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クロエ・ジャオが紡ぐ、愛と喪失の物語『ハムネット』

  • 2026.1.23

シェイクスピアと聞くと、あまりなじみがなかったり、どこか難しく感じる人も少なくないだろう。だが、映画『ノマドランド』(2020)で第93回アカデミー賞で作品賞と監督賞を受賞したクロエ・ジャオは、「大きな愛の喪失をどう乗り越えるか」という作品の核を、美しい映像とともに丁寧にすくい上げ、リアリティとフィクションの狭間を漂いながら、静かに時代 やジャンルを超えて響く普遍的な感動へ導いていく。

ジャオは自身の作品について「物語が自分を選ぶ」と語る。今作はスティーヴン・スピルバーグの制作会社から、シェイクスピアの名戯曲『ハムレット』がいかに誕生したかを描いたマギー・オファーレルの小説『ハムネット』の映画化を依頼されたことから始まった。「最初は断りました。原作も読んでいませんでしたし、『母親が子どもを失う物語』だと聞いて、子どものいない自分が共鳴できるかわからなかったので」

しかし数日後、流れは思いがけない方向へ動きだす。「テルライド映画祭でポール・メスカルに会ったんです。とても興味深い俳優で、若きシェイクスピア役にふさわしいのではないかと感じました。すると彼はすでに原作を読んでいて、この作品に出演したいと言ったんです。そして逆に、私にも原作を読むよう説得してくれました」。原作は素晴らしく、読み進めるうちにジャオは確信する。「アグネスを演じるのはジェシー・バックリーしかいない」と。連絡するとバックリーも即座に参加を承諾。「作者のオファーレルにも脚本の共同執筆を依頼し、すべてが整った時点で、ようやく私も『引き受けます』と言いました」

HAMNET - Jessie Buckley, Paul Mescal as William Shakespeare, 2025.

シェイクスピアの『ハムレット』、そして本作のテーマは、愛の喪失が創造の芽となり得るということ。失われた愛が芸術という形で 後世へ継承されていく、人間特有の悼みと癒しの在り方に、ジャオ自身の経験も重なっていた。「人生で多くの喪失を経験してきましたが、『ハムネット』を制作していた時期、私も大きな個人的喪失に直面していて、シェイクスピアと並走しているような感覚があったんです。アグネスは子どもを失いますが、私は一人の男性との関係を失いました。もちろん同じではありませんが、悲しみの大きさは 比較できるものではありません」

観る者の感情を激しく揺さぶるラストシーンは、脚本通りではなく、撮影中に生まれたものだという。「撮影終了の4日前にラスト シーンを撮り終えましたが、ジェシーと顔を見合わせて『これじゃない』と思ったんです。 当時、私は恋人との関係の終わりを受け入れなければならず、個人的につらい時期でした。 そんなとき、ジェシーからマックス・リヒターの“On the Nature of Daylight” という楽曲が送られてきました。雨の中、車でその曲を聴きながら自分の喪失に向き合っていたら、 涙が止まらなくなって。そのとき、窓の外に手を伸ばして雨に触れた瞬間、『これだ』と思いました。すぐに現場へ戻って『全部撮り直します』と伝え、改めてラストシーンを撮影しました。ジェシーも同時期につらい喪失を経験しており、それが彼女の役への完全な“委ね”につながりました。リヒターの曲と私たちの個人的体験が重なり、作品としてのカタルシスが生まれたのです。こういう作り方はリアルで観客にも必ず伝わる一方、化学反応が起きなかったらと思うと怖くもあります」

HAMNET - Jessie Buckley, Paul Mescal as William Shakespeare, 2025.

雨の手触り、肌の温度、そして音楽。それらが溶け合い、映画はあるべき姿へ導かれていった。この過程を、ジャオは「半分は導き、 半分は委ねること」だと語る。「今日こうしようと思って現場へ行っても、新しい出来事が現れたら初期のアイデアは手放します。自分のヴィジョンを押し通しすぎると、何も生まれません。信じて委ねる必要があるのです」。そこには自然と呼吸を合わせ、正解が訪れる と信じる静かな覚悟がある。 さらにジャオは、自身の創作プロセスをユ ングの哲学と重ねる。偶然や出会いを宇宙が描くパターンとして捉え、物語の導きに身を任せるのだ。

Jessie Buckley stars as Agnes in director Chloé Zhao’s HAMNET, 2025

「私はユングの哲学と深く関わっており、シンクロニシティの考え方に敏感 であろうとしています。夢にも問いかけ、分析家と協力して現れるパターンを読み解きます。パターンが繰り返されると、『何かがやって来ようとしている』とわかるんです。理性と合理性だけで世界を説明しようとすると疲れますし不自然です。方向性は自分で持ちつつ、半分は“戦わない”。強いシンクロニシティがあるなら、たとえ別の作品をやりたくても流れに従います。『ハムネット』に導かれたのも偶然ではなく、その結果だと感じています。本来は契約上、『DRACULA(原題)』 を先に進行する必要がありましたが、『ハム ネット』との強い引力を感じ、ユニバーサルに『こちらを先にやるべきだ』と伝えました。 まだ引き返すこともできる段階でしたが、直感を信じて前に進んだのです。当時は、ここまで人生を変える作品になるとは想像してい ませんでした。ただ、もし当初の計画に固執していたら、今の私はいなかったでしょう。 それもまた人生ですが、私は今の選択が好き なんです」。心に響く作品は、予期せぬ出合いと変化を受け入れ、「この瞬間」を信じ切ることから生まれるのだ。

Interview & Text: Rieko Shibazaki

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