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【笠井信輔さん】フジテレビから独立直後にがんが発覚。その時、黒柳徹子さんからかけられた言葉とは?[ターニングポイント#3]

  • 2026.3.19

【笠井信輔さん】フジテレビから独立直後にがんが発覚。その時、黒柳徹子さんからかけられた言葉とは?[ターニングポイント#3]

アナウンサーとして第一線を走り続けてきた笠井信輔さん。テレビ人生の中には、仕事や家族、そして病気との向き合い方など、いくつもの転機があります。何を感じて、どうこうどう行動してきたのか。人生を前に進めるヒントを伺いました。第3回は、フジテレビからの独立、そして間髪入れずに始まった闘病について。

フリーになって1カ月半後に、血液のがんの告知。夢も希望もないですね

——局アナとして32年半、『とくダネ!』を担当して20年半が過ぎた2019年9月30日。56歳でフジテレビを退職して、フリーアナウンサーに転身した理由は何でしたか?

この会社は僕を必要としていない、ということがわかったから。組織の中での自分の限界を見極めたということです。

『とくダネ!』のニュースコーナーで毎日30分しゃべってきたんですが、15年もたつとそれが10分になり、5分になり、最終的には1~2分。デスク業務の比重が重くなっていったんです。

もちろん、舞台裏の仕事もおもしろい。でも、僕はしゃべっていたいんです。

——60歳の定年まであと4年というタイミングの決断ですね。

最初に相談した小倉(智昭)さんからは、「笠井くんは映画、演劇という専門分野を持っているからやっていけるよ」と背中を押していただきました。

たしかに、「東京国際映画祭」の総合司会や「キネマ旬報ベスト・テン」授賞式の司会、講演会など社外の仕事がどんどん入ってきたタイミングでもありました。

妻は自分もアナウンサー経験があるから、僕の「しゃべりたい」という気持ちがわかったんですね。「それならがんばってください」と言ってくれました。ただし「辞めるのが5年遅かった」とも。

確かに、いまフリーで活躍している福澤(朗)くん、羽鳥(慎一)くんは40代で日本テレビを辞めている。テレビ朝日の富川(悠太)くんもそう。ところが、フジテレビで40代に引く手あまたで辞めた男性アナウンサーは逸見(政孝)さんしかいない。それくらいフジテレビって居心地がいい会社なんです。

——ところが、フリーアナウンサーになるのとほぼ時を同じくして、悪性リンパ腫という血液のがんが判明。予兆はありましたか?

最初の異変は、退職する2カ月ほど前から始まった排尿障害。膀胱がんの克服経験を持つ小倉さんに相談したら、「すぐに病院で検査してもらえ」と言われました。

検査に4カ月を費やして、悪性リンパ腫の告知を受けたのは、フリーになって1カ月半後の11月22日。がんの検査を受けながら退社して、この告知ですから夢も希望もないですよね。

その後に受けたセカンドオピニオンで、正確な病名は「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」で、全身にがんが散らばったステージⅣであること。入院期間は早くて4カ月、長ければ1年に及び、予後がよくないタイプであることなどがわかりました。

初めて死を覚悟したのが、このときです。

——ご家族に悪性リンパ腫であることを伝えたときの反応はいかがでしたか?

いちばん辛かったのが、16歳だった三男の「僕とスキーに行けないの?」という第一声でしたね。3カ月前に約束したときは僕もとてもうれしかったのに、連れて行けない……。

思わず妻の前で泣いたのは、この時だけです。妻は「来年、連れて行けばいいのよ」と、前向きに励ましてくれましたが……。

インスタグラムのフォロワーが300人から一気に30万人に!

