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朝ドラ「ばけばけ」のモデル、ラフカディオ・ハーンと18歳下の小泉セツが出会ってすぐ事実婚状態になったワケ

  • 2025.10.27

『怪談』などで知られるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は小泉セツと国際結婚し日本に帰化する。2人のひ孫・小泉凡さんは「ハーンにとって神々の住む出雲はあこがれの土地だった。そこで生涯の伴侶と出会ったことに運命的なものを感じる」という――。

※本稿は、小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

横浜で半年ほど過ごしてから、島根で英語教師に

1890(明治23)年、横浜に上陸してから5カ月ほどたった頃、八雲は島根県尋常中学校と師範学校の英語教師のポストを得ました。月給は100円です。

それは当時の知事に次ぐような厚遇でした。10代の頃からお金に苦労してきましたが、40歳にしてようやく経済的にも報われた格好です。


八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
八重垣作る その八重垣を

『古事記』に出てくる日本最古とされる和歌。来日前から「出雲」の象徴であるこの和歌を胸に刻んでいた八雲です。大分県に赴任する話もあったようですが、あこがれの島根県への赴任が決まりました。ご縁としか言いようのない話で、躍り上がるほど喜んだことでしよう。

この年は大日本帝国憲法の施行と同じ年にあたります。260年余り続いた江戸時代の体制が一新され、近代国家として整備が進められる時代の教育者の一人、ということにもなります。

松江に着いたのは8月30日でした。蒸気船で大橋川の船着き場に着き、対岸の富田旅館で旅装を解き、そのまま3カ月ほど暮らしました。女将のツネと女中のノブに食事などの世話になります。

島根県出雲市の出雲大社
島根県出雲市の出雲大社(※写真はイメージです)
12歳年下の教頭・西田千太郎と意気投合する

勤務先の学校では誰も知り合いのいない一介の外国人教師でした。全く慣れない環境で、12歳年下の教頭で英語教師の西田千太郎と早速、意気投合しました。英語が堪能で、連日のように行動をともにする間柄になりました。


<利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆いってくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です>(『思ひ出の記』)

西田への賛辞を、そんな風にセツに語りました。聡明で実直な出雲人です。結核を患っており、吐血することもありましたが、出雲地方ならではの、いろんな所へと連れていってくれました。

西田は6年半後に34歳で他界してしまうのですが、死の直前まで克明な日記を書き残してありました。これによって松江時代の八雲の詳細な動向が伝わってきます。

八雲は他界する直前、文学者の坪内逍遙(1859〜1935)や高田早苗(1860〜1938/後の早大総長、文部大臣)らに早稲田大学に講師として招かれます。その時、高田が亡き西田と似ている、と言って大層喜んだほどでした。彼こそ八雲が最も信頼した日本の友人です。出会った頃のセツも、意思の疎通がはかれない時は西田に頼ることが多かったようです。

松江城近くの尋常中学校と真面目な生徒たち

勤め先の学舎は松江城の近くにあり、洋風の木造建築でした。生徒たちは申し分のない行儀の良さで、授業中はささやきひとつ聞こえてこなかったそうです。八雲はこの学校が気に入りました。

ただ、暗記一辺倒ともいえる教育方法がとられていることが見過ごせませんでした。「蛍」や「蛙かえる」というテーマで英作文を書かせてみると、ほぼ全員が同じ故事や中国の教訓を引いてきたことに驚いたそうです。

彼の持論では記憶力より想像力、理性よりも感情が大切で、そんな力を伸ばすのが教師の仕事だと考えていました。それだけにこの作文に見えるような「知識偏重」の傾向は看過できませんでした。

「想像力の価値」というタイトルで、秋には講演をし、こんな持論を述べました。


「むずかしいことをただ暗記させるという授業の方法は、記憶力は想像力をまったく借りずに養成できるという誤解にすぎない」(『教育者ラフカディオ・ハーンの世界――小泉八雲の西田千太郎宛書簡を中心に――』)

日本ではユニークな考えの教師だったのでしょうが、生徒にはとても慕われました。毎朝迎えに来る子たちに囲まれて、登校しました。

松江城
松江城(※写真はイメージです)
日本で初めての正月、宿だった旅館を出る

やがて冬が来て、初めて迎えるお正月を心待ちにしていました。1891(明治24)年ですね。羽織袴はおりはかまをこしらえて、年始回りにいそしんだそうです。

ところが、折からの猛寒波に見舞われ、ひどい気管支炎を患い、2週間も学校を休んでしまいます。大雪が積もり、身動きがとれなくなりました。

その頃、八雲は富田旅館を出て、その近くに家を借り、独り暮らしをしていました。

早々に引っ越したのですが、それには八雲なりの理由がありました。

富田旅館の女中ノブはまだ少女で、目を患っていました。隻眼で右目も強い近視だった八雲は、目をとても大切にしていました。だから、ノブを見過ごせなかったのです。「目のお薬師さん」として知られる一畑薬師(現・出雲市)に一緒にお参りに行ったこともあります。

「娘少しの罪ありません、ただ気の毒です」

と言って、自分で医者にかけてあげたこともありました。でも主人はノブの眼病に無頓着でした。立場の弱い者を軽んじる態度に、八雲は憤りました。そんないきさつがあって、たった3カ月ほどで引っ越したのです。

転居後も引き続き女将らが食事の世話をしてくれましたが、異国で続く独り暮らしを案じ、女将らはお世話係が来てくれるよう計らってくれました。それが生涯の伴侶との出会いとなります。

