1. トップ
  2. 恋愛
  3. モデルの多様性はどこへ?──ファッションモデルが解体する「美の基準」の光と影【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.9】

モデルの多様性はどこへ?──ファッションモデルが解体する「美の基準」の光と影【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.9】

  • 2025.8.7

Tairaの臨床モデル学 / Taira's Gender Studiesで、モデルの視点から社会を多角的に考察してきたTairaによる新連載「TAIRAのノンバイナリーな世界」では、日頃から何気なく成り立っている身の回りの「組み分け」にスポットライトを当てる。

曖昧なことやラベルを持たないことに不安を抱きがちで、なにかと白黒つけたがる私たち(と世間)だけど、こんなにも多彩な個性や価値観が共生する世界を、ゼロか100かで測れるのか。日常に潜む多くの「組み分け」を仕分けるものさしを改めて観察し直してみると、新しい世界や価値観に気づけるかもしれない。

モデルでライターのTairaが物事の二項対立的(バイナリー)な見方を取り払い、さまざまなトピックを「ノンバイナリー」に捉え直していく。

vol.9 美しい/醜い

Q1. “美しい”って何だろう?

どんなものを「美しい」と感じるのかは個人の自由で、その基準は主観的なものであるはず。けれど、世間的に「美しい」と認識されるためには、社会文化的に育まれ共有された暗黙の評価基準を満たしている必要があるように思う。

例えばアートの世界でも、果たしてどのような美術作品に価値が置かれ、どういったアーティストが評価されているのか、そこにハッキリとしたバロメーターはない。展覧会や美術館を訪れるたび、作品の価格のつけられ方や注目のされ方などにどこか不思議な感覚を覚える。有名な美術館などでは、一般的に“見どころ”とされている作品の周りには人だかりができて多くのシャッターが向けられているのに対し、すぐ隣に展示された作品群に対してはあまり関心が向けられていない光景を目の当たりにする。正直なところ、「美しさ」とは社会文化的な構造のなかで作り上げられている側面が大きいのではないかと考えている。

ファッションやビューティの界隈でも美の基準は普遍的なものではなく、時代や文化圏によって大きく揺れ動く流動的なものだ。それは、世界各地の異なるマーケットでモデルとして活動をするなかでも身をもって実感する。世間に支持される「美しさ」は、その時々の社会背景や経済状況、消費の傾向とも深く結びついている。新しいプロダクトやキャンペーンが市場に投入される際には、ターゲットとなる消費者層のニーズや感覚が入念にリサーチされ、マーケティング戦略として組み立てられる。そうして立ち上がったものが、やがてトレンドとして消費されていく。近年ではソーシャルメディアの普及も相まって、ポリティカル・コレクトネスへの感度が世界的に高まっている。少しでも“誤った”動きをしてしまえば、すぐに社会的に“キャンセル”されかねない時勢において、なるべくリスクを取らずセーフプレイが選択される市場の流れができているように思う。ファッションやアートの領域でも、クリエイティブな表現において“安全圏”を選ぶ傾向が強まっているように感じる。

たとえば「Quiet Luxury(クワイエット・ラグジュアリー)」と呼ばれる、クラシカルで控えめなスタイルが注目されてきたここ数年の流れも、そうした空気の表れかもしれない。過度な個性よりもタイムレスでクラシカルな要素が求められる傾向は実際にキャスティングの現場でもあり、ここ最近はいわゆる“王道”で癖のないイメージのモデル像が求められていると感じる局面も多い。

同時に今日のファッション業界では、“ヘロイン・シック”と呼ばれる極端に細身な身体像への需要が回帰しつつあるという声も見聞きする。正直、業界の前線に身を置く者として、数年前までより活発になっていたボディインクルーシビティの動きが、ここにきて停滞してしまっている印象は否めない。最近のランウェイではプラスサイズのモデルの姿をあまり見かけなくなったし、それに対する声が上がることも以前より少なくなっている気がする。政治的にも世界全体が混沌とした不安定な空気が漂うなか、ファッション業界もまた無意識のうちに“保守化”しているのかもしれない。

Q2. “醜い”って何だろう?

