1. トップ
  2. カルチャー・教養
  3. 流行写真通信 第42回:マーク・ボスウィックは光と戯れ、間違いを愛す

流行写真通信 第42回:マーク・ボスウィックは光と戯れ、間違いを愛す

  • 2026.7.21
流行写真通信 第42回:マーク・ボスウィックは光と戯れ、間違いを愛す

取材の前夜、マーク・ボスウィックは彼の写真展のレセプションにて唐突にパフォーマンスを始めた。「これから詩を読みます」と宣言し、彼の映像が大きく投影された壁をバックに、ハンドベルで音を奏でながら、彼は小1時間、自作の詩が書かれたペーパーを次々に読み上げては床に落とした。それは映像と呼応し、写真展の主題である「光」を讃えるかのような愉悦に満ちた時間だった。

マーク・ボスウィック。1962年ロンドン生まれ。光漏れ、飽和した色、意図的にずらされたピント——「間違い」を積極的に呼び込む彼のイメージは、1990年代の『i-D』『VOGUE Italia』『Purple』を舞台に、ファッション写真の文法そのものを書き換えた。私は彼の写真集『Synthetic Voices』(1998年)を編集したこともあり、公私ともに長い付き合いとなる。

マーク・ボスウィック
マーク・ボスウィック photo by Jules Muir

ボスウィックは7月1日から28日まで、ISSEY MIYAKE GINZA│CUBEで特別展「Mark Borthwick: Something Out of Nothing Into Everything」を開催している。〈HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE〉が2026/27年秋冬シーズンのテーマに掲げた「光=In a New Light」をめぐる撮り下ろしの写真群、プリーツの動きと光の移ろいを捉えた映像、手書きの詩を添えて綴じた冊子も展示。展示空間のディレクションも彼自身によるもので、陽光煌めくまばゆい空間が銀座に出現している。

“Mark Borthwick: Something Out of Nothing Into Everything”展示会場写真
“Mark Borthwick: Something Out of Nothing Into Everything”展示会場写真
“Mark Borthwick: Something Out of Nothing Into Everything”展示会場写真
“Mark Borthwick: Something Out of Nothing Into Everything”展示会場写真
“Mark Borthwick: Something Out of Nothing Into Everything”展示会場写真
“Mark Borthwick: Something Out of Nothing Into Everything”展示会場写真

取材は互いの近況報告から始まった。ボスウィックは長年住み慣れたニューヨークを離れ、ポルトガルに数カ月前に移住したばかりだという。そのポルトガルで今回の撮影は行われている。まずは〈イッセイミヤケ〉のプロジェクトが始まったきっかけを尋ねた。

「美しい贈り物だった」とボスウィックは振り返った。「心の底から言うんだけど、働く機会というのは贈り物なんだ。いい仕事はそう簡単には来ない。でもそれ以上に——自分が本当に繋がりを感じられる仕事、共振できる仕事がどれだけあると思う?だからこれは贈り物だった」

しかも彼は、この贈り物がどこへ転がるのか最初は何も知らなかったという。「展示になるとも、本を作るとも、僕が詩を朗読するとも、東京と京都に行くとも、何ひとつ知らなかったんだ。全部、魔法みたいに起こった。当初は、僕はただ、〈HOMME PLISSÉ〉のために写真を撮ってくれと依頼されただけなんだ」

そしてその呼びかけが、彼に子ども時代にまで繋がる深い感情を目覚めさせた。ちょうど自身の写真集『Out of Date』を作り終え、自分の出発点に意識を向けていた時期だったからだ。「自分の半生を仕事のキャリアと言っていいのかわからない。ただ好きなことをやっていただけだからね。正直、僕は『仕事をしている』という感覚がないんだ。人生で数えるほどしかね」

実は写真のキャリアの原点に三宅一生との出会いがあったという。

「僕が初めて日本に来たのは、〈イッセイミヤケ〉と関係があるんだよ。若い頃、ウィリアム・フォーサイスが芸術監督をしていたフランクフルト・バレエ団の撮影をしていて、そこで三宅一生に会ったんだ。91年ぐらいかな。フォーサイスにツアーへの同行撮影を誘われて来日したんだ。ちょうどフォーサイスが〈イッセイミヤケ〉とコラボレーションを始めたときだった。その衣装が崇高なまでに美しくてね」

