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19歳で渡米し、ソースを売って年商250億円…「アメリカンドリーム」を実現した日本人の"死に物狂い"の人生

  • 2025.4.21

無一文から実業家として成功し、「アメリカンドリーム」を地で行く数少ない日本人の一人が、ヨシダグループ会長の吉田潤喜氏だ。約43年前、アメリカでクリスマスギフトとして作った母親直伝の焼き肉のたれが、世界11カ国で販売されるヒット商品に大化けした。しかし、その過程は苦労と失敗の連続だった――。(前編/全2回)

アメリカのスーパーで実演販売する吉田潤喜氏
アメリカのスーパーで実演販売する吉田潤喜氏
「業界トップのハインツ」の隣を死守

「スーパーのオリエンタル食品コーナーには、ヨシダのグルメソースは絶対に置かない。業界トップのハインツのバーベキューソースの隣に置く、と最初から決めていた。ところが、周りからはヨシダのソースが何様のつもりだ、いい気になるなと言われた。『コンチクショー! 今に見てみい』という反骨精神でここまで突っ走ってきたんや」

ヨシダグループ会長の吉田潤喜(75)は、1982年創業当時をこう振り返る。

「ヨシダのグルメソース」といえば、カウボーイハットを被った満面笑顔の吉田の顔がトレードマークだ。ある時はエルビスプレスリー、ある時はカウボーイハットと下駄、着物姿で店頭に立ち実演販売を始めたことでも、吉田は知られている。

全米大手スーパーのソース売り場では、このトレードマークのボトルがハインツのソースと並び、ロングセラーとして根強い人気を誇る。

味のベースは日本の醤油だが、アメリカで当時知られていた日本のテリヤキソースとしてではなく、どこの家庭でもおなじみの「バーベキューソース」として売ることにこだわった。

そのソースは今や日本など海外11カ国でも販売され、年商250億円のヨシダグループ18社の基幹事業に発展した。

ヨシダグループ本社
ヨシダグループ本社
秘訣は「人儲け」と「思いやりの心」

日本では、30~40代の女性の間で、焼肉や煮物、炒め物に使える万能調味料としてSNSで広がり、人気を集めている。

ヨシダのグルメソース。公式オンラインショップやAmazonなどで販売している。全国の取扱店舗は公式サイトで紹介
ヨシダのグルメソース。公式オンラインショップやAmazonなどで販売している。全国の取扱店舗は公式サイトで紹介(写真提供=ヨシダグループ)

吉田は2001年、その功績がアメリカの中小企業局に認められ、50周年記念に選んだ全米24社の中に、FedExやインテル、AOL、ヒューレットパッカードなど並んで「殿堂入り」した。

また、2005年には、雑誌ニューズウィーク日本版「世界が尊敬する日本人100」にも選ばれた。

成功の秘訣は?と聞かれる度に、吉田は必ず満面笑顔でこう答える。

「金儲けの仕方は? 成功の秘訣は?と、よう聞かれるけどな、人に好かれて信頼されて、人から頂いた恩を返す『人儲け』と、相手の立場を思う『思いやりの心』」が一番大事や。商売にも、人生にも、その心しかないんちがうかな」

人としての在り方はふとした瞬間に見える

一般的な成功する経営論や商売論については、多く語らない。

「AIやITの時代になろうと、ビジネスの基本は人間関係だよ。経営の本やビジネススクールでは学べない。僕が社長駆け出しの頃、あるオーナー社長さんからあいさつの仕方、ホテルのボーイさんへの声の掛け方をよく見ておいてくださいと言われ、人としての在り方を学んだ。ビジネスの話は一切しないけれど、お付き合いしている一流のオーナーさんは、誰もが人としての温かさがある」

吉田にとって、商売論とは人間論なのだ。商売をする相手も、真っ先にその人の在り方を見る。人との出会い、人との縁で、これまでの苦難多き人生を乗り越えてきたからだという。

極貧生活、強制送還、人種差別、4度の破産危機、自殺未遂……。人の助けなしではここまで到達できなかったというが、吉田自身の強さがあったから苦労を乗り越えたのではないだろうか。その強さはどこから来たのか、どうやって苦難から這い上がってきたのかと問うと、吉田はこう答えた。

