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「お前、スターになりたいんだろう?」不振の銀次を救った闘将・星野仙一からの“金言”

  • 2026.8.29

現役時代は「燃える男」、監督としては「闘将」と称された星野仙一が天に召されて8年。昭和・平成の球界を熱狂させた名将の実像に迫る連載第12回は、2013年に東北楽天ゴールデンイーグルスを初の日本一へと導いた打の主軸・銀次に話を聞いた。2011年3月11日、未曾有の大震災に見舞われた直後、帰郷を望む選手たちを押し留めた星野の真意とは何だったのか。そして、激しいぶつかり合いの末に見えた指揮官の深い愛情まで、知られざるエピソードを明かしてもらった。【銀次インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

新球団誕生、そして地元球団へ

2004(平成16)年秋、日本プロ野球界を大きく揺るがした球界再編騒動の末、東北の地に新たなプロ野球球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生した。当時、岩手県・盛岡中央高校の3年生だった銀次にとって、このニュースは特別な響きを持って届いていた。かつて1970年代にロッテオリオンズが準フランチャイズとして、県営宮城球場を使用していた時期はあったものの、地域に根差した本格的な球団が東北に生まれるのはNPB史上初めてのことだったからだ。

「東北に球団ができたんだな、という嬉しさがありましたね。僕自身、“プロに行きたい”という思いが何より強かったので、最初から“絶対に楽天に入りたい”と強く意識していたわけではないですけど、地元の東北に球団が生まれたこと自体にはすごく興味を持っていましたし、素直に嬉しかったです」

高校通算24本塁打の強打の捕手として注目を集めていた銀次は、05年の高校生ドラフト3巡目で地元・イーグルスから指名を受ける。晴れて新生球団の門を叩いたが、プロの壁は想像以上に高かった。当時、チームを率いていたのは、名将・野村克也である。捕手出身の野村が求める緻密な「考える野球」、その高い要求レベルに、若き日の銀次は圧倒されるばかりだった。

「野村さんは厳しいだろうなというイメージはもともと持っていました。実際にプロに入ってその『考える野球』に触れたとき、正直言って“このレベルにはついていけないだろうな”と感じてしまったんです」

自身の生き残る道を模索した銀次は、プロ4年目に大きな決断を下す。バッティングの技術には自信があった。守備の負担を減らし、打撃一本で勝負したいという意向を、当時の二軍監督であった松井優典に直訴したのである。こうして捕手から内野手へのコンバートが決まった。その一方で、野村監督が注入したID野球の精神は、着実にチームの土台となって蓄積されていった。

「野村さんが作ってくれた土台というのは、すごく大きかったと思います。特に正捕手だった嶋(基宏)さんがいちばん野村さんに怒られていたし、配球やリード、野球に対する考え方を徹底的に叩き込まれていた。いい意味でも悪い意味でも、チーム全体に野村野球が定着していた感覚がありました」

09年シーズン限りで野村が退任し、マーティ・ブラウン監督による1年間の指揮を経て、11年にチームの指揮権は「闘将」星野仙一へと託されることになる。高卒からの5年間、主としてファームで研鑽を積み、前年の10年に念願の一軍デビューを果たしていた銀次にとって、プロ6年目となる11年は勝負の年であった。

悪夢の「3.11」、そして星野の決断

「星野さんに代わって、気持ちの変化は大きかったですね。“やってやるぞ”という気持ちを引き出してくれるのが、まさに星野さんでした。当時はまだ実績のなかった僕を、なぜ星野さんが使ってくれたのか、正直言っていまだにわかりません。でも、とにかく、“星野監督を胴上げしたい”という一心で、必死になってプレーしていました。怖さもあったけど、それ以上に言葉や姿勢の裏に深い愛情を感じさせてくれる。選手にそう思わせるのが、本当に上手な監督でした」

「野村野球」によって作られた戦術的・理論的な土台。そこに星野仙一という稀代の指揮官が情熱と闘争心を吹き込もうとしていたまさにそのとき、東北を、そして日本全土を未曾有の事態が襲うことになる。2011年3月11日——。兵庫県・明石公園第一野球場(現・明石トーカロ球場)で行われていたオープン戦の最中、その瞬間は訪れた。守備に就いていた銀次に、突然の試合中断とベンチへの集合がかかる。東日本を中心に未曾有の大地震が発生したという知らせがもたらされたのは、まさにそのときだった。

「守備の途中で急に中断になって、ベンチに集められました。東北で大きな地震が起きたから、まずは家族に連絡を取ってくれということでした。急なことで何も事態が飲み込めないまま、すぐに電話して、幸いにも家族の無事は確認できました。でも、宿舎へ向かうバスの中でテレビをつけると、仙台空港に黒い波が押し寄せてくる映像が流れていて……」