その少し前に、ボスウィックはマーサ・グレアムの公演を撮っていた。「ダンスはドラッグみたいなものさ。ダンスを撮ることに病みつきになったんだ。マーサ・グレアムはオペラ座が拠点で、フォーサイスはシャトレ座が拠点。それらの劇場の裏口からこっそり忍び込んで撮ったんだ」。ボスウィックは撮った写真――つまり盗み撮りだ――をフォーサイスに送ったところ、なんと彼からコラボレーションの誘いが返ってきた。「魔法は起こるんだよ。心に従えばね」

そして彼はフォーサイスのダンスの公演で、〈イッセイミヤケ〉のプリーツと出会う。「プリーツの始まりの頃だ。ダンサーが着ているものが、透明でありながら身体の一部で、それでいて身体から零れ落ちていく。衣服が自分の軽やかさを持って、勝手に動いていく。夢のようだった。最初に見たとき、僕は泣いたと思う。美しすぎてショックだったよ」

写真を撮る前はヘアメイクの仕事をしていたボスウィック。ダンスを撮ることが、本格的に写真にのめり込んだきっかけだという。では、写真自体はどこで学んだのか尋ねてみた。

「学んでない。今も学んでいない。カメラについて知るべきことなんて何もないから。たしかにカメラを持ってるよ。でも、君の言う『学ぶ』って何だい?」

技術的なことだよと私は答えた。

「技術ね。僕は技術を何も知らない。正直に言えば、技術は教育と同じで、時に邪魔になるんだ。技術には『どうやるか』というノウハウがくっついている。僕はノウハウに興味がないんだ。ずっとアンノウン=未知に興味がある。僕は未知で生きている。だからミステイク=間違いが好きなんだ」

〈HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE〉の今季のテーマは「光」だ。ボスウィックの写真は常に自然光とその偶然性でできている。プリーツという襞、立体的な衣服という媒体を通して、彼は光をどう捉えたのか。

「自然光で撮影する上で素晴らしいのは、僕が何もしなくていいってことだよ(笑)。ただ、信頼だ。光を信頼する。自分を信頼する。自分の内側の光を信頼するんだ。僕はファッション撮影に臨むときに、事前に何をするか決めて行ったことが一度もない。その場所では処女のようでいたいんだ。裸で、空っぽで。そうすれば魔法が起こるんだ」

Photography: Mark Borthwick
Photography: Mark Borthwick

今回の撮影に〈イッセイミヤケ〉のチームが、美しいコンセプトを携えていた。「光についての包括的なヴィジョンを持っていたのは〈イッセイミヤケ〉のチームだった。だから僕らはすぐに繋がったんだ」

〈HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE〉チームはこのプロジェクトの始まりをこう答える。

「今シーズンのテーマ『In a New Light』と、自然現象や光、その偶然性や儚さを慈しむボスウィック氏のアプローチに共通点を感じたことがきっかけです。〈HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE〉には、衣服をプロダクトとしてつくるという、ある種の規則性があります。そのプロダクト性と、ボスウィック氏の詩的で自由な創作性が掛け合わさることで、私たち自身にとっても見たことのない表現、すなわち新しい『光』が発見できるのではないかと考えました」

Photography: Mark Borthwick
Photography: Mark Borthwick

偶然にもボスウィックは依頼が来たときに、ポルトガルの自分の庭で布を風に晒して遊んでいたという。「布を吊るして、門を作って。その写真を〈イッセイミヤケ〉のチームに送ったら、即座に繋がりが生まれたんだ」。そして〈イッセイミヤケ〉のチームが大量の布を抱えてポルトガルにやってきた。「夢みたいだったね。信じられない量の布だったんだ。撮影での最初の一枚は、布を壁に貼ってバックドロップにしただけ。そこにモデルが来たから後ろに立たせて、それから身体に布を巻き始めた。服との対話みたいにね。そうやって新しい言語が生まれていくのをただ許したんだ」