——告知から1カ月後の12月19日、古巣でもある『とくダネ!』に生出演して、病状と心境を語った当日に入院しています。

実は、なるべく早く入院して抗がん剤治療を始めたほうが良い、と勧められていたんです。そのころは尿漏れに悩まされたり、全身に耐えられないほどの痛みが広がって鎮痛剤が手放せなくなっていましたから。

でも、“辞めアナ特需”というのがあって、他局からもたくさん仕事のオファーをいただいていたんです。

ただ、2週間後にずっと夢だった『徹子の部屋』(テレビ朝日系)の収録が決まっていました。「どうしても出たい!」と、入院を2週間待ってもらいました。「『徹子の部屋』だけ特別扱いはできない」とマネージャーに言われ、入院までの2週間、体の痛みと闘いながら、どの仕事もお断りせずにやり遂げようと覚悟を決めました。

実際、徹子さんが収録終わりにかけてくださった「元気になったらまたいらっしゃいね」という言葉は、病気を乗り越える大きな励みになりましたね。その結果、11カ月後に「完全寛解」した僕を再び番組に呼んでくださったのですから、感激です。

——入院4日目には『笠井TIMES~人生プラマイゼロがちょうどいい~』というブログを開設しています。きっかけは何でしたか?

誤解を恐れずに言えば、死んでいく姿を記録すれば価値が出る、と思ったんです。僕はテレビマンですからね。ワイドショーってそういうもの、ニュースってそういうものなんです。

実は、入院の少し前から始めたインスタグラムのフォロワーが300人しかいなかったのに、がんを告白したら一気に30万人になりました。皆さんがどれだけがんに関心を持っているか、ということですよね。

病室から発信するブログのコメント欄にも、「私もがんです」「家族ががんです」「笠井さんを追いかけてがんばります」という人がどんどん増えていきました。

——膨大なコメントのすべてに目を通していたそうですね。

これはもう、自分一人の命じゃないなと思いました。最後まで続けなくてはいけない。「帰ってきました、大丈夫です、ステージⅣでもがんばります」っていうことを見せるのが使命だと思えたのが、がんとしっかり向き合えるようになったターニング・ポイントだと思っています。

それは紛れもなく、名前も知らないSNSフォロワーの皆さんのおかげです。

——ブログでは抗がん剤の副作用に耐える辛そうな姿もさらされています。一方で、節分に鬼の仮装をしたり、ウィッグ選びでファッションショーをしてみたり……

カッコつけずに素直に伝えよう、と心に決めたんです。

これこそ、がん当事者にしかできないこと。長年、「伝え手」として生きて来た自分に巡ってきたチャンスだと受け止めました。

——チャンス、ですか?

がんになってよかったとは思わないけれど、がんになったことはマイナスだけじゃない。プラスになったこともあるんです。

たとえば、子どもたちとこんなにもたくさんの時間を一緒に過ごせるなんて、がんになったからこその出来事です。

入院中、三男が僕の母に作り方を習いに行った卵焼きを差し入れてくれたときは、抱きしめたいくらい感動しました。それがきっかけで三男は料理をするようになって、今では妻が仕事に出かけていると、「僕が昼ごはんを作る」とキッチンに立ってくれています。

次男も風呂掃除や食器洗いなど、家事を率先してやってくれました。

そして、感謝してもしきれないのは、妻ですね。がん告知を受けて、死さえ覚悟して気弱になりがちな僕を、涙を見せずに笑顔で励まし続けてくれました。

入院中もお正月にはミニおせちと祝箸、節分には福豆や恵方巻、ひな祭りには菱餅やひなあられを持ってきてくれて、家族が集まった病室がいつもの“笠井家”になるのが何よりうれしかった。

僕が病気になったことで家族の想いが一つになって、「ワンチーム」になってきているのかな、という実感がありました。

笠井信輔さん Profile

かさいしんすけ●フリーアナウンサー
1963年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、アナウンサーとしてフジテレビに入社。「とくダネ!」など、おもに情報番組で活躍。2019年10月、フリーアナウンサーに転身。直後、ステージ4の悪性リンパ腫に罹患していることが発覚。12月より入院。ブログで闘病の様子を綴った。2020年6月に完全寛解し、その後仕事に復帰。著書に『僕はしゃべるためにここ(被災地)へ来た』(産経新聞出版)(新潮文庫)、『生きる力~引き算の縁と足し算の縁~』(KADOKAWA)など。

笠井信輔さんのターニングポイント③
がんを告白したら、インスタグラムのフォロワーが一気に30万人に。これはもう、自分一人の命じゃない、最後まで続けなくてはいけない。名前も知らないSNSフォロワーの皆さんのおかげで、がんとしっかり向き合えるようになりました。

撮影/橋本哲

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