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新幹線で、車窓から一瞬だけ見える“謎のトンネル” 現役鉄道社員が明かす“意外な正体”

  • 2026.4.15
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出典:photoAC(※画像はイメージです)

皆さま、こんにちは。現役鉄道会社社員の福本明文です。

日本の鉄道技術の結晶であり、世界に誇る高速鉄道「新幹線」。その歴史の幕開けは、東京オリンピック開催直前の1964年(昭和39年)10月1日に開業した東海道新幹線であるというのが一般的な認識です。しかし、実はその四半世紀も前、戦前の日本において、すでに現在の新幹線の礎となる壮大な計画が存在していました。それこそが、通称「弾丸列車」と呼ばれる広軌新線計画です。

今回は、知られざる新幹線のルーツ、弾丸列車の計画とその遺構についてひもといていきましょう。

静岡県に残る不思議な地名「新幹線」

静岡県田方郡函南町(かんなみちょう)には驚くような地名が存在します。その名も「新幹線」。東海道新幹線の新丹那トンネルのすぐそばに位置するこの地区の地名にはどんな由来があるのでしょうか。

もともとこの地は、大正から昭和初期にかけて難工事を極めた東海道本線「丹那トンネル」の建設時に、作業員の宿舎が設けられた場所でした。その後、1940年(昭和15年)に弾丸列車計画が具体化し、新丹那トンネルの工事が始まると再び多くの工事関係者が移り住んで一つの集落を形成しました。この集落がいつしか「新幹線」と呼ばれるようになり、現在も地名としてその名をとどめていると言われています。

ユーラシア大陸を目指した「弾丸列車計画」の全貌

1930年代後半、日本の鉄道輸送力は限界に達しつつありました。特に東海道本線と山陽本線の混雑は激しく、抜本的な対策として考案されたのが広軌(標準軌)による新線建設です。

当時の在来線は線路の幅が1,067mmの狭軌でしたが、弾丸列車計画では国際標準である1,435mmの標準軌を採用する予定でした。東京〜下関間を最高時速150kmから200kmで結び、東京〜大阪間を4時間半、東京〜下関間を約9時間で走破することを目指しました。

さらにこの計画は国内だけにとどまりません。下関から先は対馬海峡を貫く「関釜海底トンネル」を建設し、朝鮮半島の釜山へとつなぐ構想でした。そこからさらに中国大陸の北京、そしてシンガポールや、シベリア鉄道を経由してヨーロッパまで直通運転を行うという、まさに「大東亜鉄道」と呼ぶべき地政学的な野心を含んだ超巨大プロジェクトだったのです。

戦争による中断と奇跡のスピード開業

1940年に帝国議会で予算が承認されると、用地買収やトンネルの掘削工事が各地で一斉に始まりました。しかし、太平洋戦争の戦況が悪化するにつれ、資材や資金は軍事優先へと回され、1943年(昭和18年)に工事はついに中断されてしまいます。

戦後、復興が進むにつれて東海道本線の輸送力不足は再び深刻な課題となりました。そこで1959年(昭和34年)、弾丸列車の計画を受け継ぐ形で東海道新幹線の建設が決定します。驚くべきは、着工からわずか5年という異例の短期間で開業にこぎつけた点です。

これを可能にしたのが、戦前の弾丸列車計画で確保されていた「遺産」でした。まず、東京〜新大阪間の多くの区間で戦前に用地が買収されていました。また、建設途中で放棄されていたトンネルや橋梁の土台が活用されたと言われています。

もし、戦前の弾丸列車計画がなければ、東海道新幹線が1964年に開業することは不可能だったでしょう。

今も新幹線が走る「戦前のトンネル」

現在、私たちが東海道新幹線を利用する際、実は戦前に掘られた構造物の中を通り抜けています。その例が、静岡県の「日本坂トンネル」です。

このトンネルは戦時中に弾丸列車用として着工・完成(あるいは大部分が完成)していたもので、戦後は一時的に東海道本線の線路として使われていた時期もありましたが、最終的に新幹線用に整備されました。車窓からは一瞬で通り過ぎてしまいますが、現地でその坑門(入り口)を眺めると、重厚な風格に趣を感じ取ることができるでしょう。

一方、山陽新幹線については事情が異なります。新大阪以西の弾丸列車計画用地は、戦時中に半ば強制的に買収された経緯から多くが元の地主に返還されました。そのため、1970年代に建設された山陽新幹線は弾丸列車のルートをなぞることができず、より山側を貫くトンネルが多い現在のルートを選ばざるを得なかったのです。

弾丸列車が夢見た「鉄道像」

弾丸列車の計画で興味深いのは、今の新幹線のような「電車方式」ではなく「機関車牽引方式」を想定していた点です。

現在の新幹線は、車両に分散してモーターを搭載する「動力分散方式(電車)」ですが、弾丸列車は巨大な電気機関車が客車を引くスタイルが計画されていたそうです。さらに、都市部以外は空襲による変電所の破壊を想定して非電化での運行が検討されていました。そこでは、世界最大級の蒸気機関車が時速150kmで疾走する計画さえありました。

もし、戦火に邪魔されず、蒸気機関車が引く弾丸列車が大陸まで走っていたとしたら、日本の鉄道は今とは全く違うものだったのかもしれません。

今に生きる「未完の夢」

1964年の東海道新幹線の開業から60年以上が経過した日本の新幹線。その快適で安全な旅を支えているのは、かつてこの国が激動の時代に抱いた壮大な夢の跡でした。函南町の「新幹線」という地名や、今も現役で列車を支える古いトンネルは、弾丸列車という「未完の夢」が確かに存在した証しといえるでしょう。

次に新幹線に乗る際は、その速さの裏側に眠る「戦前の記憶」に少しだけ思いを馳せてみてはいかがでしょうか。



ライター:福本明文
大学卒業後、鉄道会社に総合職として入社し、鉄道業界を15年以上経験。鉄道部門だけでなく、関連事業部門のタクシーやバス、小売りなどを幅広く経験。現在はWebライターとしても活躍し、広報を担当した経験からコラム記事の執筆からSNSへのコンテンツ提供まで幅広く活躍中。


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