この撮影自体がひとつのダンスだった、とボスウィックはいう。「写真が勝手に進化し、変化し、何かが起こるための空白をつくる。自分が子どものようにいられる空白を許すことが大事なんだ。子どもの頃に、おばあちゃんやおじいちゃんのクローゼットに入って勝手に服を着てみた経験のような。ファッションとは、僕にとってはそれなんだ。本物のファッションは街にあるだろう。そしてもうひとつは、子どもが仮装し遊ぶ場所にある。僕はいまだにその子どもだ。ファッションを真面目で肩肘張ったものとして受け取ることなんてできないんだ。僕らはみんな夢見る者だ。人を夢見させるイメージをつくれるなら、人の心に触れられるはずさ」

ポルトガルでの撮影現場でのボスウィックの撮影方法についても、〈HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE〉チームはこう証言する。

「あらかじめ完成形を決め込むのではなく、その場で生まれる光や空気、偶然性を大切にされていたことが印象的でした。あえてフィルム室の蓋を開けて光を取り込み、強い太陽光の中で撮影を行うなど、自然から生まれる光をコントロールするのではなく、共存しながら受け入れ、作品の一部として取り入れていく姿勢に、ボスウィック氏ならではの向き合い方を感じました」

展覧会のタイトルは「Something Out of Nothing Into Everything」。直訳すれば「何もないところから何かが生まれ、すべてへ」。まるで禅僧の言葉だ。鈴木大拙的といってもいいか。このタイトルはどこから来たのだろうか。

「わからない。たぶん、瞑想の実践から出てきたんじゃないかな。いつも短い詩を書き溜めていて、この一行を書いたとき、『ああ、気持ちがいい言葉だ!』と思ったんだ。あの一行には、たくさんの真実がある。なぜならそこが、僕らが創造する場所だから。ポルトガルに住んでいると気づくんだよ。そこが無の純粋さである場所だと。何もいらない。一方で僕は、すべてを持っているから」

私がボスウィックのNYブルックリンの家を訪れた2004年、彼はその陽光が差し込む広々とした空間で毎日瞑想をしていると言っていた。そしてそれは今も継続しているという。

「そう。毎日2時間。時にはもっとだね。でも、瞑想のために休止するんじゃなくて、人生そのものが瞑想になる感覚なんだ。この会話だって一種の瞑想だよ。そもそも僕は、自分を写真家だとすら思っていない。写真は僕の見方の反映で、カメラは記録の媒体でしかない。毎日の行為という意味では、僕はむしろ詩人だ。そして僕らが創造の源として持っている言語——つまり、光の言語がある。それは万物の起源であり、何より、道具なんだ。すべての人間が生まれながらに持っている道具だから。だったら僕らは互いにそんなに違わないはずさ。なぜ人はあんなに一生懸命、違いをつくろうとするんだろう?本当はどれだけ似ているかにこそ注意を払うべきなのに」

彼はここ数年、『Silk Road』(2023)、『Out of Date』(2025)、今年5月にはメゾンヴァレンティノの発行でアレッサンドロ・ミケーレのオートクチュールを再解釈した豪華本『Specula Mundi』と立て続けに本を出し続けている。『Out of Date』で、彼は80〜90年代に撮影したポラパン・フィルム(ポラロイド社が製造していた白黒インスタント・スライドフィルム)の作品に立ち返った。

Mark Borthwick “Out of Date”(Rizzoli)表紙
Mark Borthwick “Out of Date”(Rizzoli)表紙

「『Out of Date』の作業で、僕らは時間とともに進化すると発見したんだ。うまくなるんじゃない。ただ、自分に与えられた美しい贈り物への理解が、少しクリアになるだけだ。ポラパンが教えてくれたのは、あの頃の僕が“間違い”に興味を持っていた、ということだった。完璧という意識がなかった。完璧とは、避けるべき対象だった。イメージが崩壊していく余白を許すこと。ポラパンのフィルムはひどく脆かった。だから大切に扱いながらも、同時に引っ掻き、傷をつけたりしたんだ。僕は間違いで生きている。間違いの中にこそ"差異"が見えるはずだからね」

from Mark Borthwick “Out of Date”(Rizzoli)
from Mark Borthwick “Out of Date”(Rizzoli)

