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「結婚はまだいい…」そう思っていた32歳が、結婚を決意した意外なキッカケとは

  • 2025.6.9

男という生き物は、一体いつから大人になるのだろうか?

32歳、45歳、52歳――。

いくつになっても少年のように人生を楽しみ尽くせるようになったときこそ、男は本当の意味で“大人”になるのかもしれない。

これは、人生の悲しみや喜び、様々な気づきを得るターニングポイントになる年齢…

32歳、45歳、52歳の男たちを主人公にした、人生を味わうための物語。

▶前回:「残りの人生は、消化試合だろう…」飲食店経営で成功した52歳男性が抱える虚無感の行方

東京カレンダー
Vol.7 後楽園の人混み。彼女だけはすぐに見つけられる フレンチシェフの32歳、三隅健吾の場合


「三隅シェフ!グラタンドゥフィノアふたつです」

「ウイ!」

通の中でこそ知られていたはずのこの店は、ここのところランチもディナーも連日連夜の満席が続いている。だれかがSNSで紹介して、それがバズったのだろうか。

特に、僕が先日作ったばかりの新作・グラタンドゥフィノアが好調だ。

これまでの看板メニューだったアッシパルマンティエは、なんといっても出来立てのグツグツした状態が最高の一品だった。

だけど、それだけを作り続けていたのではいつかは飽きられてしまうかもしれない。

そう考えて作ったのが、ちょうど冷たくなったアッシパルマンティエを残されたお客さまがいたことがきっかけになった、冷めても美味しいグラタンドゥフィノア。

動物性でなく植物性のオイルの旨みを前面に出した新作のグラタンは、ちょうど梅雨時のじめじめとした蒸し暑さと相性が良かったこともあってか、人気の皿になりつつあるのだった。

― ああ〜、めちゃくちゃ忙しい…。けど、今は止まるわけにはいかないもんな。

鍋を振りながら僕は、今の僕を取り巻く環境について改めて振り返る。

32歳。今だけは絶対に、全力で進化しなくてはいけないのだ。

料理が好きというだけで、後先考えずに10代で飛び込んだパリの街。

実戦で鍛えた腕を見込んで、20代の僕をこの店に招いてくれた五味さんとの出会い。

そして今はその五味さんが、たかだか32歳の僕に店の経営を任せようとしてくれている――。

もちろん、今すぐ急に、というわけじゃない。しばらくは五味さんのもとでしっかりと経営を学び、徐々に引き継いでいく形にはなると思う。

だけど五味さんは、恐縮する僕にこう言ってくれたのだ。

「まだ若いから、なんて関係ないよ。常に向上心を忘れない三隅くんにだったら、きっと任せられると思うんだ」

絶対に、五味さんの期待に応えたい。そのためには、一瞬たりとも止まってはいられない。

疲れなんて感じている暇はなかった。

朝の市場の買い付けから、深夜の新メニュー開発。そして経営の勉強まで、アドレナリンは途切れることはない。

― そうだ。五味さんのためにも、常に向上心を持って全力で戦ってみせる。

だけどそんな僕にとって、唯一この決意が緩んでしまう場所があるのだ。

それは、後楽園の1LDK。

彼女のサチが待つ、僕の部屋だ。

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店を閉めて家に帰れたのは、いつもと同じく終電の時間だった。

