1. トップ
  2. 恋愛
  3. 「私は殿堂入りパーティーに呼ばれなかった」権藤博が語る“星野仙一の最期”と、最後まで埋まらなかった二人の距離感

「私は殿堂入りパーティーに呼ばれなかった」権藤博が語る“星野仙一の最期”と、最後まで埋まらなかった二人の距離感

  • 2026.3.28

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第7回は、星野の現役最晩年に中日ドラゴンズの一軍投手コーチを務めた名伯楽・権藤博に話を聞いた。【権藤博インタビュー全2回の2回目/第1回を読む】

年上の大物、実力者の懐に入り込む

1998(平成10)年、横浜ベイスターズの監督として日本一に輝いた権藤博は、星野仙一のことを「運のいい監督だった」と言い、「監督とGMの視点を持つ男」と評した。改めて、その理由を問うた。

「星野は運のいい監督だったと思います。監督というのは、いくら優秀でも選手に恵まれなければ勝つことはできませんから。ただ、彼の場合はたまたま選手に恵まれたわけではなくて、GM的な視点を持って、チームの足りないところを見極めて選手を獲得していた。それは、強くないチームだから可能だったんだと思うんです」

星野が最初に監督を務めた1987(昭和62)年の第一次中日ドラゴンズから始まり、96~01年の第二次政権、02~03年は阪神タイガース、そして11年からは東北楽天ゴールデンイーグルス。いずれも、優勝から遠ざかっていたチームを率いることになり、大胆な血の入れ替えを断行して、チーム強化を推進した。

「強くないチームだから、思い切ったチーム改革をすることができた。そして、中日、阪神、楽天と、それぞれの球団で優勝した。きちんと答えを出してきたから、球団も星野の要望を認めてきた。その辺は球団フロント、親会社もうまいこと転がされているわけだけれど、それが星野の持ち味であり、きちんと結果を出しているわけだから誰も文句のつけようがないんですよ」

ドラゴンズの親会社・中日新聞社の社長であり、長きにわたってオーナーを務めた加藤巳一郎(みいちろう)は熱烈な「星野派」として知られている。加藤オーナーは、星野のよき理解者だったことで有名だ。

「巳一郎さんは、“星野、星野”と、何でも認めていましたからね。星野は川上哲治さんにもかわいがられていたように、年上の大物、実力者に入り込んでいくのがとても上手だった。選手には徹底的な闘争心を求めて厳しく接していく。その一方では実力者の懐に屈託なく飛び込んでいく。それが星野の大きな特徴だと思います」

チームを俯瞰して戦力状況を冷静に分析し、足りない部分は積極的なトレードで補っていく。それこそ、権藤が口にした「GM的視点」だった。そのためにはオーナーに代表される実力者、有力者からの後ろ盾が欠かせない。こうして戦力を整えた上で、選手たちには徹底的な闘争心を求める。そのためには鉄拳制裁も辞さない厳しさがあった。それが、星野流統率術である。権藤の見立ては明快だった。

北京五輪——監督人生唯一の屈辱

権藤の発言にあるように、ドラゴンズ、タイガース、そしてイーグルスと、指揮を執った3球団すべてで、星野は胴上げを経験している。しかし、その監督人生を振り返ってみると、唯一の例外がある。2008年、北京五輪である。

「金メダル以外はいらない」と宣言して臨んだオリンピックの大舞台。しかし、星野ジャパンは北京の地で無残に散った。準決勝で韓国に敗れ、続く3位決定戦でもアメリカに完敗。上位3カ国には5連敗を喫し、よもやの4位に終わった。帰国後も星野を責める論調はしばらくの間続く。星野の監督人生において、唯一といっていい屈辱だった。

「オリンピックの大舞台など、そうそううまくいくものじゃないから。短期決戦は難しいんです。昨年の阪神のように、ペナントレースで10ゲーム以上引き離していたって、日本シリーズで負けることもある。結果的に野球の神様は星野に微笑まなかったけど、それはしょうがないこと」

このとき、星野の参謀を務めたのは、東京六大学時代からの盟友である田淵幸一、山本浩二だった。北京五輪前年に発売された星野の自著『星野流』(世界文化社)には、こんな一節がある。

《人間、熱くならなければいい仕事ができるはずがない。大学時代から同期の田淵(ヘッド兼打撃担当)にしても山本浩二(守備・走塁担当)にしてもそれは同じで、三人で生涯一度の「同じユニホーム」を着て「同じ目的」に挑めることの喜びの中にいる。(中略)仲は確かにいいけれど、みんな監督もなにもやってきて決して仲良し軍団なんかではない、ということはここでも断言しておきたい。》

