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森英恵、ヴァイタルな生き方|あらためて、森英恵とは何者だったのか?

  • 2026.3.2
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“日本を代表する世界的ファッションデザイナー森英恵”。私たちは彼女を、敬意を込めてこう呼びます。けれど、森英恵の生涯は、その枠には収まりきらないものでした。使命感と尽きない情熱に彩られたその人生を象徴する言葉のひとつが、1961年に自ら生んだ「ヴァイタル・タイプ」。生誕100年のいま、彼女は単に振り返るべき過去ではなく、未来を照らす存在です。

ここから100年、あらためてこの先につなぎたい、尽きることのない、その「ヴァイタル」な生き様に迫ります。

1951年 新宿の洋装店から花開いたファッションデザイナーの道

1950年代なかば「ひよしや」開店のころ 写真提供=森英恵事務所 撮影=石井幸之助

キャリア初期の森英恵。結婚から3年後、洋裁学校で服作りを学んだことを生かし、新宿に洋装店「ひよしや」を開店。女性が仕事をもち社会で活躍することが珍しかった時代に、子どもを抱えながら顧客の注文に応じる日々は多忙を極めた。ここから世界のハナヱ・モリへ大きく羽ばたいていく原点。

あらためて、“森英恵”とは何者だったのか?

デザインしたのは“時代”

“ファッションデザイナー”としての活躍にとどまらず、複数の顔をもつマルチプレイヤーの先駆けといえる彼女がデザインしたのは“時代”。その先進的な活動と功績をご紹介します。

服で演出する、「衣装デザイナー」

映画『狂った果実』(1956年)のアロハシャツ。俳優の石原裕次郎、津川雅彦、岡田眞澄の衣装を、女性物のプリント柄生地で仕立てた。 1956年 所蔵=島根県立石見美術館 撮影=小川真輝

「ひよしや」のショーウィンドウに並ぶマネキンが映画関係者の目に留まったことから、映画の衣装デザインを開始。日本映画の黄金期、成瀬巳喜男や小津安二郎といった巨匠たちの作品をはじめ、数百本に及ぶ衣装を手掛けました。演じる人物像に寄り添ったデザインの経験は、ハナヱ・モリの特徴ともいえる“着る人を引き立てる服”の礎に。映像がモノクロからカラーへ変革した時代、衣装で新しい女性像を打ち出しました。

世界へ拓く、「ファッションデザイナー」

2004年7月7日ファイナルオートクチュールコレクション。孫の森泉がウェディングドレスをまといフィナーレを飾った。 写真提供=森英恵事務所

1965年のニューヨーク・コレクションでの成功、そして77年のパリ・オートクチュール組合への東洋人初加盟と世界を舞台に大きく羽ばたいた森英恵。西洋の美学に挑みながら、日本の美意識を世界標準の言語へと昇華させました。「東洋人のデザイナーに何ができる」という海外からの偏見を、不屈の精神と圧倒的な技術で跳ね返します。その歩みは、あとに続くアジアのクリエイターたちの道を切り拓く、壮大なフロンティア・スピリットそのものでした。

場を創り出す、「メディアオーナー」

1985年に放映開始、現在もBSテレ東で放送中のTV番組「ファッション通信」。海外コレクションのライブ感を日本に伝播。 ダイジェスト版「ファッション通信」2025年編集 写真提供=インファス・ドットコム

1966年に『森英恵流行通信』(後の『流行通信』)を創刊。服を売るだけではなく、どう着るかを提案し、さらにはファッションを文化にするための“言論の場”を創出。デザイナーが自らメディアを所有し発信するその姿勢は、当時は極めて先鋭的なもの。原宿に開いたライフスタイルショップ「スタジオV」から『スタジオボイス』を創刊し、『WWD』を日本に導入。海外の情報発信、クリエイターの発掘や交流に多大な貢献をしています。

美しさを日常に、「ライフプロデューサー」

多数の企業とライセンス契約を結び、生活に“デザイン”を提案。「ハナヱ・モリ」の洋服を着る機会がない人にもブランドイメージが浸透。 『婦人画報』1985年9月号 撮影=三谷哲朗

衣服をデザインするのみならず、どう着こなし暮らすのか、暮らし方全般をデザインするのがデザイナーの仕事だという考えのもと、1960年代からライフスタイル全般の意匠に着手。食器、タオル、家電に至るまで、「ハナヱ・モリ」ブランドの美学を家庭にまで浸透させました。当時、実用一辺倒だった日用品に“美しさ”という価値を吹き込み、人々の暮らしに豊かなエッセンスをもたらします。ファッションの意味をライフスタイルそのものへと拡張し、現在の私たちが求める「美しい暮らし」への道を当時から示していたのです。

