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ヴァレンティノ・ガラヴァーニという生き方。クチュール界の巨匠が辿った、美しい軌跡

  • 2026.1.26

ヴァレンティノ・クレメンテ・ルドヴィコ・ガラヴァーニは、1932年5月11日、ミラノとジェノヴァの中間に位置するヴォゲーラに生まれた。ヴォゲーラはとても静かで、目立たない町だ。そんな小さな町出身のガラヴァーニだが、今年の1月19日に93歳で亡くなるまでに、彼はファッションとスタイルの世界を風靡し、触れるものすべてにある種の美しさをもたらした。華とインパクトがあり、グラマラスで凛とした、フェミニンな美しさを。

「I love beauty—it’s not my fault(美しいものが好きで、仕方がないのです)」と肩をすくめながらガラヴァーニはかつて言った。そんな格言を残した彼は、女性を魅了、そして虜にする術をファッションに見出した。(駆け出しのころは女性の顧客しか抱えていなかったが、やがてその対象の幅を広げ、さまざまなクライアントがヴァレンティノVALENTINO)のハイセンスな服に身を包むことになる)。

ミラノのアカデミア・デラルテでフランス語とファッションの両方を学んだガラヴァーニは、17歳でパリに渡り、エコール・デ・ボザールとパリ・クチュール組合学校に在籍。その後、1951年に、アテネ出身のクチュリエ、ジャン・デセスに弟子入りした。デセスは卓越したドレーピングと鮮やかな色合いのイブニングガウンを、ヨーロッパの王室や上流社会の女性のために手がけており、ファッションデザイナーのジャクリーヌ・コンテス・ド・リベ伯爵夫人もそのひとりだった。

ある日、パリでオレグ・カッシーニからドレスデザインを頼まれたド・リベは、そのことをデセスに話した。「どうすればシックな絵を描けるか、わからないんです」と言う彼女をデセスは面白がった。「私のところにイタリア人のイラストレーターがいるんだが、もう少しプラスで稼ぎたいと思っているはずだから、仕事終わりに喜んで代わりにデッサンを描いてくれると思う」。デセスの言っていたイラストレーターこそがガラヴァーニで、そこから彼とジャクリーンの間に友情が芽生えた。

デセスのメゾンに在籍していたころ、ガラヴァーニはドレープを贅沢に入れた、刺繍のドレスのコレクションを制作した。スケッチのみの架空のプロジェクトではあったが、何メートルもの青いシフォンを使用したデイドレスや、花のカメオの刺繍を施したイブニングドレスなどを彼は着想。ぴったりと体に沿うイブニングドレスは、胸元にドレープされたピンクとイエロー、ブラウンが背中越しに床まで伸びるデザインで、どちらもチネチッタ(“イタリア映画の聖地”として知られる、ローマ郊外にある映画撮影所)のスターが纏うのにふさわしいものだ。

(1992年にヴァレンティノの30周年記念パーティーと展覧会を開催した際には、世界中から人がローマに集まった。そして並外れた技術を誇るヴァレンティノのアトリエは、ガラヴァーニが初期のころに描いたこの“夢のドレス”たちを密かに製作しており、スケッチにとどまっていたデザインに命を吹き込んだ。実物のドレスはガラヴァーニが最初に構想したときと同じくらい、息を呑むほどに美しい。

リチャード・バートンとエリザベス・テイラーの1枚。こぼれんばかりのダイヤモンドとエメラルドを身につけたエリザベス・テイラーが着用しているのは、ヴァレンティノによる黒いタフタとレースのドレス。コアフュールヘアはアレクサンドル ドゥ パリが手がけた。
リチャード・バートンとエリザベス・テイラーの1枚。こぼれんばかりのダイヤモンドとエメラルドを身につけたエリザベス・テイラーが着用しているのは、ヴァレンティノによる黒いタフタとレースのドレス。コアフュールヘアはアレクサンドル ドゥ パリが手がけた。