しかし、世間はそう見なかった。メダルを獲得できなかったことで、大会終了後には「お友だち内閣」と批判を受けることになる。本連載において、田淵は次のように、反省の弁を述べている。

《オレ自身は、決して《お友だち内閣》だとは思っていなかったし、公私を分けるために、《仙ちゃん》ではなく、《監督》と言うように意識していたけど、浩二は普段通りに星野のことを《仙》と呼んでいた。やっぱり、他人から見れば、それは《お友だち内閣》と言われても仕方なかったと思うな》

それを受けて、権藤は言う。

「やっぱり、そういうことをやっておったんじゃ勝てないですよ。大学時代からのつき合いがあるから気心は知れているかもしれない。でも、それだけでは勝てない。現役時代から星野は、“オレがこの世界を牛耳って、天下を取るんだ”という思いで生きてきた。それを実現する最大のチャンスだったけれど、残念ながらああいう結果に終わってしまった……」

「燃える男」として、球界を盛り上げた

その後、星野と権藤の交流はほぼ途絶えた。野球人としてグラウンドで会うことはあっても、それ以外ではともに過ごす時間はほとんどなかった。最期に会ったのは星野が亡くなる1年ほど前だったという。

「最期に会ったのはハワイ・ワイアラエのゴルフ場だったかな? たまたま一緒になったんだけど、“もうハーフプレーしかできない、腰が痛くて歩けない”なんて言っていたし、かなり体調が悪そうだった。それから半年ぐらいかな、“星野が亡くなった”という連絡をもらったのは……」

2017年12月、東京、大阪で殿堂入り記念パーティーが開催された。多彩な交友関係を持つ星野ならではの二都市開催だった。しかし、権藤はこの会に出席していないという。

「だって、呼ばれていないもの。案内状もないのに出席することはできないから」

ともにエースナンバー「20」を背負った、ドラゴンズの先輩・後輩である権藤は、殿堂入りパーティーに招待されていなかった。権藤は続ける。

「現役時代から含めて、私はいろいろ知っているから、星野にとっては煙たい存在だったんですよ……」

小さく笑った後、権藤は改めて「星野が球界に遺したもの」を語り始めた。

「星野が野球界に残した最大のものは、《燃える男》として面白い野球を見せてくれたことだと思います。長嶋(茂雄)さんが《ミスタープロ野球》で野球界を盛り上げたのとはまた違った形で、野球界を大いに盛り上げた。そして、監督として、中日、阪神、楽天を優勝させたのは《燃える男》の真骨頂だったと思いますよ」

このコメントを受けて、「星野仙一をひと言で表現するならば?」と問うと、しばらく考えた後に権藤は小さく言った。

権藤博が考える星野仙一とは?――“闘将”

「星野をひと言で言い表すならば……、そうだな、《闘将》というのが、ふさわしいんじゃないかな? 《名将》というよりは、やっぱり《闘将》というのが星野らしいな。ああいうタイプの監督は珍しいと思いますよ」

かつて、毎日オリオンズ、阪急ブレーブス、近鉄バファローズを率いた西本幸雄もしばしば「闘将」と呼ばれている。西本を尊敬している権藤に、「星野さんも、西本さんも、《闘将》と呼ばれていますね」と水を向けると、権藤は小さく笑いながらつぶやいた。

「西本さんは本物の《闘将》、愛のある《闘将》。だけど、星野の場合はちょっと違う。愛もへったくれもなく、“とにかく勝ちたい”という、真の意味での闘う監督。その点は微妙に違うと思いますよ(笑)」

(次回・嶋基宏編に続く)

Profile/権藤博(ごんどう・ひろし)
1938年12月2日生まれ、佐賀県出身。鳥栖高校からブリヂストンタイヤを経て、1961年に中日ドラゴンズ入団。1年目から25勝、防御率1・70で最多勝利、最優秀防御率のタイトルを獲得。さらに、新人王、沢村賞に輝く。翌62年も最多勝となり、チームの大黒柱となる。当時、連投に次ぐ連投で、「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語も生まれたが、右肩を痛め、68年限りで引退。その後は、中日、近鉄、ダイエー、横浜で投手コーチを歴任。98年に監督に就任すると、横浜ベイスターズを38年ぶりの日本一に導く。2019年に野球殿堂入り。現在は野球解説者。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

元記事で読む
の記事をもっとみる