次代を育てる、「文化振興家」

1978年に表参道に誕生した「ハナヱ・モリビル」は、モードの発信地として機能。建築家の丹下健三が設計を手掛け、様々なクリエイターの才能を集結させた。 ハナヱ・モリビル1978年 写真提供=村井久美(村井修 写真アーカイヴス) 撮影=村井修

自ブランドの成功だけに満足するのではなく、日本ファッション界全体の底上げを目指し、1983年「一般財団法人ファッション振興財団」を設立。次世代へ向けてファッション文化の育成や啓発、普及を行います。展覧会を開催し、図録や教育用の映像資料の制作、コンテストの開催、海外デザイナーを招聘し「ハナヱ・モリビル」でショーを行うなど、クリエイターの卵に向けてさまざまな情報発信や交流の場を提供しました。

創作の原点にも、「等身大の生活者」

『25ans』2017年1月号より。孫の森星さんが初めて表紙を飾った同誌で、「世界に向かって日本人の誇りを表現していきたかった」「自分らしくいられれば、きっと自分の人生のヒロインになれますよ」と、次世代の女性たちへ熱いエールの言葉を寄せた。 撮影=嘉茂雅之 (イリス)

5人きょうだいの4番目として島根で育った森英恵。故郷の自然溢れる環境は、彼女の創作活動の原点です。常に生活者としての視点をもち、キャリア初期には『婦人画報』をはじめさまざまな雑誌でおしゃれの知恵を伝授。その温かく、解像度の高い眼差しは世界に進出してからも変わりませんでした。デザイナーとしての活動を支え続けた夫・森賢や家族との時間を大切にする日常が、尽きることのないパワーを生んでいたのかもしれません。

1926 島根県に誕生
1947 東京女子大学卒業
1948 結婚、洋裁を学び始める
1951 新宿にスタジオ「ひよしや」を設立。
1954 日本映画の衣装を手掛け始める。銀座にブティックサロン「ひよしや」をオープン
1956 『婦人画報』8月号のファッションページに「ハナヱ・モリ」初登場。以降、ファッション企画やエッセイなど多面的に発信。
1965 ニューヨークで初の海外コレクションを発表。日本の美を再認識し、アイコンとなる「蝶」のモチーフが誕生
1966 雑誌『森英恵流行通信』(後の『流行通信』)を創刊
1967 日本航空客室乗務員の制服(四代目)をデザイン
1975 モナコ公妃の招きでモナコにて、またパリで初ファッションショーを開催
1977 パリ・オートクチュール組合に加盟。東洋人初の参加として話題を呼ぶ
1978 東京・表参道に丹下健三設計「ハナヱ・モリビル」が竣工。情報発信の拠点とする
1980 ライセンス事業を強化。タオル、食器、家電など生活全般のデザインを展開
1985 ファッション振興財団を設立。海外ブランドを招聘し「ハナヱ・モリビル」にてショーを開催
1988 紫綬褒章を受章
1989 NTTと協力し、端末を使ったファッション情報配信事業を推進
1992 バルセロナ五輪にて日本選手団の公式ユニフォームをデザイン
1993 皇太子妃雅子殿下(当時)のご成婚に際しローブ・デコルテをデザイン
1996 ファッションデザイナーとして初の文化勲章を受章
2002 フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章
2004 パリ・オートクチュール、ファイナルコレクションを発表。第一線を退く
2022 8月、逝去。享年96。

【展覧会】生誕100年 森英恵 ヴァイタル・タイプ

アジア人初のパリ・オートクチュール正会員として世界のモード界を牽引した森英恵の歩みを、オートクチュールのドレスや初公開作品を含む約400点を通して振り返ります。1950年代の映画衣装から、アメリカに進出した時代、そして27年間にわたるオートクチュールコレクションまでを網羅。デザイナーとしてだけでなく、彼女の生き方そのものに迫ります。

会期/2026年4月15日(水)〜7月6日(月)
時間/10時〜18時 ※毎週金・土曜日は20時まで(入場は閉館の30分前まで)
休館日/毎週火曜 ※5月5日(火・祝)は開館
料金/一般 2,200円、大学生 1,800円、高校生 1,400円(※中学生以下は無料)
tel.050-5541-8600(ハローダイヤル)
会場/ 国立新美術館 企画展示室1E(東京・六本木)
Google mapで確認
東京都港区六本木7-22-2

国立新美術館 公式サイト

取材・文=櫻井しの 編集=本田リサ(婦人画報編集部)

『婦人画報』2026年4月号より

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