「コンチキショーっていう気持ちで、死に物狂いで走っていたから、苦労やそれをどう乗り越えたかなんて記憶にないんだ。いつの間にか苦労が通り過ぎていた」

「まるでジェットコースターのような人生」

そして、茶目っ気たっぷりな笑顔を見せて「僕の人生は、上っては落ち、また上っての繰り返し。まるでジェットコースターのような人生だよ。それでも、大満足しているけれどね」と続けた。

「ジェットコースターのような人生」とは、どんなものなのだろうか――。吉田は、過去を振り返りながら話を始めた。

「コンチキショー、今に見てみい。わしは絶対に成功したる。でっかい車、買ったるで」

ケンカに明け暮れた10代の頃、よくそう言っていた。そのせいで、家族や親戚が付けたあだ名は「ホラ吹き」。

見栄を張り強がりばかり言うようになったのは、4歳の時の事故で右目が失明したことが大きく影響したと、吉田は話す。後に、この見栄と強がりの性格によって、事業の浮き沈みを経験することになる。

借金をしてまで背中を押してくれた母

在日コリアン1世の両親のもと、7人兄弟の末っ子として生まれた。小学生の頃には、貧困、在日であること、失明によって白濁した右目が原因で、「片目のチョーセン人」とバカにされ嘲笑された。悔しさのあまり、ケンカを繰り返し、中学生の時にもっと強くなろうと空手を習う。これがゆくゆくアメリカで自分の身を助けることになるとは知らずに。

強いものに人一番あこがれた。テレビで東京五輪を見た時、金メダルを獲得する強いアメリカにくぎ付けになった。

アメリカ行きの理由は、ただ単に強いアメリカに引かれたことだけではなかった。

「ほんま、ごんたくれ(誰の手にも負えない、どうしよもないワル)で、このままだとヤクザになるしかなかった。日本には居場所がなかったんだ」

吉田は、当時の身の置き場のない自分を思い出し、こう語った。

自分の居場所を求め、強くなりたい一心だった。その延長線上にアメリカがあったのだ。唯一の理解者の母親が吉田のためにコツコツと貯めていた500ドルと借金をして工面した飛行機代を手渡し、「どうせやるんだったら、大きいことをせえや」と背中を押してくれた。この母の言葉はいつまでも耳元に残り、吉田のその後の人生を引っ張ってくれたという。

父親は反面教師、母親はメンターだったと語る
父親は反面教師、母親はメンターだったと語る
不法滞在者となり、窮乏にあえぐ日々

1969年1月、19歳で京都からシアトルに単身渡米。

「アメリカンドリーム」を夢見た若者を待ち受けていたのは、寝所も食べる物もない厳しい現実だった。帰りの航空券を売って中古車を買い車中生活を送り、芝刈りや皿洗いのアルバイトで日々を凌いだ。

ビザが失効し強制送還を恐れながら、ようやく裸電球がぶらさがる安アパートへ移り、ビザ取得のためにコミュニティスクールにも入学した。が、ひもじい状況は変わらなかった。2度飢餓寸前で倒れ、入院もした。

だが、兄弟や親戚の反対を押し切って家を出たからには、日本へ戻ることは考えていなかった。「今に見てみい」――この負けん気が吉田を、逆境をものともせず、前へと突き動かす原動力になった。

苦肉の策でつくったソースが大好評

転機は、ケンカに強くなるために鍛錬を続けた空手が運んできた。アメリカ滞在から3年目にして人生の歯車が回り始める。

コミュニティカレッジで空手黒帯有段の腕が買われ、空手クラスの助手として採用された。指導の傍ら自らの道場を開き、ようやく生活の糧を得た。この頃、最愛の妻リンダと巡り合い結婚。娘も授かり平穏な日々を送っていた。

しかし、1981年の不況のあおりを受け生徒は3分の1に激減、4人の家族を抱えた生活は一転困窮した。クリスマスを迎え、生徒からのクリスマスギフトのお返しを買う余裕すらなかった。このとき苦肉の策として閃いたのが、焼肉屋をやっていた母親秘伝のたれを作って生徒にプレゼントすることだった。

