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【豊臣兄弟!】本能寺の変に繋がる予兆は本当にあったのか? 明智光秀(要潤)の謀反の動機として有力な説は?

  • 2026.7.3

【豊臣兄弟!】本能寺の変に繋がる予兆は本当にあったのか? 明智光秀(要潤)の謀反の動機として有力な説は?

2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。当時の文化や時代背景、登場人物について、戦国武将や城、水軍などに詳しい作家・鷹橋 忍さんが深掘りし、ドラマを見るのがもっと楽しくなるような記事を月1回お届けします。今回は、本能寺の変に至るまでの明智光秀の足取りなどをご紹介します。

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第25回「変事の予兆」では、タイトル通り、本能寺の変へ繫がる「予兆」のような、小栗旬さんが演じる織田信長と、要潤さんが演じる明智光秀の関係のほころびが描かれました。

歴史上の信長と光秀の間にも、予兆のようなものが存在したのでしょうか。本能寺の変が勃発する天正10年(1582)の光秀の足取りをたどりながら、ご紹介したいと思います。

信長に暴行を加えられた?

天正10年(1582)2月、信長より甲斐の武田氏攻めへの参陣を命じられました。光秀は3月5日に大軍を率いて出陣し、4月中には近江に戻っています。この時の陣中において、光秀は信長から暴行を受けたと伝わります。

美濃稲葉家が信長に、光秀が稲葉家の家臣であった那波直治(なにわなおはる)を引き抜いたことを訴えたため、信長は光秀に、那波直治を稲葉家に返すように命じました。ところが、光秀が命令に従わなかったため、怒った信長が暴行を加えたといいます(以上、金子拓『増補 信長家臣明智光秀』)。

真偽は明らかではありませんが、もし本当にこんな事件があったとしたら、信長と光秀の関係に変化をもたらすかもしれません。

光秀は腐った魚を出していない?

5月15日には、松下洸平さんが演じる徳川家康とその一行が、安土城(滋賀県近江八幡市)を訪れています。家康らの接待役を、信長から任せられたのは光秀でした。接待は5月17日まで続きましたが、光秀は京都や堺から珍しい品を取りそろえ、盛大に饗応したといいます。

家康の接待に際して、イエズス会宣教師ルイス・フロイスがまとめた『日本史』(第56章)には、信長と光秀がもめ、信長は一度か二度、光秀を足蹴にしたことが記されています。こちらも真相は不明ですが、家康への饗応(きょうおう)は、信長と光秀の対立点に位置づけられていたともいいます(柴裕之編著『図説 明智光秀』)。

なお、この時に光秀が腐った魚を出し、激怒した信長が接待役を解任したという逸話は、よくドラマなどでも描かれますが、信頼性の低い史料にしか見られず、作り話だと考えられています(桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』)。

今こそ、明智が天下を獲る時?

その後、光秀は信長の命令で、今度は西国に出陣することが決まります。信長に仕えた太田牛一が著わした『信長公記(しんちょうこうき)』によれば、光秀は5月26日に、領国の近江国坂本(滋賀県大津市)を発ち、丹羽亀山城(京都府亀岡市)に入りました。翌5月27日、光秀は亀山から愛宕山(京都市右京区)に参詣します。光秀は思うところがあったのか、ここで二度、三度、くじを引いたといいます。

翌日には、連歌会を開催しました。発句は有名な「ときは今 あめが下知る 五月哉(今、時は、五月雨の降りしきる五月である)」です。「今こそ、土岐(とき)氏の庶流である明智が天下を獲る時だ」という、裏の意味が隠されているとも解釈されています(太田牛一箸・中川太古訳『現代語訳 信長公記』)。

そして、6月2日、本能寺の変が勃発するのです。

光秀の動機は?

光秀が本能寺の変を起こした動機については、様々な説があります。

信長の酷い仕打ちに、光秀が恨みを募らせたことによるとする「怨恨説」。光秀が天下を獲るために、信長を討ったとする「野望説」。尾上右近さんが演じる足利義昭(よしあき)を京都に迎え入れ、室町幕府を再興しようとしたとする「足利義昭黒幕説」。イエズス会が、朝廷や光秀とともに仕組んだとする「イエズス会黒幕説」などが知られますが、近年注目されているのが、次に述べる「四国政策転換説」です。

四国政策転換説

信長は足利義昭を奉じて上洛した永禄11年(1568)から、義昭・信長と敵対する阿波(徳島県)の三好氏を牽制するため、磯部寛之さんが演じる土佐(高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と手を結んでいました。その際に、織田と長宗我部の取次(交渉担当者)を務めたのが明智光秀です。

光秀は、彼の重臣である斎藤利三(としみつ)の兄弟・石谷頼辰(いしがいよりとき)の義妹が、元親の正室という関係を活用し、長宗我部氏との交渉を進めたといいます。織田政権は元親の四国進出を許容し、両者の関係は良好でしたが(津野倫明『人をあるく 長宗我部元親と四国』)、やがて崩壊していきます。天正9年(1581)末、阿波の三好氏は羽柴秀吉を通じて、信長に従属しました。

信長は四国政策を転換し、元親に土佐本国と阿波国南半分のみを長宗我部領とする国分(くにわけ/領土分割)を提示します。しかし、元親はこれに反発し、織田家と断交しました。

天正10年(1582)5月には、信長の三男・信孝(のぶたか)を総大将とする四国征伐軍が編制され、実施日を6月3日と定めた出兵が進められていきます。これは、長宗我部との取次を務めてきた光秀にとって、政治的立場を失う大事件でした。

光秀には、織田家の四国政策を再び変えさせるか。織田家から出奔するか。もしくは、謀反を起こすか。この3つの選択肢しか残されていなかったといいます(以上、鈴木将典「明智光秀――日本史上で最も有名な「裏切り者」の実像」 柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田編』所収)。

光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかは、今も謎のままです。ドラマではどのように描かれるのか楽しみですね。

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