デセのアシスタントだったギ・ラロッシュが自分のクチュールメゾンを立ち上げるために独立すると、ガラヴァーニは彼の後を追った。数年間ラロッシュのもとで働き、その後、ロシア系ジョージア人のイレーネ・ガリツィン王女に従事(ガリツィンは華やかなイブニングウェアを制作し、“パラッツォ・パジャマ”を広めたデザイナーだ)。そして1959年、ガラヴァーニは父親と家族ぐるみで付き合いのあった親しい友人の支援を得て、自分のメゾンを立ち上げた。

その間に、ある人物に出会う。

つい先日、ジャンカルロ・ジャンメッティはガラヴァーニとローマのカフェで初めて会ったときをこう振り返った。「『おひとりですか?』と優しそうな人が聞いてきて、そうだと答えたんです。そしたら友人と同席していいかと聞かれて。もちろん、応じました」と当時のことを回想するジャンメッティ。「それで、ヴァレンティノが私の隣に座ったんです。あのときのことは、とてもよく覚えています」。日焼けした肌、艶やかな顔立ち、吸い込まれそうな青い目。ふわりと顔を縁取る黒い髪。「ヴァレンティノはフランス語で話しかけてきました。私が聞き返すと、謝ってきたんです。7年ぶりにパリから来たばかりで、ついフランス語になってしまうと。私がフランス語を話せるといいなと思っていたと」。実際、ジャンメッティは長年フランス語を勉強していた。「『もしまた会うことがあったら、これからはフランス語で話しましょう』と言いました。今でもそうしています。本当に驚きです」

ふたりは恋人として、親しい友人として、やがてビジネスパートナーとして、ガラヴァーニの生涯を通じてお互いにフランス語で話し続けた。

ヴァレンティノのブルーとホワイトのサッシュベルト付きジャンプスーツを纏い、夕暮れどきのサン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ広場に佇むモデルのヴェルーシュカ。
Vogue April 01, 1969 Fashion Featureヴァレンティノのブルーとホワイトのサッシュベルト付きジャンプスーツを纏い、夕暮れどきのサン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ広場に佇むモデルのヴェルーシュカ。

ガラヴァーニはすぐに、おしゃれなブティックが軒を連ねるコンドッティ通りに、豪華なフレスコ画で飾られたアパートを見つけたが、1年も経たないうちに経営危機に直面した。(本人曰く、原因はシャンパンなどを好む自らの“贅沢志向”だったが、単に家賃を滞納していただけだった)。彼とジャンメッティは、あっさりとサロンをグレゴリアーナ通りにある16世紀のパラッツォに移した。

(ちなみに、ジャンメッティは最近、コンドッティ通りのアパートを買い取り、自分のオフィスに改装した。リノベーションは建築インテリアデザイン事務所のスタジオ・ペレガッリのラウラ・サルトーリ・リミニが担当。どの部屋も壮麗な仕上がりで、元のフレスコ画を残した一部の壁を除き、壁にはシルバーの薄葉紙やシルクベルベットが張られており、エルヴェ・ヴァン・デル・ストラッテンの家具やアンティークが所狭しと置かれている。1959年当時は “贅沢志向”と呼ばれていたテイストは、今では崇高で絶対的なものになった)。

ガラヴァーニは徐々にファッション界で頭角を現し始めた。彼自身の輝くような美貌がマスコミを惹きつけたのは確かだが、ローマに立ち寄るスターたちにとって魅力的だったのは、彼の服だった。エリザベス・テイラーも『クレオパトラ』(1963)の撮影のためにローマを訪れときに、ヴァレンティノのもとへ出向いている。そのとき選んだ、裾にダチョウの羽飾りの帯がふたつが付いた、プリーツ入りの白いノースリーブコラムドレスを彼女は映画『スパルタカス』(1960)のプレミアに着て行き、世間の注目を集めた。

ローマにあるサイ・トゥオンブリーのアパートで撮影された1枚。「ヴァレンティノの白は、ヨーロッパ中で噂になっています。清涼感のある、鮮やかでパリッとした白、レースの白、柔らかいクリーミーな白。あらゆる白がオールホワイトルックで登場し、そのすべてが輝かしい。美しさとロマンを惜しみなく注ぎ込んだ完璧な作品を生み出すこの35歳のデザイナーは、若さあふれる現代のラグジュアリーの新たな象徴となっている」
Vogue March 15, 1968 Fashion Featureローマにあるサイ・トゥオンブリーのアパートで撮影された1枚。「ヴァレンティノの白は、ヨーロッパ中で噂になっています。清涼感のある、鮮やかでパリッとした白、レースの白、柔らかいクリーミーな白。あらゆる白がオールホワイトルックで登場し、そのすべてが輝かしい。美しさとロマンを惜しみなく注ぎ込んだ完璧な作品を生み出すこの35歳のデザイナーは、若さあふれる現代のラグジュアリーの新たな象徴となっている」

