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【芥川賞候補 八木詠美】新居が決まったのに“壁紙がまったく選べない女”の謎。著者初の中編集『ささやかな、あるいは取り返しのつかないもの』【書評】

  • 2026.8.5
ささやかな、あるいは取り返しのつかないもの 八木詠美 / 筑摩書房
ささやかな、あるいは取り返しのつかないもの 八木詠美 / 筑摩書房

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『アンチ・グッドモーニング』(河出書房新社)が第175回芥川龍之介賞の候補に選ばれ、太宰治賞受賞のデビュー作『空芯手帳』(筑摩書房)は世界26カ国で翻訳されるなど、いま大注目の八木詠美。初の中編集となる『ささやかな、あるいは取り返しのつかないもの』(筑摩書房)には、ままならない人生に翻弄される女性たちの物語が綴られている。

第一章となる「いちご泥棒」に登場するのは“壁紙を選べない女”だ。タイトルの「いちご泥棒」とは、壁紙の名前だという。夏の別荘で育てたイチゴが鳥たちに食べられてしまった…というエピソードを持つかわいい壁紙。その美しさは主人公を魅了するが、彼女はそれを最後まで選ぶことができない。なぜだろうか。

●「選ばない」人生の不自由さ

引用----

(P39より引用)

今朝起きてから自分が何をしてきたかうまく思い出せない。けれどずっとこうだった気もする。わたしはずっと乾いている。何かを選ぶふりをしながら手にしていたものをひっそりと殺し続け、いつのまにか少しずつ自分ではない誰かになってきたような気がする。

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物語を読み進めると、主人公は選べないのではなく「選ばない」のではないだろうかと思えてきた。どの場面においても彼女は選んでいないのだ。派遣社員という仕事柄、服はどんな職場でも差し支えないブラウスとスカートしか選ばない。結婚も、夫から「結婚式を高齢の祖父に見せたい」と言われて返事をしただけで、喜びは感じなかった。ほとんど夫が決めた新居にも、自分が住みたいわけではない。なのに話の流れで壁紙を選ぶことになり、彼女は“自分には趣味がないのに…”と動揺する。

主人公の人生はあまりにも退屈そうだ。けれども、それを否定することができるだろうか。彼女は子どもの頃、宝石のように大切にしていたシール帳のことを思い出し、どこで宝物を手放してしまったのだろうかと考える。そして「10年後の自分はきっと今とは違う。でも5年後はどうだろう」と代わり映えしなそうな今後の人生のことを思う。きっと変われるのだとうっすら期待しながら。

壁紙を選ぶなかで、彼女は気づいたのかもしれない。その美しいものがあてはまる部屋の中に自分はいない、ということに。今の人生は自分が望んだものではないし、自分はこの壁紙が貼られた部屋に暮らすような“特別な存在”ではないのだと。

●失われた「選択」を取り戻す

引用----

(p43より引用)

「壁紙はね、失業しようと家庭内に不和があろうと死ぬほど面倒なことがあろうとあなたを慰めてくれる。あなた自身がそこにいる限り。なのに、そんな僥倖に対してどうしてそんなつまらなそうな顔してるのよ? それはあなたの部屋なのよ? 好きだろうと嫌いだろうと交換不可のあなたの場所なの」

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物語の後半で、壁紙を売る女が主人公に発した言葉は、部屋が人生そのものを指すことを示唆するようだった。部屋も人生も、好きだろうと嫌いだろうと自分のものであることに違いないし、交換はできない。退屈しないかどうかはきっと自分次第なのだ。

本作を読みながら、「いちご泥棒」のように大切に育ててきた宝物を知らないうちに誰かに奪われてはいないだろうかと考えずにはいられなかった。もしそうだとしても、そのような結果を招いたのは他でもない自分なのだ。だとしたら、失われた「選択」を取り戻さないといけない。

本作には他にも、何かに心を囚われているような女性たちが登場する。滑稽に見えるかもしれないが、それはきっと自分自身の姿でもあるのだ。彼女たちの日常は自由だとは言えないが、希望がないわけではない。自分の単調な人生もまた、こんなものかもしれないけれど、そう思えている現時点は“終わり”ではなく“始まり”なのではないだろうか。始めるための選択はささやかなもので、自分にもできることかもしれない。そんなふうに背中を押してくれる優しくも刺激的な一冊だった。

文=吉田あき

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