8時間かけてしょうゆとみりんを煮込んでつくったソースは大好評で、お金を払ってでも買いたいという生徒が相次いだ。

吉田は「これは商売になる」と直感する。

「決断10秒」で運を味方にする

道場の地下にソース工房を設け、昼は空手の指導、夜8時から夜中の2時までは、妻と義理の両親の手助けを借りながらソース造りに明け暮れた。瓶詰めしたソースを「ヨシダのグルメソース」と名付け、アメリカのバーベキューソースとして愛用される商品づくりを目指すと誓った。

ヨシダのグルメのたれ(通称ヨシダソース)
ヨシダのグルメのたれ(通称ヨシダソース)

空手一筋に歩んで来た吉田だが、知識も経験もないビジネスの世界に飛び込むのに、迷いや恐れはなかったのだろうか、と聞くと、吉田はキッパリと否定した。

「迷って1晩も2晩も考えたり、リスクを分析したりしていたら、ソース造りはしていなかったよ。1%でも迷いや悩みがあると、リスクマネージメントなんて考えたり、逃げ道を用意するからうまくいかない。

よくリスクやマーケット分析して何日も考える人がいるけど、はよう、行動せえ思うわ。これだと思ったら、すぐに動き出す。決断は10秒。10秒で答えを出せないなら、やめて次を探したほうがいい。リスクや市場を分析しても、過去のデータから何が起きるかは実際わからんもんや」

1982年ヨシダフーズを設立した。当初、警察学校、空手の生徒や家族、友人たちがソースを購入してくれたが、会社を立ち上げたからには、販路を拡大する必要があった。近隣のスーパーマーケットに飛び込み営業に行くが、無名のヨシダソースを置いてくれるところは見つからなかった。

そこで考えたのが、店頭での実演販売だった。店側に売れた利益の35%を渡し、売れ残りの商品はすべて持ち帰ることを条件に売り込んだ。

モデルは「バナナ売りのおっちゃん」

店頭に自らが立ち、ソースを付けたチキンを焼いて、香ばしい醤油の匂いで客を引き付けようとするが、誰も寄り付かない。

「この顔じゃみんな怖がって近寄って来ないよ」と、吉田が見せたのはその当時の自分の顔写真だ。空手の師範らしく、今とは別人の強面の顔が映っていた。

ヨシダソースを売り始めた当時の吉田氏
ヨシダソースを売り始めた当時の吉田氏

この顔とは真逆の、誰もが好きになるような愛嬌のある顔でないといけないと考えて編み出したのが、着物と下駄とカウボーイハットを身に着けた、変な東洋人の売り子キャラだった。予想通り、これが当たった。

「キャラクターのヒントは、僕の子供の頃に京都の路上で見かけたバナナ売りのおっちゃんを真似たんだ」と、吉田は笑う。

「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。何でこんな格好してソースを売っているのか。家では子供たちが腹を空かせ待っていまして。それも12人!」と、店頭で声を上げる。客が笑い声を上げ、さらに客を呼ぶ。すかさずソースをつけて焼いたチキンを差し出すと、試食した客の7割がソースを買っていった。

1日に売り上げた本数は最高400本。全米各地の店舗から声がかかり、実演回数は年間最多で3500カ所に上った。

店頭販売が当時めずらしいうえに、風変わりな東洋人が面白いジョークを言って売っているという話題性でメディアに取り上げられ、一躍時の人になった。

カウボーイハット、着物姿で「広告塔」となった吉田氏
カウボーイハット、着物姿で「広告塔」となった吉田氏
売るのは、商品ではなく「自分」

注目されるにつれて、やっかみの声もあったという。

「はしたない奴だ、日本の伝統文化を冒涜していると、日本人会から非難轟々。だから、着物と下駄よりも、バレリーナのチュチュとか、もっと派手なクレイジーな格好をしたよ(笑)。おかげで実演販売の依頼が殺到したけどね。自分自身や自分の文化を面白おかしく言うのは、ユーモアの基本。アメリカでは、人生も商売も目立ってなんぼの世界だからね」