突如として、ガラヴァーニの服は『VOGUE』に掲載されるようになった。同誌に載るきっかけを作ったのは当時エディターを務めていたグロリア・シフで、彼女はヴァレンティノをジャクリーン・ケネディ・オナシスに紹介した人物でもある。オナシスは瞬く間にメゾンの熱狂的な支持者となり、ガラヴァーニやジャンメッティとカプリ島でバカンスを過ごすようになった。

1964年、ヴァレンティノのアニマルモチーフがデビュー。爽やかな白いサテンのスカートと玉縁ポケットのボクシーなゼブラ柄ジャケットを合わせたルックを『VOGUE』で発表した。そして1967年の秋にはモデルのヴェルーシュカが、チョコレートブラウンのミッドカーフセーターにゴールドのベルトを締め、虎模様の細身のパンツとドラマティックなロングコートを纏って誌面に登場。ローマの裏通りを歩くその姿は、フランコ・ルバルテッリが撮影した。ダチョウの羽根とビーズをあしらった赤いチュールのイブニングコートも掲載。コートを脱ぐと、際どいボディスとストラップレスの赤いコラムドレスがあらわになり、そのラフな着こなしはジェット族のシックな装いを思わせた。

大成功を収めた1968年春夏のホワイト・コレクションも忘れてはいけない。イタリアのスタイルアイコンであるマレーラ・アニェッリも、ゆるやかなAラインのフロアレングスのスカートに、ダンディなホワイトビーズのウエストコートと刺繍のジャケットをオーダーした大ヒットコレクションだ。このコレクションは、ローマにある画家・彫刻家のサイ・トゥオンブリーのアパートでヘンリー・クラークが撮影した『VOGUE』の特集で、エルザ・スキャパレリの孫娘であるマリサ・ベレンソンとベネデッタ・バルジーニにも着用された。

1959年、ガラヴァーニは「フィエスタ」と呼ばれる真っ赤なドレスを打ち出した。以来、このドレスはヴァレンティノの定番となり、鮮烈で気品のあるその赤色は、やがて彼のトレードマークになった。

注目度が増し、オードリー・ヘプバーンソフィア・ローレン、数々の王妃、ジャクリーン・ケネディ・オナシス、ナン・ケンプナー、リン・ワイアット、スーザン・グトフロインドなど、多くの女性たちがヴァレンティノに押し寄せるようになるにつれて、ガラヴァーニの邸宅は飛躍的に豪華になっていった。それまでローマにいるときは、ペルシャの細密画に覆い尽くされた布張りの壁と、トルコのサロンにふさわしいバンケットソファが置かれたペントハウスで主に過ごしていたが、業界随一のインテリアデコレーター、レンゾ・モンジアルディーノが室内装飾を手がけたアッピア街道沿いの邸宅に拠点を移した。

私自身、1980年代後半にガラヴァーニのもとを訪ねたが、その邸宅は息を呑むような美しさだった。初め、モンジアルディーノは円柱が並ぶ手の込んだ空間を、淡いグリーンのバティックや白い布張りの優雅なスレイベッドで飾り付けた。私が訪問したのはそれから数年が経ったころだ。更紗や1880年代もののベルベット、カラーリリーを隙間なく生けた中国の飾り壺などが隣り合わせるようになっており、邸宅の魅力は当初より増していた。至るところに、精巧にアレンジされた花々が飾られ、その後ろにはさまざまなオブジェ。フェルナンド・ボテロの絵画が1、2点、アレンジメントの裏に飾られているところもあった。