「おかえり、健吾」

ドアを開けるなり、サチの出迎えの言葉が聞こえた。

24時をとっくに回っているというのに、サチは絶対に僕の帰りを待っていてくれる。

そして、「いくらシェフだからって、家では自分が作ったもの以外も食べたいでしょ」と言って、手作りの夜食を用意してくれているのだ。

「サチ。いつも言ってるけど、寝てていいのに。でもありがとう」

厨房で油っぽくなった体をシャワーで流している間に、コーヒーテーブルには夜食の準備が整っている。

今日のメニューは、おにぎりが二つと、熱い味噌汁。

サチが作ってくれる夜食は、なんだか実家に帰ったような、ホッとした気持ちになれるような、素朴な献立なことがほとんどだ。

「お店、忙しそうだねぇ」

「まあね。今はグラタンがまだ人気だけど、夏本番にむけてもっとサッパリしたメニューもたくさん作りたいんだ」

「そっかぁ。あんまり無理はしないでね」

「大丈夫。30歳越えてから、ちょっと視野が開けてきたっていうか。ここのところますます仕事が楽しいんだよね」

「えらいね健吾は。私も頑張らないと」

そう相槌を打つサチの声は、僕よりひとつ年下とは思えないほど大人っぽく、あたたかな落ち着きに満ちている。

すでにすっぴんになった頬は、化粧水やらクリームやらが塗られているからなのだろうか。ぴかぴかと桃色に輝いている。

― はあ。本当に、サチといるとホッとするな。

部屋に満ちる、幸福なぬくもり。まるでこの、あたたかな味噌汁のようだ。

僕ももういい歳になったというのに、サチの前では子どものように甘えたくなる。

彼女を前にしてこの素朴な夜食を味わっていると、張り詰めた神経がゆるゆると解ける。

「健吾、美味しい?」

「うん」

優しく微笑みながら尋ねるサチに、同じく微笑みで応える。

けれど僕はその反面、心の中ではこんなふうに考えてしまうのだった。

― 本当に、これでいいのかな…。

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サチの前に付き合っていた彼女――美保とは、20代後半のほとんどを一緒に過ごした。

パリのフレンチレストランで働く僕と、フランスの航空会社でフライトアテンダントとして働いていた美保。

彼女から何度も「30歳前に結婚したい」と言われてお互い日本に帰ってきたものの、そこで五味さんと出会った僕は、もっともっと新しい挑戦がしたくなって――。

その結果、仕事と美保とを両立することができなくなり、5年という歳月を共にしたにもかかわらず、きっぱりと仕事の方を選んで別れたのだ。

それなのに…。

最も大きな挑戦をしようとしている32歳の今、俺の隣にはサチがいる。

サチとは、まだ付き合って1年にも満たない。

共通の友人経由でひょんなことから付き合うことになっただけで、積極的に出会いを探していたわけでもない。

付き合ってすぐに同棲しているのも、単に便利だったからだ。

お互いに部屋の更新が直近だったことと、保険会社で働くサチとフレンチシェフの僕とが会う時間を確保するためには、一緒に住んでいたほうが都合がいいからというだけ。

それがまさか、一緒にいてこんなに落ち着く相手になるなんて…まったく思ってもみなかった。

サチと一緒にいると、ただそれだけで満足してしまう。刺激的な仕事の世界が、遠く別の世界のように感じられてしまう。

― このままサチと一緒にいることで、現状に満足してしまったら…。僕は変わらず、前に進み続けられるんだろうか…?

ベッドの中でサチの髪の香りを吸い込む一方で、五味さんの言葉が頭の中に響く。

常に向上心を忘れない三隅くんにだったら、きっと任せられると思うんだ――。

僕に期待を寄せてくれている五味さんのことを思うと、この腕の中の幸福は、いつかは手放さなくてはいけないのかもしれない。



柔らかなサチを抱きしめる部屋と、未来へ挑み続けるヒリヒリとした厨房。

安定と挑戦の急勾配の日々を繰り返す僕は、サチとの生活の行く末になんの結論も見出せないまま、今日も予約でいっぱいのディナータイムを戦っていた。

「シェフ。白川様が、ご挨拶したいと」

「了解、すぐ行く」

ホールから要望をもらった僕は、調理の合間を縫って白川様のテーブルへと向かう。

普段ならあまりこういったリクエストには応えないのだけれど、白川様だけは別だ。この店ができたばかりの、前のシェフの頃からの常連様で、五味さんからも大切にするように言われている。