地元・東北を襲ったあまりに凄惨な光景に、選手たちの間に激震が走る。地元に家族を残している選手たちからは、「一刻も早く仙台に帰りたい」という悲痛な声が上がった。選手会長の嶋基宏も選手たちの思いを汲み、一時帰仙を星野に打診する。しかし、闘将が下した決断は、周囲の予想に反して冷徹とも思える「待機指示」だった。

「確かに、“何で帰らせてくれないんだ”という声は選手の間でも上がっていました。ただ、僕は当時まだ独身でしたし、若かったこともあって客観的に受け止めていた部分もありました。何よりも、“今帰ってもオレたちには何もできない。水も電気もない場所に行けば、逆に現地に迷惑がかかる。ここにとどまって野球に集中することが最優先だ”という、星野さんの言葉には、強い説得力がありました」

動揺する選手たちを抑え込み、自らが全責任を背負う形で帰郷を制止した星野。その厳しい判断の裏にあったのは、指揮官としての覚悟と、被災地に寄せる真摯な思いだった。

「星野さんは僕たちに、“オレたちは野球しかできないんだから、野球でみんなを元気にさせよう。それが復興につながるんだ”と繰り返し言っていました。あのパニック状態の中で、“今は帰る時期ではない”と言い切れる判断力は、本当にすごかった。僕がもし監督の立場だったら、迷わず“まず家族の下へ行け”と言ってしまっていたと思います」

交通網やライフラインが途絶する中、チームは各地を転々として練習を継続した。しかし、未曾有の危機に直面したことで、チームの絆と覚悟は一気に強固なものとなる。野村時代に培った緻密な野球という土台の上に、星野が毅然とした態度で示したプロとしての覚悟、それがチームにブレない軸をもたらした。

「今振り返ると、あの3.11のときの星野さんの判断から、すべてが順調に一筋の線でつながっていたんだと思います。被災地のために何としても勝たなければいけないという雰囲気が、チーム全体に自然と生まれていきました。2年後の2013年に日本一をつかみ取ることができたのも、あの日、星野さんが覚悟を決めて僕たちを押し留めてくれたからこそだと思っています」

言葉ではなく生き様で「プロのあり方」を示した星野仙一。その教えを胸に刻んだ銀次は、やがて来る勝負の季節に向けて、自らのバットをさらに研ぎ澄ませていくことになる。

ぶつかり合いの中で知った「闘将の素顔」

レギュラーに定着し始めた頃、メディアやファンの間では銀次のことを「星野チルドレン」と呼ぶ声が多く聞かれた。実際に指揮官から掛けられた期待を感じ取っていた銀次だが、同時に二人の間には激しい感情のぶつかり合いもあった。ある日の試合序盤、守備でミスを犯した銀次は、ベンチに戻るやいなや途中交代を告げられる。あからさまな懲罰交代だった。

「ベンチに戻ったら、“お前、もう使えないな”と言われて。その瞬間、思わず“じゃあ、使わなきゃいいじゃないですか”と口から出てしまったんです。“使っているのはオレじゃないんだから”という思いまでありました。ヤバいと思ったけど、反省した態度は見せなかったですね。星野さんも当然そのひと言を聞いていたはずです」

並の指揮官であれば二度と使われないかもしれない局面である。だが翌日、スターティングメンバー表には変わらず「銀次」の名があった。

「次の日もスタメンで使ってくれたんです。悔しさとともに“今度は見とけよ”という強い気持ちで打席に入り、結果を残しました。星野さんは選手のハングリー精神を引き出すのが本当に上手でしたね。ミスを咎(とが)めて突き放すのではなく、翌日にすぐ取り返すチャンスを与える。だからこそ、“この監督を胴上げしたい”と思わされるんです」

一方で、スランプに陥って思い悩む教え子には、包み込むような温かさを見せる一面もあった。グラウンドで全体練習が行われている最中、ふと「銀次、こっちに来い」と呼び出されたことがあったという。

「また怒られるのかなと思って近寄ったら、“お前、今打てていないだろう。スターになりたいんだろう”と言われて。“なりたいです”と答えると、“王(貞治)、長嶋(茂雄)は常に明るかったぞ。どんなに調子が悪くても元気だった。お前もそれくらい明るくいけ、下を向くな”と声をかけてくれました。そのひと言で一気に肩の荷が下りて、すごく救われました」

互いに感情を隠さずぶつけ合いながら深まっていった師弟の絆。その強固な信頼関係が、2013年の東北に奇跡をもたらす原動力となっていく——。

後編に続く)

Profile/銀次(ぎんじ)
1988年2月24日生まれ、岩手県出身。盛岡中央高校から2005年高校生ドラフト3巡目で東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。内野手へ転向後、星野仙一監督の下、12年にレギュラーへ定着すると、13年には打率.317をマークし、球団初のリーグ優勝と日本一に大きく貢献した。プロ通算1239安打、打率.290を記録し、巧みなバットコントロールで長年イーグルスのヒットメーカーとして活躍。23年限りで現役を引退し、現在はアンバサダーとして球団や東北の発展に尽力している。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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