アッピア街道の邸宅を訪れるずっと前、80年代半ばにクチュールコレクションのために初めてローマに出向いたとき、私は勇気を振り絞ってヴァレンティノの厳かなクチュールサロンに入った。それはスペイン階段のすぐ近くにあり、趣向を凝らしたふたつの小部屋からは、隠しきれないほどの魅力が滲み出ていた。完璧な仕立てのスーツ、絢爛たるボールガウン、エレガントなイブニングドレス。サロンには華やかな暮らしを送る上で必要なものがすべて揃っていた。ガラヴァーニ自身のように、おかかえの運転手がいるような暮らしを送る上で必要なものが。

もちろん、サロンはエレガントに仕上げられたふたつの部屋だけではない。奥には何百人もの人が忙しなく働く広大なパラッツォがあり、その5フロアをメゾンのクチュールアトリエが占めていた。どの部屋を覗いても、そこには大勢の女性と数人の男性が、光の差し込む部屋で目の前の仕事に真剣に打ち込んでいる。(私が初めてここを訪れた数年後、イギリスの建築家兼デザイナーのピーター・ムーアとピーター・ケントによってクチュールサロンは少しだけ作り替えられた。シルバーの手すりが加わり、廊下には淡いグレーの大理石が敷き詰められ、ジュリアン・シュナーベルやキース・ヘリング、フランチェスコ・クレメンテの絵画が飾られ、とてもとてもシックな雰囲気になっていた)。

当時、ヴァレンティノのショーのフィナーレにはお決まりの流れがあった。音楽がかかった直後にガラヴァーニがランウェイに現れるのだが、そのときの彼は必ず、両手を上げ、指を手のひらに軽く叩きつけるという奇妙な拍手をしながら登場する。それは意気揚々としたジェスチャーであり、パフォーマンスだ。

1991年、それまでのキャリアについて話を聞くために、私はガラヴァーニと会う約束をした。場所はミニャネッリ広場を見渡せるエレガントな一室。アンティークと豪華な厚手のドレープカーテンが女優のセシル・ソレルを彷彿とさせる雰囲気の部屋だった。ガラヴァーニはなかなか語ろうとせず、隣のとてつもなく広い部屋で、アルテ・ポーヴェラの作品や1940年代もののアンティークに囲まれるように座っていたジャンカルロ・ジャンメッティから話を引き出すほうが、よほど簡単だった。

1970年、ジャックリーン・ケネディ・オナシスと。
Jacqueline Onassis Walking with Valentino1970年、ジャックリーン・ケネディ・オナシスと。

言うまでもなく、ガラヴァーニはカプリ島、ニューヨークロンドンなど、ほかにも多くの物件を持っていた。しかし、1995年に私が招待されたのは、彼が新たに手に入れた煉瓦と石造りの17世紀に建てられたシャトーだった。それは私道を行き、角を曲がると突然姿を現す。急な坂道の下に広がるウィドヴィル城。かつてフランス王ルイ14世の愛妾、ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールが住んでいた場所で、便利なことにヴェルサイユ宮殿からほど近い。

夕暮れの光の中、私はジャック・ヴィルツが手がけた見事な庭園を散策した。鮮やかなスミレ色のローズマリーが森を抜けるように咲き誇る花畑。壁に囲まれた庭にはバラや香り高い真夏の花々であふれていた。そして、邸宅そのものはえも言われぬ美しさだ。インテリアはガラヴァーニがアンリ・サミュエルとともに手がけた。エメラルド色のシルクベルベットのアームチェアやシノワズリ風のモチーフが、パームビーチを想起させる一種のファンタジックなムードと、厳かな外観と調和する心地良さをもたらす。

居間には、巨大なフランシス・ベーコンの絵が飾られており、微笑ましく思った。バラ模様の絨毯の上に座る抽象的な男性を描いたそれは、これまで見たベーコンの作品とは全く違い、ベーコンが描いたものの中では最もヴァレンティノっぽいと言える。

夕食に向かう途中、私は見事な庭園と魅惑的なインテリア、そしてジャンメッティとガラヴァーニが成し遂げてきたことすべてに感動していた。「あなたは、美を創造しました」。そう言った私の手を彼は握りしめ、泣きながら言った。「美を作ることこそが、美なのです」

Text: Hamish Bowles Adaptation: Anzu Kawano

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