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星野監督は日本一の裏で満身創痍だった――。鉄拳制裁を封印した楽天時代、嶋基宏が触れた「究極の優しさ」

  • 2026.4.25

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第8回は、星野が監督として初めて日本一になった楽天時代の選手会長にして正捕手の嶋基宏に話を聞いた。【嶋基宏インタビュー全2回の2回目/第1回を読む】

鉄拳制裁を自ら封じた、楽天時代の「闘将」

中日ドラゴンズ監督時代には、「鉄拳制裁」が星野仙一の代名詞でもあった。しかし、当時選手会長を務めていた嶋基宏によれば、東北楽天ゴールデンイーグルス時代に「鉄拳」「暴力」の影はなかったという。

「テレビでよく見るように、扇風機を殴ったり、椅子を蹴り上げたりはよくしていたけど、僕の知る限り、いわゆる選手に対しての鉄拳制裁は一度もありませんでした。その代わり、監督はコミュニケーションの場を大切にしていた。ピッチャーだけ、捕手だけ、ベテランだけと、いつも食事会をセッティングして、そこで自分の思いを伝えていました。遠征先の食事会場でも、選手たちといろいろな話をしていました。グラウンドの威圧感と、ユニフォームを脱いだときの気さくさ。そのギャップに、僕ら若い選手は魅了されていったんです」

これまで、本連載において「星野は飴と鞭の使い分けが巧みだ」という証言は何度も聞かれた。嶋は、イーグルス時代のチームメイトだった山﨑武司とのこんなやり取りを記憶しているという。

「山﨑さんからは、“昔は飴なんてほとんどねぇぞ、鞭、鞭、鞭だ”と聞いたことがあります(笑)。でも、僕たちが楽天で接した星野監督は、決してそうではありませんでした。時代に合わせて、監督自身も少しずつ指導の形を変えていかれたのだと思います」

イーグルス時代の星野はすでに60代半ばを迎えていた。肉体的な衰えというよりも、精神的なエネルギーの使いどころを見極めていたのではないかと嶋は分析する。

「人を本気で怒るというのは、ものすごく体力を使うことです。監督も年齢を重ねられ、若い選手に対してどうすればいちばん響くのかを、より冷静に判断されていた。僕らにとっては、厳しさと優しさが共存する、本当にやりやすい環境を作っていただいたと感じています」

近年のスポーツ界では、一般社会同様にコンプライアンスが重視され、体罰などは論外とされる。しかし、「星野流」の本質は別のところにあると、嶋は指摘する。

「もし星野監督が今もユニフォームを着ていたら、きっといちばんコンプライアンスに気をつかって指導されていたはずです。ただ、一つ言えるのは、星野監督はまず選手と徹底的に“いい人間関係”を築くことから始める、ということです。深い信頼があるからこそ、厳しい言葉も愛情として届くし、もし監督に殴られたとしても、僕は何とも思わなかったはず」

平然と、そして淡々と嶋は言った。手放しの賛辞はなおも続く。

「たくさん怒られもしたけど、僕らは監督のことが大好きでした。厳しい指導のベースに揺るぎない愛がある。それが星野さんの真骨頂です。もし手が上がったとしても、それは《指導》というよりも、監督と選手との“魂のぶつかり合い”だった。今の時代にはそぐわないかもしれないけど、あの信頼関係こそが、楽天を日本一へ押し上げた原動力だったのは間違いありません」

田中将大と歩んだ「肩の荷が下りた日」

2013年11月3日、クリネックススタジアム宮城——。日本シリーズ第7戦、9回表、前日に160球を投げて完投負けを喫した田中将大が、マウンドへ向かう。近代野球のセオリーや球数制限という物差しでは測れない、星野による執念の起用だった。

「田中がベンチに入っている時点で、勝っていたら間違いなく、田中がいくと思っていました。逆に、“彼が投げないで誰が投げるんだ”とも思っていました。リーグ優勝もCS(クライマックスシリーズ)突破も田中が決めてきた。日本一を決める場面で、田中以外に誰が決めるんだ。僕たち選手も、監督も、思いはそれだけでした」

嶋の言葉にあるように、13年、ついに星野の野球人生における集大成が訪れる。この年、エースの田中将大が24勝0敗という驚異的な成績を残した。リーグ優勝、CS、そして最後のマウンドに立っていたのはいずれも田中であり、彼とバッテリーを組んでいたのが嶋だった。雨が降りしきる中、田中はついに胴上げ投手となった。星野にとって因縁の相手、読売ジャイアンツを撃破しての日本一である。