「三隅シェフ!」

「白川様。ご結婚15周年、おめでとうございます」

「いやあ、はは。ありがとう」

仕立てのいいスーツに身を包んだ白川様は、すこし恰幅はいいけれど、とても45歳には見えない若々しさだ。横にいらっしゃる奥様も、品があって美しい。

どこからどうみても素敵なご夫婦である白川様が、こうして毎年の記念日にこの店を選んでくださることが誇らしかった。

「お料理はいかがでしたか?ご満足いただけましたでしょうか」

今日お出ししたコースは、ほとんどが僕が生み出した新作の皿だ。

常連様である白川様の記念日を、特別なものにしたい。喜んでいただきたい。その一心で作り上げたコースだということが伝わったからこそ、こうして挨拶に呼ばれたのだろう。

「最高の味だったよ。三隅シェフ、また腕を上げたね」

白川様からは、予想通りお褒めの言葉をいただけた。けれどその後に続いた言葉に、僕は一瞬耳を疑った。

「特に、牛フィレ肉のローストが素晴らしかった」

「ロースト…ですか?」

今日お出ししたコースの中には、グラタンドゥフィノアも、オマール海老のタルタルも、ポワロー葱の冷製ポタージュもあった。

どれも自信の新作だったのに、一番お気に召していただけたものが、よりによって全く手を加えていない既存の皿だなんて。

「あ…ありがとうございます。あの、差し支えなければローストのどのようなところがお気に召したか、お伺いしても?」

グルメな白川様からのヒントやアドバイスがいただければ、もっと先に行ける。現状に甘んじることなく、もっとこの店を進化させられる。

そう思って尋ねた僕だったけれど、白川様の答えはまたしても予想外の言葉だったのだ。

「もちろん、いつもと全く変わらない味だったからだよ」

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「あの…毎年同じ味で、飽きたりはしませんか?」

「飽きたりしないよ。妻に飽きることがないのと、同じだね。帰る場所があるっていうのは素晴らしいことだよ」

「やだ、あなたったら」

「本当だよ。ここのローストは、僕が妻にプロポーズした時と変わらない味を保ってくれているだろ?

こうして毎年記念日にふたりで食事に来るたびに、幸福な人生の初心に返れるような気がするんだ」

軽口を交わしながら、白川様夫妻は幸せそうに笑い合う。

その瞬間、なんとなくわかったような気がした。僕にとってのサチが、どんな存在なのかを。

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サチと一緒にいると、ホッとしてしまう。サチの優しさに甘えていると、体も心もすっかり休まってしまう。

だけど…よく考えれば、仕事でますます精力的に挑戦できるようになったのは、サチと出会ってからなのだ。

サチという帰る場所があるからこそ、外の世界では精一杯頑張れる。

きっと白川様にとっても、奥様はそういう唯一無二の存在なのだろう。

ふと、サチと一緒に今の部屋を内見しに行った時のことを思い出した。

2人の職場にアクセスのいい後楽園にしようと内覧のために待ち合わせしたものの、その日は東京ドームでだれかのコンサートがあって、駅の構内も構外も大混雑していて…。

だけど、溢れかえるような人混みの中でも、サチのことだけは一瞬で見つけられたのだ。

忙しない雑踏の中でほのかに輝いて見えるような、ホッとするような微笑み――。

僕を待っていてくれるサチの優しい笑顔は、今も、あの時のまま何も変わってはいない。

「…ありがとうございます。これからも新しい驚きと同じくらい、変わらぬ味をお届けできるように頑張ります。白川様ご夫妻の、帰れる場所でありつづけられるように」

白川様にそう答えながら、僕は心の中で密かに考える。

32歳。もうそろそろ、帰る場所をもってもいいのかもしれない。

それは決して、挑戦をやめることとイコールじゃない。サチの元に帰ることで僕は、もっともっと、遠くに行くことができるんだと思う。

今夜は僕が、サチに夜食を作ろう。

そして、尋ねてみよう。ふたりの人生において最も重要な質問を。

「美味しい?」という問いと一緒に聞いたらサチは――「うん」と言ってくれるだろうか?


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45歳。幸福な結婚15周年を祝う白川だが…。その、あり得ない本音。

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