裸一貫で始めた命がけのビジネスだから、周りの声も気にしない、恥も外聞も捨てた、と吉田は言う。

商品を売るのに一番必要なことは何か?と聞くと、吉田の答えは明快だ。

「商品が売れない、困っているという声を聞くけど、商品を売るんでなくて、自分を売るのや。僕はソースでなくて、ヨシダという自分を売っている。いかに相手に自分を好きになってもらって、つながりたいと思ってもらうかが勝負になる。あの人おもろいやっちゃと思われたら、こっちの勝ちや。必ずいいお客さんになってくれるはずや」

日本だったら「出禁」案件だったが…

起業から事業が軌道に乗るまでの約10年間は、想定外の出来事が相次いで起き、吉田の事業者としての器が試された。

ある時は、グルメソースの陳列をめぐって大手スーパーと対立に発展したこともあったという。

吉田は営業先のスーパーに、オリエンタル食品コーナーに置くのだけは避けたいという方針を説明していた。消費者が東洋人に限定されてしまうためだ。

にもかかわらず、ある大手スーパーで、グルメソースがオリエンタル食品の棚へと移動されていたことに気づき、すぐさま全商品を引き上げた。

「社員5人の赤字の会社なのに、大手スーパーを相手にケンカを売ってしまったわけですよ。相手のバイヤーは『何様のつもりだ!』と怒鳴り込みの電話をかけてきた。こっちも負けられないから、『約束を破ったのはそっちだ。こっちはアメリカ人に食べてもらいたくて頑張ってんや』と言い返した。

日本だったら即刻出禁だろうね。アメリカには相手の主張を正しいと思ったら、それを尊重する度量の広さがある。その翌日、グルメソースは最大手ハインツの隣に並べられるようになったんや」

ヨシダソースはアメリカの食卓の定番になり、吉田氏は「アメリカでイチローの次に有名な日本人」と称されるようになった
ヨシダソースはアメリカの食卓の定番になり、吉田氏は「アメリカでイチローの次に有名な日本人」と称されるようになった
大手企業が相手でも屈しなかった結果

日本のソースがハインツの隣に陳列されるのは、前代未聞のことだった。それがきっかけで、ヨシダフーズは醤油の仕入れ先の日系企業からいきなり醤油の値上げを通達され、圧力をかけられる。

値上げを見送ってほしいと担当者に頼んだが、担当者は「テリヤキ味が売れるのは、われわれがアメリカで何十年も頑張って浸透させてきたからで、いい気になるな」と吉田に釘を刺した。

「売られた喧嘩はたとえ王者からでも買わなアカン」と考える吉田はすぐさま、相手企業のライバル社に仕入れ先を変えた。

日系企業の圧力は、営業先のスーパーにまで及び、グルメソースが陳列棚の奥にずらされていたこともあった。また、ヨシダとの取引を見送ったほうがいいと言い回り、営業も妨害された。

しかし、最終的に10年後、ヨシダフーズが相手のシェアの6割を奪い、勝敗がついた。

「起業に一番必要なのは、自分より大きい相手に対して、なにくそと向かう気持ちだ。潰されないためにケンカ根性を発揮しないとアカン」

吉田はたとえ大手スーパーや大手食品メーカーが相手でも、彼らの要求が理不尽であればそれをはねのけ、自分の信念を貫いてきた。彼のそんな屈しない強さが、一代で事業を成し遂げる力になったことは確かだ。

(本文敬称略)
(後編へつづく)

聞き手・構成=ライター・中沢弘子

吉田 潤喜(よしだ・じゅんき)
ヨシダグループ会長
1949年、京都市生まれ。19歳だった1969年に単身渡米し、空手道場経営のかたわら手づくりした「ヨシダソース」が大ヒット。現在、ヨシダソースインターナショナルほか、リゾートマンションや土地、アパート経営事業などを手掛けるヨシダグループ会長を務める。著書に『人生も商売も、出る杭うたれてなんぼやで。』(幻冬舎)、『無一文から億万長者となりアメリカンドリームをかなえたヨシダソース創業者ビジネス7つの法則』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など、望月俊孝との共著に『でっかく、生きろ。 世界をつかんだ男の「挑戦」と「恩返し」』(きずな出版)がある。

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