神々の国の首都。

八雲がそう称した出雲地方の、神々のお導きだったのでしょう。

ひとり暮らしのハーン、セツが家事手伝いに

1891(明治24)年の恐らく2月上旬に、セツが住み込みで八雲のそばで働くことになります。23歳でした。

この間のいきさつについてはよく分からないこともあるのですが、当時の八雲は尋常中学校の外国人教師で、尊敬の念を抱かれる存在でした。そこで旧士族の娘として教養があり、茶道などのたしなみもある、と目されていたセツが、世話係として推されたのではないでしょうか。

セツは後年、長男の一雄(著者の祖父)に八雲の第一印象をこんな風に語っています。

左目が見えないことは聞かされていたけれど、やはり痛々しかった、と。でも右目の輝きと、その中に感じられる柔和さが印象的で、形の良い鼻や細面、それに広い額で利口そうな感じがした、と。

小泉八雲と妻のセツ、長男の一雄の家族写真
小泉八雲と妻のセツ、長男の一雄の家族写真
セツを見て「士族の娘は手足が太いはずはない」

一方、八雲にとってセツの第一印象は、実はよくありませんでした。

というのも八雲は「旧士族の女性」が世話係になる、と聞かされ、いかにもきゃしゃな人が来る、と決めてかかっていました。思い浮かぶ、旧士族の女性のイメージがあったようです。

でも、セツはそういった印象に重なる人ではありません。少女時代からずっと機織りに励んできたので、手と足がたくましくなっていたのです。

かたや八雲は子ども時代から大叔母の家で育てられ、他人との関係に苦労して育ったせいか、ささいなことでもウソをつかれるのが許せないたちです。やってきたセツについて「旧士族の女性ではない」、と言い募り、不機嫌になってしまった、と伝わっています。

でも、セツは物怖ものおじしない人です。幼い頃、初めて見た外国人のフランス人ワレットに接しても、たじろぎもせず、虫眼鏡をプレゼントされた。そんな逸話からも分かるように、初対面の八雲にも臆することはなかったでしょう。尋常中学校の教師として重んじられていましたから、少しばかり、かしこまっていたかもしれませんけどね。

たしかにセツはスレンダーな人ではないのですが、それは明治以降、世の中が険しくなり、育った家が貧窮してしまったためなのだ……すぐに八雲は思い至ります。

「ママの手足の太いのは少女時代から盛んに機を織った為だ」と八雲に教えられた。

長男の一雄は『父小泉八雲』にそう書き残しています。

物怖じしないセツにハーンも心を開いていく

八雲は松江に着いて以来の独り暮らしで寂しい思いをしていました。食事の世話などは富田旅館の女将らが続けてくれましたが、日本語ができませんし、何かと不自由だったと思います。そこへきて、セツという気働きができ、地元の事情に通じた人が住み込みでいてくれるようになる。頼もしい味方を得た思いに包まれ、やがて心がほどけ、接近していったのでしょう。

二人とも最初の結婚につまずいています。セツは婿養子を迎えましたが、その暮らしは早々に破綻してしまいました。八雲も米シンシナティで暮らした20代半ば、最初の結婚をしましたが、3年ほどでついえています。

「破れ鍋に綴じ蓋」

そんなものの言い方がありますが、心にいくつも傷を抱えた者同士だけに、言葉は分からなくても、えもいわれぬ安らぎがふたりに芽生えたのだ、と思えます。

それを物語る逸話があります。

セツが来てまだ日が浅い頃、八雲は荒れた手を痛ましく思い、自らの手でさすり、いたわったことがあったそうです。

<あなたは貞実な人です。この手その証拠です>(『父小泉八雲』)

そばには英語の堪能な親友、西田千太郎がついていて、そんな慰めの言葉を、はにかんでいるセツに伝えました。互いの言葉は分からなくても、貧しい暮らしの機微を知る二人の心は通じ合います。

妾の覚悟もあったが…、すぐ事実婚状態に

セツは住み込みの世話係として、ともすれば妾めかけの覚悟さえもって、八雲の暮らす家にやってきたのでしょう。

小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)
小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)

彼女を取り囲む厳しい境遇は、八雲には母ローザの後ろ姿と重なって見えたのだと思います。当時の国際結婚へのハードルもあり、法的な手続きを完了するのは5年後になりますが、セツと八雲は出会ってほどなく、現代風に言えば、事実婚の状態になりました。

外国人の男性というと、大柄で筋骨隆々、といった逞たくましいイメージを抱きがちです。でも八雲は背格好もセツとさほど変わらないほど小柄です。声も女性のように優しい人でした。

ただ、感覚がひときわ鋭敏な人です。しかも思い込んだら一歩も譲らない頑固者です。執筆に夢中になると我を忘れ、コーヒーに塩を入れてしまうような、あぶなっかしいところがありました。私が支えてあげないと、と感じさせるところがあったのでしょう。18歳年下のセツでしたが、どこか母親のようなまなざしを向けていました。

小泉 凡(こいずみ・ぼん)
小泉八雲記念館館長
1961(昭和36)年、東京都生まれ。成城大学大学院で民俗学を専攻し、87年から曽祖父・小泉八雲ゆかりの松江市で暮らす。小泉八雲記念館館長、焼津小泉八雲記念館名誉館長、島根県立大学短期大学部名誉教授を務める。著書に『怪談四代記 八雲のいたずら』(講談社)、『小泉八雲と妖怪』(玉川大学出版部)など。撮影=朝日新聞出版写真映像部・佐藤創紀

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