一般的に「醜い」とは、社会や文化が“こうあるべき”と(恣意的に?)定めた美の枠からはみ出した存在に付与される言葉で、ネガティブな文脈で用いられることが多い。ところがそうした美からの“逸脱”とは、一体誰のどこからの眼差しによって定められているのだろう。Q1では時代や社会とともに変化する「美しさ」の流動性について触れたけれど、つまりそれは「醜さ」のものさしも、それぞれの時代や社会が共有している基準に由来した流動的なものであることを示唆している。「醜さ」とは絶対的な価値ではなく、あくまで相対的な認識にすぎないのではないか──。私たちがときに「醜い」と感じてしまう物事は本当にその対象自体が醜いわけではなく、そこに違和感を覚える自分自身の鏡像なのかもしれない。

先述したように、昨今ではポリティカルアウェアネスの意識の高まりもあり、「醜い」という言葉を特定の個人に対して公然と投げかけることは少ない。暴力的な言葉は人を傷つける可能性を孕んでいるという意識が社会に浸透し、言葉の選択そのものが慎重になされている風潮はポジティブな変化だ。そう感じる一方で、果たしてそれらの意見がどのような観点から牽制されているのか、その基準は誰が決めているのか......。裏を返せば、さまざまな表現がマジョリティの思う“多様性への配慮”を軸に押し並べられていく動きであるとも捉えられるから、そのバランスは難しい。

「醜い」という感覚は、視覚的なものから感情に由来するもの、他人の行為や価値観に対するものまで幅広い。たとえば自分は、グロテスクなものや人間の見たくない部分(できれば見て見ぬ振りをしたい部分)に触れてしまったときなどにふと、「醜い」という言葉が頭をよぎる。それはあくまで心のなかの小さな反応に過ぎないのかもしれない。けれど、つい「気持ち悪い、見たくないな」とつい目を背けたくなったりコンタクトを避けてしまうことがあって、そんな反応をしている自分自身に戸惑い、嫌になることがある。そうやって目を背けたくなるような何かに出合ったとき、そこで感じる違和感/嫌悪感は、実は自分が無意識に信じている秩序からの逸脱への拒否反応なのかもしれない。そしてその反応に気づかされた瞬間、「それを醜いと思った自分こそが、醜いのでは?」と逆説的な内省が生まれる。そんな循環のなかで「醜さ」という概念は、ある意味で常に自分自身の鏡像でもあるのかもと考える。その感情の裏には、安心できる秩序から外れてしまうことへの恐れや、コントロールできないものへの不安があるのかもしれない。

同時に、醜さのなかには美しさと紙一重なものも存在する。ほかの誰かにとっては「醜い」と感じられるものが自分にとっては美しかったり、またその逆も然り。そうやって人それぞれの主観にズレがあるからこそ、「美しさ」と「醜さ」はときに入れ替わるくらい、実は近い場所にある感覚なのかもと思う。

Q3. “美しい”と“醜い”はどうやって仕分けられてるの?

美しさの指標を作り出すことにおいて、メディア表象の影響力は無視できない。誰しもがそれぞれの文化的背景や育った環境のなかで価値観を育んでいく。美的価値観もそのうちのひとつだろう。日々の暮らしのなかで目にする言葉や映像、雑誌、テレビ、広告、ソーシャルメディアなど、多様なメディアを介して反復的に提示されるイメージが、私たちに「美しさとはこういうもの」という感覚を潜在的なレベルから刷り込んでいく。顔立ちや体型といった、人の外見に関するビューティースタンダードもまた、スマホや街頭のビルボード、スクリーン上にあふれる表象を通じて築かれていく。そこに登場する人々の姿形が、私たちのなかの「美しさ」の輪郭を形づくる。そしてそれは、知らないうちに他者や自分自身への評価軸としても機能してしまう。

