されている今だからこそ、連帯が重要です。一つのギャラリーではできないような巨大なエネルギーが協働によって生まれる。常に新しい相手と挑戦し続けるというACKのコンセプトにも、私たちは深く共感しています」

マリサ・チャラワノンという人物のユニークさについて、ステファノはこう分析する。「彼女は韓国出身で、日本的なミニマリズムの感性を持ちながら、装飾性が強く最大主義的なタイの文化圏の中で生きている。この純度と装飾性の対比が彼女の内側で出合い、見たことがない新しいものが生まれるのですね」

都市のバンコク・クンストハレと、自然に開かれたカオヤイ・アート・フォレスト。この二つの拠点は、それぞれ異なる土地の文脈を持ちながら、制度や形式よりも先に、アートが生命を宿すための条件を整えようとする、彼女の意志がそこには通っている。完成された答えを提示するのではなく、問いのなかに身を置くための環境をつくること──。

「タイという国を一つの“精神状態”だと考えている」という言葉を体現するように、マリサは、私たちが自然や他者、そして自分自身とどう向き合うべきかという本質的な問いを、投げかけ続けている。

マリサ・チャラワノンMARISA CHEARAVANONT

韓国に生まれ、ニューヨーク大学で美術史を専攻。現在はタイを拠点に活動を展開している。テート・モダン(ロンドン)のアジア太平洋収集委員会委員、ニュー・ミュージアム(ニューヨーク)の国際リーダーシップ評議会メンバーなどを歴任。2024年に非営利のアートスペース、バンコク・クンストハレを、続いて、自然と共生するカオヤイ・アート・フォレストを創設。

From Harper's BAZAAR art no.5

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