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「オレがGMなら星野は監督にしない」高田繁が考える“闘将”星野仙一の功罪

  • 2025.10.25

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに7年が経過した。一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。【高田繁インタビュー全2回の2回目/第1回を読む】

星野とはまったく相容れない「目指すべき監督像」

明治大学の先輩、後輩の間柄である高田繫と星野仙一。読売ジャイアンツに在籍していた高田は1980(昭和55)年限りでユニフォームを脱ぎ、中日ドラゴンズの星野は82年シーズンを最後に現役を引退。その後、両者はまったく別々の道を歩むことになる。「その後の星野」について、高田が振り返る。発言中にある「御大」とは、明治大学野球部のレジェンド、島岡吉郎元監督のことである。

「その後、星野は中日の監督になったけど、あれは大学時代の御大を参考にしていたのは間違いない。御大は飴(アメ)と鞭(ムチ)を上手に使い分けていた。勝ったときと負けたときとでは天国と地獄の違いがあったもの。負けたときには合宿所は物音ひとつしない。御大が風呂に入っているときに、みんなサササッと飯を食う。でも、勝ったときには御大の招待でビヤホールに行って、みんなで大騒ぎ。星野もまさにそういうタイプの監督だよね」

星野がドラゴンズの監督だった頃、高田は日本ハムファイターズの監督を務めていた。その目指すものは対極にあったという。高田が理想とした監督像は、どのようなスタイルだったのか?

「星野は御大や、川上(哲治)監督を参考にしていたけど、僕は“オレはオレのやり方でいこう”と考えていましたね。できるだけ喜怒哀楽を出さずに、ゲームが終わるまで一喜一憂しない。自軍がホームランを打ったとしても、その後に逆転される可能性もある。喜んでいる場合じゃないよ。その点も星野とはまったく違うよね。そして、星野の場合は《鉄拳制裁》が話題になっていたけど、それもまた僕とはまったく考え方が異なる。プロの選手を相手に手を上げるなんて、オレには考えられない」

熱を帯びた口調で、高田はさらに続ける。

「オレも口では厳しいことを言うし、キツイことも言いましたよ。でも、手を上げるとか、足を上げるとか、オレから言わせればとんでもないこと。ただ、星野は星野のスタイルで、それで選手がついてきたのも事実。僕とはまったくスタイルが異なりますけどね」

感情の高ぶりがあったためなのか、高田は「僕」と「オレ」とを混在させながら、監督としてのスタイルの違いをこのように自己分析した。島岡御大の下でキャプテンを務めた両者ではあるが、それぞれが目指すべき監督像はまったく異なるものだった。

「オレがGMなら、星野は監督にしない」

星野は、1987年から91(平成3)年、そして1996~2001年まで古巣ドラゴンズの監督を務め、翌02~03年は同一リーグである阪神タイガース、そして08年には北京オリンピック日本代表チームの指揮を執り、11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスを率いた。監督としては、リーグ優勝4回、日本一には一度輝いている。

「監督としての能力は持っていたと思いますよ。中日でも、阪神でも、楽天でも優勝を経験したわけだから。運やツキだけでは勝つことはできない。それは監督としてのマネジメントに優れていた証拠ですよ。彼は野球殿堂入りを果たしているけど、間違いなくそれは選手としての成績だけでなく、監督としての実績も加味されたものだから。ただ、何度も言うけど、それは僕のスタイルじゃない」

後に高田は、北海道日本ハムファイターズ、そして横浜DeNAベイスターズでGM職を務めることになる。そこで、「仮に監督任命の決定権があったなら、星野氏を招聘しますか?」と尋ねる。その答えには何も迷いがない。

「オレがGMだとしたら? あぁ、ないよ」

一刀両断の即答だった。その理由を問うた。

「さっきも言ったように、監督としての能力はあると思いますよ。でも、オレが目指すべきチームスタイルではない。要は、“勝てばいいんでしょ”じゃないから」

続けて、「では、かつてのGM時代はどのようなチームスタイルを目指していたのですか?」と問うと、やはり逡巡(しゅんじゅん)することなく高田は言った。

「ファイターズのときも、ベイスターズのときもそうだったけど、僕はメジャースタイルを目指していましたから。つまり、ドラフトもトレードも外国人獲得も含めて、フロント主導でチームを作る。十分な戦力を整えた上で、“あとはよろしくお願いします”と監督に託す。その代わり、フロントは一切、口出ししない。そんなスタイルを、僕は目指していた。でも、このやり方は星野には通用しないよ」

ドラゴンズ監督時代には就任早々、打線の軸となる主砲として、ロッテオリオンズの落合博満を獲得すべく、リリーフエースの牛島和彦を筆頭に1対4の大型トレードを主導した。タイガース監督時代の02年オフには24選手の大規模な入れ替えを断行し、就任2年目となる翌03年には、見事にリーグ優勝を果たしたこともある。星野は率先してフロントに働きかけ、自らが理想とするチーム作りに動いていた。高田が続ける。

「星野の場合は、自らGMを兼ねてチーム作りを主導するタイプで、それで結果を残してきた。それは認めますよ。ただ、僕がGMならば、星野に頭を下げることはない。仮に星野が監督となったとしても、絶対にGMとぶつかるはずだから」

どこまでもその口調は決然としており、熱を帯びつつ、それでもどこか冷静さを失ってはいないものだった。

高田繁が考える「星野仙一の功罪」とは?

