1. トップ
  2. ライフスタイル
  3. 災害時に臨月だったら? 3.11に福島県で出産したママの実体験

災害時に臨月だったら? 3.11に福島県で出産したママの実体験

  • 2026.3.2

東日本大震災が発生した2011年3月11日。震度6弱を観測した福島県いわき市で、震災の起きた2時間後に初めての出産を経験したAさん(当時25歳)。その時に生まれた娘さんは、この春中学校を卒業します。入院していた病院の基礎部分に大きなひびが入ったため、外へ避難し、民家を借りて出産した当時の様子を聞きました。

震災の2時間後に民家を借りて出産

──震災の日の様子を教えてください。

里帰り出産のためにいわき市に帰省をしていました。陣痛の定期的な痛みを感じて、入院したのが11日の朝でした。栃木県の自宅にいた夫も「いよいよ出産かも」ということで、お昼前には病院へ到着していました。

地震が発生したのは、お腹の赤ちゃんの心拍や、子宮の収縮を測るためのモニターベルトを巻いている最中でした。立っていられないほどの揺れの中、ぐわんぐわんと揺れるモニター装置が倒れてこないよう、看護師さんがなんとか病室の外へ押し出してくれました。揺れがおさまり、外来患者や退院する患者の対応が終わってから、お医者さんと看護師さん数人と建物の外へ避難しました。行き場がなく腰かけた駐車場の端っこにあるブロックが、ひんやりと冷たかったことを覚えています。

そのうち雪がちらついてきて、地震は起きるし雪まで降ってくるし、どうなってしまうんだろうと思いました。きっと私が不安そうな顔をしていたんでしょうね。女性の副院長先生が「お産は病院じゃなくてもどこでもできるから」「大丈夫だからね」と声をかけてくれて、少しホッとしました。

──その後、どのように出産されたのですか?

小さな個人病院で建物も古かったので、地震の揺れで基礎部分に大きなひびが入っていました。それで、病院の中に戻るのは危険だから、車の中で出産をしようという話になったんです。病院のスタッフの方たちが大きい車を探して、ブルーシートで覆うなど、準備を進めていました。車の中で一度診察を受けると、子宮口が5、6センチ開いていて「え、本当にこのまま車で産むのかな?」と、とても不安でした。

ちょうどその時に向かいの家の方が通りかかって、「先生、お産があるの? それならうちを使って」と言ってくれたんです。地震から1時間が経とうとしているころでした。それから陣痛の痛みが引くタイミングを見計らって、夫や看護師さんに支えられながら歩いて家に向かいました。家主の方が布団を敷いてくれていて、倒れ込むように横になりました。そのお宅は建物の被害こそなかったものの、床には食器が散乱していて、ガラスや陶器のかけらをほうきで掃いて片付ける音が聞こえてきたのをよく覚えています。

──専門的な設備が整っていなくても、問題はなかったのでしょうか?

詳しいことはよく覚えていないのですが、一般の民家でも特に問題なく出産の準備は進んでいたようです。水道とガスは止まっていましたが、幸い電気は通っていたと記憶しています。あれよあれよという間にお産が進み、16時33分に無事出産することができました。会陰(えいん)の縫合の処置などもしてもらいましたね。

──きっと言い表せないぐらい大変な状況でしたよね。母子共に無事で本当によかったです。出産後はどのように過ごされたのですか?

その日はそのまま泊めてもらって、翌日には建物の安全が確認できたので病院に戻りました。備蓄されていた水や食材を使って一度だけおにぎりなどの食事を提供してもらいました。あとは、実家の母が持ってきてくれたものを食べていましたね。

ただ水が止まっていたので、私も娘も体を洗うことができませんでした。娘は一度だけ沐浴指導のときに体をきれいにしてもらいましたが、着替えたのはその時の一回きりでした。

品薄が続き、遠方の友人に物資を送ってもらいながら育児

──病院にはいつまでいましたか?

