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【山種美術館】川合玉堂の特別展|著名人5人が語る“偏愛”名作と日本の原風景

  • 2026.6.1
山種美術館

山種美術館で開館60周年記念特別展『川合玉堂(かわいぎょくどう) ─なつかしい日本の情景─』が開催されています。その名品のなかから、玉堂芸術に魅了された方々に、偏愛する“私の一作”を伺いました。玉堂ならではの慈しみ深い世界をご堪能ください。

戦時中、疎開先で描かれた《早乙女(さおとめ)》。玉堂は自然とともに生きる人々の姿に、失われゆく日本の原風景を静かに刻みました
戦時中、奥多摩に疎開した際に制作された田植えの風景。手拭いを姉様被りして働く女性たちの表情は明るく、苗はみずみずしく、田の水は豊かに満ちている。かつてどこにでもあったであろうのどかな風景を、農村で働く人々への慈愛を込めて描いている。円山・四条派と狩野派の様式を取り入れ、独自の画風を確立した玉堂が、俯瞰的な構図やたらし込みの表現といった琳派の技法も使い、自然と人間の調和を描いた。 1945(昭和20)年 絹本・彩色 山種美術館
【開館60周年記念特別展1】

『川合玉堂 ─なつかしい日本の情景─』

日本初の日本画専門美術館として開館した山種美術館の、60周年を記念する展覧会。その特別展第1弾として、川合玉堂の画業を振り返る。古きよき日本の風景を映し、見る人の郷愁を誘う作品が並ぶ。

会期/~2026年7月26日(日)
時間/10時~17時(入館は閉館の30分前まで)
休館日/月曜(7月20日は開館)、7月21日
料金/一般1,400円ほか
tel.050-5541-8600
会場/山種美術館[東京・広尾]
Google mapで確認
東京都渋谷区広尾3-12-36

山種美術館 公式ページ

私の“偏愛”玉堂作品

玉堂は、鵜飼を題材とした作品だけでも500作を数えるほど数多くの作品を残しました。そのなかで、玉堂を愛する方たちの心を捉えた作品とは? 見どころとともにその魅力を伺いました。

紺野美沙子さん [俳優]─《山雨一過(さんういっか)》

遠くの山々から峠に吹き抜ける、雨上がりの風の爽快感
《山雨一過》ひと雨過ぎた峠道、人馬はようやく下りにさしかかっている。向こうにはのどかな山が見え、風や安堵する馬子の気持ちまで伝わる。その場にいるような没入感を誘う作品。 1943(昭和18)年 絹本・彩色 山種美術館

私が玉堂の絵に親しみを感じるようになったのは、結婚を機に玉堂が少年時代を過ごした岐阜にご縁をいただいてからです。夫の両親が岐阜県出身で、夏に長良川に遊びに行くと、そこかしこに玉堂の代名詞ともいえる《鵜飼》を彷彿とさせる風景が広がっている。「ああ、絵と一緒!」と、嬉しくなったものです。

玉堂の作品を見るたびに素晴らしいなと思うのは、奥行きの深さ。どうして色の濃淡だけでこんなに奥行きがある表現ができるのだろうと、毎回新鮮な感動を覚えます。

この《山雨一過》も遠くに描いた淡いブルーの山並みに奥行きを感じさせる大好きな一枚です。白い雲が浮かぶ遠くの山々から峠へ、雨上がりの爽やかな風がふうっと吹き抜けていくすがすがしさ。奥行きの深さが風を運んでくるというのかな。峠を渡る風が絵の前に立つ私の頰までかすめて、流れていくようです。

また、雨に濡れた岩肌や樹木の墨色と、黄色に色づく木の葉や雨上がりの明るい陽光、風を感じさせる明るい色彩が見事に調和していて、印象派に近いような風情もあります。

美術館という特別な場所に身を置いて、玉堂の絵と静かに向き合うことは、現代を生きる自分と向き合う時間でもあります。玉堂が愛した平和な日本の原風景を、大切に守っていきたいと、切に思います。(談)

こんのみさこ◯東京都生まれ。1980年、NHK連続テレビ小説「虹を織る」のヒロイン役で人気を博す。ドラマや舞台で活躍する傍ら、「朗読座」を主宰。「星は見ている」の朗読活動を通して平和の尊さを伝えている。横綱審議委員である。