前述してきたように、「美しさ」のものさしは時代や文化圏によって流動性があると感じるけれど、そうした傾向はたとえば、自分がティーンだった頃に「美しい」とされていた俳優やモデルのルックスと現在支持されているスターたちのイメージの系統を見比べてみると、なんとなく見て取れる気がする。外見だけでなくメイクの傾向やファッションのスタイルなど、どれも少しずつ異なっていてそれぞれの時代や場所の空気を纏っている。イギリスで暮らし始めたばかりの頃も、まさにそんな違いに驚かされた。日本で一般的に「かわいい」「キレイ」と支持されていたメイクやファッションが、こちらではまったく異なる印象として捉えられる。どちらが「正しい」とか「美しい」という話ではなく、それぞれの社会文化的な背景が育んできた美的価値観が、異なる形で体現されているのだろう。同時に、それぞれの時代や社会で表象される「美しさ」の移り変わりとともに、世間が目指す「美しさ」も変化している。

これらを踏まえて、ファッションの世界には“モデルスカウト”という職種が存在するのは興味深い。有能なモデルスカウトは、“having a great eye”と評価され、その時代に求められるモデル像を鋭く読み取る“目”を持つと言われる。その“目”とは一体何なのだろう。かれらはただ単に個人的な好みで「美しい」人材を集めているわけではない。その時代やマーケットが求めている身体像を察知し、さらにそれを先見しながら人材を見出す能力が求められる。そして私自身もファッションの世界でモデルとして活動するなかで、そんな“目”を養ってきた感覚がある。

「美しさ」とそこから逸脱した「醜さ」の基準は、ある時代や共同体のなかで何が好まれ評価されるのかという感覚がなんとなく共有され、再生産されていくことでできあがっていくのかもしれない。社会で広く共有された美的価値観は確かに存在するように感じるけれど、誰かにとっては魅力的に映るものが、ほかの誰かにとってはそうでなかったりする。美しさと醜さ、その境界線はいつも曖昧で、動いている。だからこそ何を美しいと感じ、何に違和感を覚えるのか。その感覚の揺らぎに目を向けてみることも大切なのかもしれない。

Q4. そんな組み分けは必要?

もちろん議論の余地があるけれど、「美しい」や「醜い」といった感覚は人間を豊かにする芸術的な創造活動から切り離せない価値観だ。そもそも美的感覚そのものが創造や表現の根幹にある以上、「美」と「醜」の曖昧な境界を感じ取ること自体が、芸術的営みのひとつなのかもしれない。一方で、ファッションモデルという立場から「美しい」ものを表象する役割を担うことで、特定の美の基準を無意識的にでも再生産することに加担してしまっているのではないか。そこに排他性が含まれていないか。誰かを無自覚に遠ざけてしまってはいないか。そんな問いを通して、自身への責任を感じることはある。

モデルの仕事は、クリエイティブチームのヴィジョンを体現し、理想の世界観を可視化する媒体になること。特にハイファッションの世界では、クリエイターたちが目指す世界観というのは往々にして手の届かないような美しさであることが多い。それは日常を離れた、夢のように非現実的な空間をつくるための装置でもある。だからこそその幻想の要ともなるモデルには、Extraordinaryな容姿が求められがちで、そこにさらにヘアメイクやスタイリングを介してプロによる創造が付与され、“現実離れした”美しさが演出されていく。

そうした創造がアートとして機能している場面では、そこに体現されたある種の“非現実さ”は芸術として認識されるので、「美しさ」の表象が非現実的なものに昇華されていても許容される。しかし、その美しさが社会における「理想像」に取り込まれてしまう可能性を考えると、事情が変わってくる。モデルたちの身体を通して表象されるイメージが、誰かの心に「私はこの形でなければ美しくないのかもしれない」という疑念を芽生えさせてしまう可能性を思うと、自分の担う責任は拭えない。「美しい」と「醜い」の境界。それは、たとえ恣意的に張り巡らされたものであっても、ときに人の心や体にまで作用してしまう。だからこそ、その線引きがどのように生まれ、どんな影響を及ぼしているのかをこれからも丁寧に問い直していく必要があると思っている。

Photos: Courtesy of Taira Text: Taira Editor: Nanami Kobayashi

READ MORE

元記事で読む
の記事をもっとみる