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服飾史家 中野香織さんが解き明かす“ロイヤルの肖像”【vol.5 ジツェン・ペマ・ワンチュク王妃】

  • 2026.6.2
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ヒマラヤの山々に抱かれた小国ブータン。この国は、経済的な数値以上に「国民総幸福量(GNH)」と環境保護を国家理念に掲げる、高い精神性を備えた近代国家です。2008年に絶対王政から立憲君主制へと移行し、若き国王ジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク陛下が近代化の舵取りを担うなか、その「慈愛の象徴」であり、最強の外交カードとして世界を魅了しているのが、ジツェン・ペマ・ワンチュク王妃です。

伝統衣装「キラ」が伝えるラグジュアリーの新しい思想

1990年生まれの王妃は、航空パイロットの父と名門家系の母の間に生まれ、リージェンツ・ユニバーシティ・ロンドンで国際関係学や心理学を修めた、知的な現代女性。2011年、21歳の若さで国王と結ばれた結婚は、伝統的な政略結婚ではありませんでした。国王自らが「心優しく聡明で、何より芸術を愛する女性」と紹介し、一夫多妻制が容認されていたブータンにおいて「生涯、彼女だけを妻とする」と宣言した、深い信頼に基づく「ラブマリッジ」だったのです。この決断は、ブータン王室が「封建的な美徳」から「現代的なパートナーシップ」へと脱皮した瞬間でもありました。

王妃のパブリックイメージを決定づけているのは、公務において一貫してまとわれる民族衣装「キラ」です。女性用のキラに、ブラウスの「ウォンジュ」、ショートジャケットの「トゥガ」を重ねた装いは、保守的に映るかもしれません。しかし、色彩やモチーフの選択には、高度なメッセージが込められています。

例えば、ライラックやオレンジといった鮮烈な色使いは、伝統に現代的な感性を吹き込む試みです 。特筆すべきは、ブータンの魂とも言える精緻な紋織りや刺繍を施した装いです。気が遠くなるような時間をかけて織り上げられた職人への敬意、そして「自国の文化こそが最高の資産である」という揺るぎない矜持を、王妃自らが視覚言語として体現しているのです。

2023年のチャールズ3世戴冠式でも、彼女の存在感は際立ちました。欧米の王妃たちが競うように西洋のオートクチュールをまとうなか、彼女は一貫して自国の伝統様式を貫きました。バッキンガム宮殿のレセプションでは、エメラルドとダイヤモンドのバンドーを伝統衣装に見事に調和させ、「エシカルな手仕事」と「歴史への誠実さ」こそが、次世代に継承すべき真の豊かさであるという美学を世界に提示したのです。

「幸福の国」の矛盾を埋める福祉の最前線

彼女の真価は「美しき王妃」というアイコン的役割に留まりません。王妃は「アビリティ・ブータン・ソサエティ(ABS)」などの団体を通じて、障がい児支援や医療・福祉の向上に心血を注いでいます。2016年にはブータン赤十字社の総裁に就任。険しい山間部の集落や、設備が十分とは言えない地方の病院へ足を運び、人々と直接対話しました。その姿は、国民の痛みに並走する「生きた王妃像」を確立しました。

現在、3児の母として次世代の王位継承者を育てながら、国連環境計画(UNEP)のオゾン・アンバサダーとして国際的な環境問題にもコミットしています。
ブータンは今、グローバル化による若者の流出や経済格差という現実的な課題に直面していますが、そのなかでの彼女の存在は、王室の広報という次元には収まりません。

守るべき伝統を「古い形式」から「未来への資産」へと読み替え、教育や環境を通して国の輪郭を静かに描き直しているのです。その積み重ねこそが、この小国が世界のなかで埋没しないための確かな道筋となります。ジツェン・ペマ王妃がまとうキラの重みは、一国の文化と幸福の理念をその身に引き受ける姿勢の表れです。凜とした佇まいの奥に見えるのは、国家の未来像を見据える優しい決意にほかなりません。

ヒマラヤの至宝である王妃が示す「幸福」の新しい形

チベット仏教の伝統にのっとって執り行われた結婚式でのウエディングドレス姿。式後、公の前で交わされたキスは、国民に大きな感動を呼びました。 AP/AFLO
2016年6月、ブータンを公式訪問中のスウェーデン王室を迎えて。 TT News Agency/AFLO
天皇陛下の「即位の礼」に際し’19年10月に来日、伝統の最礼装で臨席した国王夫妻。気品ある佇まいが、王国を代表しての敬意と祝福を象徴。 REX/AFLO
’23年5月、チャールズ英国王の戴冠式前晩餐会に夫妻で出席。 Samir Hussein/WireImage
’24年10月に一家で訪豪。パースのスタジアムに集った在留ブータン人の前に3人のお子さまたちと登場。温かなほほ笑みが、遠く離れた地にも祖国への誇りと絆を呼び覚ましました。 REX/AFLO

[Hot Topic]

「幸せの感性」を継承する王子たち

REX/AFLO

ブータン王室の未来を担うジグミ・ナムゲル皇太子(左)とジグミ・ウゲン王子(右)。ジグミ・ナムゲル皇太子は、わずか6歳でテックパークのファブラボ開所式をひとりで務めた経験の持ち主。弟のウゲン王子と共に、ナショナルデーなどの式典に両親と並んで参列し、人々の歓声に笑顔で応える姿が印象的です。テクノロジーと伝統文化の双方に幼いころから触れさせる─王妃の「しなやかな知性を育てる教育」は、ふたりの所作の端々にまで行きわたっています。

服飾史家 中野香織さん
PROFILE ラグジュアリー領域を中心に著述・講演・教育・企業アドバイザリーに携わる。英ケンブリッジ大学客員研究員、明治大学特任教授などを歴任。著書に『「イノベーター」で読むアパレル全史 増補改訂版』(日本実業出版社)。最新刊は、エレガンスを「思想と力」として多面的に読み解く『エレガンス入門』(ちくまプリマー新書)。YouTubeでのスーツ解説も好評。

Text : KAORI NAKANO
25ans(ヴァンサンカン)5月号掲載(2026年3月27日発売)

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