河野沙也子さん [日本画家・漫画家]─《水声雨声(すいせいうせい)》、《菊絵図香炉(きくえずこうろ)》

山間に降り注ぐ雨や水の流れる音に、楽しい想像が膨らんでいく
《水声雨声》雨、水車、傘をさす人物という玉堂好みのモチーフにより表現された、詩情豊かな風景。縦長の画面が雨を効果的に表し、木立は輪郭線を用いず墨の濃淡のみで描かれている。 1951(昭和26)年頃 絹本・墨画淡彩 山種美術館

玉堂は本当によく雨を描く画家だなぁと思います。技巧を意識するのではなく、例えば、朝からしとしと降っているとか、突然の大雨だなとか、見る側も体感できるような豊かな描写が魅力だと思います。

数ある作品のなかでも《水声雨声》の雨の描写は、ちょっとチャレンジングですね。玉堂はもちろん絵の構図と近しい風景は見て、写生をしていると思いますが、ザーザー降りの大雨をそのまま描くのは味気ないから、水車を描き込んでみよう、それなら水路は右から渡そうとか考えて構成しただろうと、勝手に想像しています。

だからこの絵からはザーザーと降る雨の音、水路をごうごうと流れる水の音、勢いよく水車に落下する水の音。いろんな水の音が聞こえてきそうで楽しくなります。玉堂がこの絵を描き上げたときの嬉しそうな顔まで脳内に浮かんできます。

《菊絵図香炉》玉堂の次男・修二は洋画家として活躍後、御岳の父の庵のそばに窯を開く。玉堂は窯を訪れて絵付けを楽しんだ。「私にとっての見どころは親子共作ということ」(河野さん) 川合玉堂(絵付)・川合修二(作陶) 1950〜55(昭和25〜30)年頃 陶器 山種美術館

《菊絵図香炉》は次男の修二が陶器を焼いて、玉堂が絵付けをした作品です。大作家の父が好きに描いたのではなく、成形の段階から親子で相談して、「いい感じでできた」とふたりで喜びあったのかなぁと。そんな親子の温かみが表れているようで、愛しくなります。(談)

美術館ナビ連載『漫画で紹介、先輩画家』で、河野さんが描いた玉堂の1コマ。傑作《行く春》での、親子共作エピソードはここでも。 イラスト=河野沙也子

かわのさやこ◯1996年兵庫県生まれ。京都市立芸術大学大学院卒業。美術展ポータルサイトで日本画家を漫画で紹介する連載が、日本近代絵画史の新しい視点として注目を集めている。著書に『日本画家小譚 マンガで読む 巨匠たちの日常』(青幻舎)。

見取り図 リリーさん [芸人]─《石楠花(しゃくなげ)》、《花をいけて》

構図も画法も色彩も“攻めている”玉堂の美学に感じるシンパシー
《石楠花》雄大な自然のなかに力強く咲く花が印象的な作品。手前の石楠花と崖がくっきりと濃く強く、対して背景の雪山は空に溶け込むように描かれ、見事なコントラストを見せた構図となっている。 1930(昭和5)年 絹本・彩色 山種美術館

《石楠花》を初めて見たとき、すごく攻めているなと思いました。正直にいえば、日本画なのに古くない。

いろんな時代の美の感性を吸収していますよね。バルビゾン派の影響も感じる。石楠花は輪郭線を引いて力強く色鮮やかに描きながら、遠景の連峰は輪郭を描かず墨色で古典的。

また、薄墨の連峰とポップな石楠花のどっちが主題なのかよくわからないような構図も、妙に惹きつけられます。じつは連峰と石楠花を融合させないことが狙いだとしたら、やっぱり攻めている。かっこいいなぁ。

《花をいけて》モデルは次男・修二の妻、照子。手元の花ばさみや照子の視線が画面にはない花の存在を伝えている。肖像画の体裁ではなく、穏やかな日常を切り取った構図に玉堂の家族愛を感じる。 1929(昭和4)年 紙本・彩色 玉堂美術館