本来は15日まで入院する予定でしたが、12日に福島第一原発が爆発したニュースを見て、「早く退院できないか」と院長先生に相談しました。当時は原発事故に関する情報が錯綜していて、いわきの町からどんどん人がいなくなってゴーストタウンのようでした。親戚や友人からも遠方へ避難すると連絡があり、不安と焦りが募りました。

病院の看護師さんの中には、お子さんを東京まで避難させてから戻ってきてくれた方もいました。また「子どものそばにいたいので休ませてほしい」と、震える声でお願いしている看護師さんと院長先生のやりとりも聞こえてきました。その時入院していたのは私たち親子だけだったので、自分たちのために残って仕事をしてくれて、申し訳ない気持ちとありがたい気持ちでいっぱいでした。

その後、産後の診察を受けてから、予定より1日早い14日の夕方に自宅のある栃木へと出発しました。

──自宅まではスムーズに戻れましたか?

高速道路が使えなかったので、一般道で帰りました。通常なら海沿いの道を使うのですが、余震が続いていて津波の危険があったので、内陸の道を利用しました。大きな渋滞などはありませんでしたが、道路が隆起している箇所などがあり、普段は3時間程度の道のりが4時間以上かかりました。

またガソリンの給油にも制限があったので、いわきで夫がガソリンスタンドに並んで入れられるだけ給油してくれていたものの、途中で足りなくなるのではとヒヤヒヤしました。

──自宅に戻ってからの生活はどうでしたか?

たまたま自宅の近くに携帯電話の基地局があって計画停電には入らないエリアだったので、電気は普通に使うことができました。でも飲料水をはじめさまざまな生活用品が品薄だったため、遠方の友人から水や紙オムツ、粉ミルクなどを送ってもらいました。

──ご自身の経験から、妊娠中に災害時に備えておくなら何が必要だと思いますか?

通常の防災グッズに加えて、出産準備品、特に紙オムツやおしりふき、粉ミルクなどの新生児用品を多めに用意していると安心だと思いました。あとは母親が食べるための食料ですね。母乳のことを考えると、塩分や油分の多いインスタント食品ばかり食べることに抵抗がありました。最低限、お米と炊飯用のガスコンロと鍋があると安心かなと思います。これは災害時に限りませんが、母子手帳と出産予定の病院の連絡先も常に携帯しておくと、いざという時に困らないのではないでしょうか。

ただ振り返ってみれば、足りないものも周りへ助けを求めれば意外となんとかなるものだなと感じました。そして出産は副院長先生の言ったとおり、「どこでもできる」ものだと身をもって知りました。もちろん母子ともに健康な状態だったことも、私たち親子にとってはとても幸運なことでした。そして病院の先生や看護師さんをはじめ、たくさんの方が自分たちのために心と手を尽くして命を守ろうと動いてくれたことが、本当にありがたかったです。もっと大変な人がたくさんいた中で、自分たちは恵まれていたんだなと思いました。

周囲に頼る勇気も必要

想像を絶するような混乱の中での出産体験を語ってくれたAさん。最後に、思い出に残っているエピソードとして、震災のあった年の10月に世界的なぬいぐるみブランドであるシュタイフ社のテディベアが届いたことを話してくれました。これは、当時シュタイフ社の正規輸入代理店だったリヤドロジャパンが、震災後に被災地で生まれた子どもたちへ贈ったもので、病院を通して連絡があったといいます。連絡をくれた病院のスタッフもとても喜んでいたそうで、「よりによってなんでこんな日に……」と、自分を責めていた気持ちが少し救われたと語ってくれました。

また震災に加え原発事故という特殊な状況下だったため、放射性物質の影響を心配しながら育児をすることがもっともプレッシャーを感じつらかったそうです。

災害時、妊婦は高齢者や幼児、障がい者などと並んで特別な支援や配慮が必要となる「要配慮者」とされています。自身で備えることも大切ですが、周りの方や医療関係者にも頼る勇気を持ってこそ、困難な状況を切り抜けられるのかもしれません。

<執筆者プロフィル>
那須 あさみ
フリーランスライター。幼児、小学生、中学生の4児の母。さまざまな年齢の子どもと一緒に家庭で備えられる防災を模索中。

元記事で読む
の記事をもっとみる