それにしてもデジタル全盛の時代に、ボスウィックはなぜ本にこだわるのだろうか。

「それは、僕らが毎日新しい一日に目覚める感覚と同じなんだ。僕らはページをめくる。比喩ではなく、僕ら自身がページなんだ。毎日が新しい一ページ。そしてページは“めくる”という運動によって存在する。それはスクロールとはまったく違う。スクロールには終わりがないから。本という触覚的な物体は、時に瞑想と変わらない深い情緒を与えてくれる。日本の茶の湯と同じだよ。本や雑誌が10年後には消えていると言う人がいるけれど、僕は信じない。僕の本はここにあり、ここに残る。本は共有され、それ自体の物語を語り、世代を超えて渡されていく。僕の仕事は、あの“仮想の領域”には存在しない。この本という形式の中に存在する。そして本はタイムレスなんだ。テックの世界にあるものが、いつまでもあるとは限らないだろう。でも本はいつまでもある。もし火事になったら、燃え残った一冊探し出せばいい。まあ、ネズミにかじられるという可能性もあるけどね(※ボスウィックは彼の貴重なポラロイド写真数千枚を家の中のネズミにかじられたという経験を持つ)。でもブランドが雑誌を支えないなら、雑誌のいくつかは消えるだろうね。だったらZINEを作ればいい。50ページでいい。ポスター一枚でもいい。僕らはDIYの場所に、手で作る場所に戻ればいい。だから僕は言うんだ、『始めろ、ZINEを作れ』とね」

from Mark Borthwick “Out of Date”(Rizzoli)
from Mark Borthwick “Out of Date”(Rizzoli)

だが私たちは、資本主義に片足を置いたまま生きている。中でもボスウィックはファッションという領域を主戦場としている。その矛盾の中で、彼はどうバランスを取るのか。

「まあ、僕は天秤座だから(笑)。バランスを取ることのいい見本だよ」

フィルムもフィルムカメラも減り、写真を掲載する紙媒体も苦境の中、写真はいま、危機にあるのではないか。ボスウィックはにこやかに笑いながら否定する。

「その質問自体が危険だよ。10年前なら意味があった。でも今日では意味がない。フィルムは10年前に絶滅したことになっていたのに、また店で買えるじゃないか。若い世代がフィルムで撮り始めている。すべては揺り戻しがくるんだ。印刷物も同じだよ。いいかい、僕はフィルムで撮るのをやめたことがないんだ。僕はフィルムでしか撮らない。デジタルカメラに問題はないよ。ただ、僕の目の見え方じゃないんだ。僕はずっと光を見つめて瞑想してきたから、僕の目はもう太陽に完全に焼けているんだ(笑)。だから全部が少し柔らかくて、少しピントが外れて見える。フィルムは、僕の見え方の鏡なんだ。僕がこの世界にいる限り、フィルムは存在する。保証するよ(笑)」

フィルム室の蓋をわざと開ける。光を「事故」として招き入れる。それは30年前から彼がやってきたことであり、30年経っても彼がまだ飽きていないことでもある。ボスウィックにとって、写真とは光と被写体の出会いによる素晴らしい「事故」なのだ。それは大らかで、柔らかく、光に満ち溢れている。

取材の最後、彼は前夜のことを楽しそうに振り返った。実はベルを鳴らしながらの詩の朗読は、人生で初めてだったという。64歳にして初めて。「ギターは音がでかいから、近所迷惑になると思って持ってこなくてね。だから、小さなベルを鳴らして詩を読もうと思ってね」

「何もないところから、何かが生まれ、すべてになる」。彼はニューヨークでも、ポルトガルでも、銀座のホワイトキューブでもそれをやってのけたのだ。

元記事で読む
の記事をもっとみる

注目コンテンツ