2018年1月4日、星野は70歳でこの世を去った。明治大学の1年先輩である高田に、改めて尋ねる。「星野仙一が野球界に遺したものとは?」と。しばらく考えた後、ひと言、ひと言、嚙みしめるように高田は言った。

「……功罪あると思いますよ。《功》で言えば、あの闘志あふれるピッチング。マウンド上での闘志はすばらしかった。いつも、“ウォーッ”と叫びながら投げていたもの。現役晩年はボールよりも、声のほうが早く届いていたけどね。それは本来の実力以上の力を発揮するために、彼なりに頑張ったところだと思うから。それはもちろん《功》ですよ」

高田がこれまで目の当たりにしてきたレジェンド級のピッチャーは数多くいる。金田正一、稲尾和久、杉浦忠、山田久志、鈴木啓示と枚挙にいとまがない。

「大投手に共通しているのは常に淡々と投げていること。闘志を前面に押し出す必要なんてないんだもの。叫び声を出さなければ抑えられないピッチャーじゃないから。でも、星野の場合は大卒で、血行障害もありながら、先発もして、リリーフもして、それで通算146勝(121敗34セーブ)を挙げた。よく頑張ったよ」

では、「罪」は何か? やはり、その答えには迷いがない。

「やっぱり、暴力ですよ。子どもたちに対してあのスタイルを肯定できるか? それさえなければよかったけど、あのスタイルだから結果を出せたとも思うし。確かに結果は残した。だけどその一方では、選手に対して手を出したり、足を出したりしていたという話がある。テレビを見ていても、扇風機を壊したり、ベンチを蹴っ飛ばしたり……。そんな映像ばかり見ていたら、“おいおい、ちょっと勘弁してくれよ”という気になるよな」

期せずして、「星野の功罪」の話題となった。かつて「闘将」として鳴らした星野式指導、星野流のマネジメントは令和の時代ではタブー視され、疑義を呈されているのも事実だ。現在は親会社のDeNAのフェローとして球団を見守っている高田に「理想的な令和のリーダー像」を尋ねた。

「これからの時代は、今までの考え方がまったく通用しない難しい時代ですよ。今の選手に“バカ野郎、この野郎”なんて言い方ではまったく伝わらない。まるで、腫れ物に触るような感じですよ、現代の監督というのは。きっと、栗山(英樹)さんみたいな人当たりのいいソフトなタイプじゃないと務まらないだろうな。いや、あれは侍ジャパンのように、短期的な寄せ集めのチームだったから通用したのかもしれないけどね」

アップデートされた「令和版・星野仙一」が誕生していたかも?

仮に今、星野が50代で、体力的な不安がなかったとしたら、どこかの球団で「星野監督」が誕生する可能性はあるのだろうか? この質問に対して、高田は隣に控えるベイスターズ広報に問いかけながら口を開いた。

「仮にベイスターズの監督だとして、牧(秀悟)が星野についていくと思うか? 無理だよな。いや、もしかしたら……」

少しだけ言いよどんだ後に高田は言った。

「……いや、星野はああ見えて器用なタイプだし、柔軟性もある。親分肌で、人の使い方には長けている。ひょっとしたら、今の時代に合わせることができるかもしれない。《令和版・星野仙一》が誕生していたかもしれないね」

インタビュー終了時間が迫っていた。最後に一つだけ尋ねる。「星野仙一という人物をひと言で表すとしたら?」と。視線を泳がせながら、高田は言った。

「彼は政治家に向いていたと思いますよ。アイツは、金を集めるのがものすごくうまい。“この人はオレに金を出してくれるぞ”という嗅覚がものすごく働く。ただ、アイツの場合は集めた金をきちんと選手や裏方に還元する。まさに《飴と鞭》ですよ。プロはやっぱりお金だから。お金を集める政治力、資金力。アイツは政治家向きですよ」

そして、「ひと言で彼を表現するとしたら……」と続けた。

「星野の場合は《親分肌》。これに尽きるんじゃないのかな?」

現代の感覚からすれば、「鉄拳制裁」に象徴される「星野式指導術」に眉をひそめる向きも多い。一方で、過去と現在を同じ尺度で図ろうとすることへの是非もある。星野が放ったまばゆすぎる光彩は、選手を強烈に輝かせる一方で、深い影を生み出しているのも事実だ。

「星野は味方も多いけど、敵も多い。やはり、どうしても暴力的なイメージは拭えない。恐怖政治を敷いて、力で押さえつけるようなやり方に抵抗を示す人も多い。でも、それも含めて星野仙一なんですよ」

大学時代の星野を知る高田は、かつての後輩をこのように総括した——。

高田繁が考える星野仙一とは?――“親分肌”

(第三回・田淵幸一編に続く)

Profile/高田繫(たかだ・しげる)
1945年7月24日生まれ。浪商高校、明治大学を経て、1967年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。1年目からレギュラーとなり新人王を獲得。川上哲治率いるジャイアンツV9の立役者の一人となる。「塀際の魔術師」の異名を持つ守備の名手でもあり、ベストナイン4回、ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)は6回受賞。現役引退後は日本ハムファイターズ、東京ヤクルトスワローズの監督も務める。また、2005~07年はファイターズGM、12~18年は横浜DeNAベイスターズGMも務めた。1学年先輩として、明治大学時代の星野と身近に接してきた。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ。倉敷商業高校、明治大学を経て、1968年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役時代通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスに監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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