《花をいけて》は、絵の中にタイトルの花が描かれていないところが妙に好きです。花を描き込むつもりだったけど、結果的に花よりも女の人のほうに気持ちが動いたんかなと思ったりします。僕も絵を描きますが、ふと目にしたものがいい絵になるってことがありますから。図々しくもそういうシンパシーを感じる絵です。

玉堂は常に新しい画法を追求する生涯を送ったそうですね。壁にぶつかって苦悶した時期もあったと思います。でも、絵には苦渋が出ない。ゴッホは内面をさらけ出してるけど、こちらは強烈なものは排除されていて、 どこまでも穏やかで清い感じ。

僕は玉堂に画家として、そして人としての美学を感じます。(談)

みとりず りりー◯1984生まれ。岡山県出身。大分県立芸術文化短期大学美術科卒業。2007年お笑いコンビ「見取り図」結成。美術の教員免許をもち、美術館に通うアート好き。特技は即興似顔絵。BSよしもと「リリーとアートなストリート」に出演中。

小澤順一郎さん[玉堂美術館館長]─《紅白梅(こうはくばい)》

屛風作品に宿る思考の深さ、表現力の豊かさに魅せられて
《紅白梅》琳派、特に尾形光琳の《紅白梅図屛風》への意識が感じられる金屛風。「梅の花を描くときはまだ足りないと思うくらいでちょうどよい」と玉堂は語ったという。点景のシジュウカラが愛らしい。 1919 (大正8)年頃 紙本金地・彩色 玉堂美術館

私がとりわけ惹かれるのは、屛風作品《紅白梅》です。掛け軸にするような作品とは違って、屛風は空間全体に広がる壁画的な表現。そのなかであえて遠近をそれほど強調せずとも奥行きを見せ、さらに大きな余白を生かしながら、画面には緊張感が満ちている。玉堂らしく品格があるところが格別だと思います。

これは第一生命保険の創業者の功績を讃えるために注文された作品。大木と若木、紅梅と白梅といった対比の構成も印象的で、そこには創業者の歩みを顕彰し、次世代の人の門出を寿ぐという意図が巧みに織り込まれています。ただ美しいだけでなく、意味を託された思考の深い作品であり、玉堂の表現力の豊かさと構成力が際立つ一作だと感じました。

母(※玉堂の孫)から聞いたところによると、玉堂は俳句や短歌に親しみ、駄洒落も好んだ好々爺だったといいます。それゆえ、こうした対比や寓意に富む表現も自在に取り入れることができたのかもしれません。

じつは、《早乙女》も大好きな作品のひとつ。かつての日常的な風景ですが、ダイナミックな構図に玉堂の新しいスタイルへの挑戦を思わせます。玉堂美術館の建つここ御岳で暮らした70代、晩年の作品ですが、みずみずしい自由な心と、常に自らの成長を思う信念に触れるようで、私もそうありたいと個人的ですけど特別な思い入れがあります。(談)

おざわじゅんいちろう◯1954年東京都生まれ。玉堂には三男一女があり、次男の陶芸家・修二が祖父にあたる。母が嫁した小澤酒造を継いで社長を務め、8年前から会長に。現在、玉堂美術館の館長として予約制の「館長特別解説」を行う。

1919 (大正8)年頃 紙本金地・彩色 玉堂美術館

時間/ 10時~17時(12月~2月は~16時30分)※入館は閉館の30分前まで
休館日/月曜(祝日の場合は翌日)
料金/大人600円ほか
tel.0428-78-8335
Google mapで確認
東京都青梅市御岳1-75

玉堂美術館

山﨑妙子さん [山種美術館館長]─《春風春水(しゅんぷうしゅんすい)》

ほのぼのとした温厚な人柄が絵ににじみ出る、玉堂芸術の真骨頂
《春風春水》厳しくも雄大な自然のなかで紡がれる、人々の日々の営み。山村の人たちの素朴な表情や慎ましい姿には、自然とともに生きる尊さと、玉堂の温かなまなざしが感じられる。 1940(昭和15)年 絹本・彩色 山種美術館

当館創立者の山﨑種二が玉堂と親しく交際するようになったのは、昭和初期の玉堂が50代のころからでした。日本の四季折々の景観を描きながら、自然とともに生きる人々の姿を織り入れた詩情豊かな風景画のスタイル、玉堂芸術を確立していく脂の乗り切った時期です。画家と直接交流しながら作品を蒐集した種二は、玉堂の人柄と作品に惹かれ、多くの作品をコレクションしていきます。その縁から現在では71点の作品が当館の所蔵となっています。

このたびの特別展のなかから、私が好きな1点として選んだのは《春風春水》です。玉堂の作品には、点景として農村に暮らす人たちが描かれることが多いのですが、そのなかでもこの絵は渡し舟の人物が大きめで、ほほ笑ましい春の日常が描かれており、楽しそうな会話まで聞こえてきそうです。

また、渓流独特の水の流れや透明感が巧みに表現されています。日本画は油絵のように自由に絵具を混ぜて色を作ることができませんが、玉堂は画材の扱いを知り尽くしていました。渓流の水はおそらく白群(びゃくぐん)と思われますが、粒子の細かい淡いブルーを、薄く溶いて何度も塗り重ねて巧みに色を出しています。木々の葉の色は緑青をさらに細かくした白緑(びゃくろく)という岩絵具。木によって緑のトーンを変えて葉を描いていますね。

また、岩肌は狩野派の様式で描いています。見れば見るほど、いろんな見どころがありますね。玉堂芸術の真骨頂と呼ぶにふさわしい名画です。

ところで玉堂は、油絵を描くようにイーゼルに絵を立て掛けて制作していたそうです。風景画は立てたほうが、自然な視点で描けるのでしょうね。とはいえ、墨や日本画の絵具を用いる場合、床や机に置いて描く画家がほとんどです。玉堂は卓越した技術があるので、水を含んだ薄墨も流れ落ちないように描けるわけです。

玉堂は性格も温厚な方で、ほのぼのと人の心を包む偉大な人格者だと、祖父が展覧会の図録に記しています。子どもから年配の方まで、これほど多くの人々に親しまれる作風も少ないと思っています。(談)

やまざきたえこ◯東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業後、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程を経て博士課程修了。学術博士。2007年に山種美術館館長に就任。幼少時から、祖父・種二氏の膝の上で氏が蒐集した名作の数々に親しむ。

川合玉堂の足跡

写真提供=玉堂美術館

1873(明治6)年 愛知県に生まれる。本名、芳三郎。
1881(明治14)年 8歳
岐阜に移住。
1887(明治20)年 14歳
京都に上り、望月玉泉に入門。このころより盛んに俳句を作る。
1890(明治23)年 17歳
号を「玉堂」とする。師・玉泉の許可を得て、円山・四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい)の画塾に入る。
1891(明治24)年 18歳
濃尾地震で父死去。母と京都に住まう。
1893(明治26)年 20歳
母死去。親戚の大洞富子と結婚。
1896(明治29)年 23歳
前年に幸野楳嶺が死去。橋本雅邦の作品に感銘を受け、上京。狩野派の雅邦に入門。
1901(明治34)年 28歳
私塾が盛んとなり、牛込若宮町に転居。
1907(明治40)年 34歳
東京勧業博覧会で《二日月》が一等賞。文展審査員に任命される。
1915(大正4)年 42歳
東京美術学校教授を拝命。若宮町の画室新築落成。
1916(大正5)年 43歳
文展に 《行く春》出品。翌年、帝室技芸員を拝命、日本画壇の中心的存在として活躍。
1931(昭和6)年 58歳
フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受章。
1940(昭和15)年67歳
紀元二千六百年奉祝美術展に《彩雨》出品。文化勲章受章。
1944(昭和19)年 71歳
東京都の御岳に疎開。
1945(昭和20)年 72歳
若宮町の自宅が戦災で焼失。御岳の「偶庵」を終の棲家とする。
1953(昭和28)年 80歳
ブリヂストン美術館映画部による映画『川合玉堂』に撮影協力。病を得て療養。翌年には回復。
1957(昭和32)年 83歳
逝去。勲一等旭日大綬章を賜る。

協力=山種美術館 玉堂美術館 取材・文=桜井美貴子 編集・文=須田秀子(婦人画報編集部)

『婦人画報』2026年7月号より

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