「このときの思いは、単に“嬉しい”という言葉では、なかなか言い表せないほどの感情がありました。でも、いちばん最初に感じたことで、今もハッキリと覚えているのは、“やっと、これで肩の荷が下りたな”ということだったんです」

11年の震災直後、嶋は「見せましょう、野球の底力を」と語った。しかし、勝負の世界は甘くない。11年、12年と思うような結果が出ないもどかしさを、嶋は選手会長として、そして正捕手として一身に背負ってきた。

「僕はずっと、“被災された方々にとって、勝つことがいちばんの勇気づけになる”と言い続けてきました。そして13年、ようやくああいう形になって、本当に“ああ、よかった”と心から安堵しました。被災地の方々との約束を、ようやく果たすことができた。あのときの気持ちは一生忘れられません」

日本一が決まる運命の第7戦、百戦錬磨の闘将・星野もまた、一人の「勝負師」として揺れていた。嶋は、至近距離でその様子を感じ取っていた。

「あの日の監督は、とにかくそわそわしていました。ベンチの後ろを歩き回ったり、落ち着きなく動いたり。普段はどっしり座って時折声を出すスタイルなのに、第7戦は投手起用も含めて、相当なプレッシャーの中にいたんだと思います。シーズン中とは明らかに違う、監督の人間らしい一面を見た気がしました」

「お前らのせいで頭が痛いよ」——隠し通した満身創痍の姿

13年、震災から2年目にして、ついに東北に捧げた悲願の日本一。それは「打倒ジャイアンツ」を掲げ続けた星野にとっても一つの集大成だった。しかし、その歓喜の裏で、闘将の身体は悲鳴を上げていた。

「14年のシーズンが始まると、“お前たちのせいで頭が痛いよ”とか、“腰が痛いよ”なんて冗談っぽくおっしゃっていたんです。当時は僕たちも笑って聞いていたけど、今振り返ればあれが伏線だった。球場に来るのが遅かったり、練習に姿を見せない日があったり……。あの方は、自分の弱みや病状を選手には一切、明かしませんでしたから」

自らも指導者の立場となった今、嶋はその孤独な重圧を改めて痛感している。

「常に人から見られ、結果で評価される。その精神的なきつさは想像を絶するものです。言葉では言い表せないほどの重圧と肉体的な負担や疲労を背負いながら、最後まで僕らの前では《監督》であり続けてくれたんです」

世間が抱く「闘将」のイメージは、ベンチで扇風機を殴り、ベンチを蹴り上げる激しい姿かもしれない。しかし、嶋が知る闘将の素顔は、それとは正反対の細やかな慈愛に満ちていた。

「僕は、めちゃくちゃ優しい監督だと思います。困っていたら呼んで話を聞いてくれるし、何より家族への気遣いがすごい。子どもが生まれたら、“お前はどうでもいいから、子どもにこれを渡せ”とプレゼントをくれたり、奥さんの誕生日には必ず花束を贈ってくれたりする。それは選手だけではなく、裏方さんにまで徹底されていました」

その細やかさは、優勝旅行のハワイでも変わらなかった。選手の子どもたちと気さくに写真に収まり、裏方には「これで飯を食べてこい」とポケットマネーを渡す。

「テレビで見ている星野監督と、実際の姿は全然違う。あそこまで周りの人間に気を遣える方は、なかなかいないと思います」

星野が遺した背番号《77》を受け継ぐ嶋に、最後に問うた、「あなたにとって星野仙一とはどんな人だったか」と。少し考えて、嶋は言う。

「世間のイメージとは違うかもしれませんが、さっきも言ったように、めちゃくちゃ優しい人です。厳しさの何十倍もの愛がある。愛があるから、人は怒れるんだと思うんです。愛がなかったら、放っておくはずですから。怖いことはもちろん怖いです。でも、厳しさの中にそれ以上の愛情がある人。それが星野さんでした」

嶋基宏が考える星野仙一とは?――“愛情”

そして、嶋は改めて、「星野さんは《愛情》の人でした」と口にした。

星野からチームの中心としての役割を託され、プロ野球選手としての栄光の瞬間をつかんだ。嶋が受け継いだ《77》の背番号には、勝利への執念だけでなく、関わるすべての人を愛し抜こうとした一人の男の、温かな魂が宿っている。

(次回・GG佐藤編に続く)

Profile/嶋 基宏(しま・もとひろ)
1984年12月13日生まれ、岐阜県出身。中京大中京高校から國學院大学を経て、2006年大学生・社会人ドラフト3巡目で東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。1年目から当時の野村克也監督に抜擢され、正捕手の座をつかむ。11年には東日本大震災直後のスピーチで「見せましょう、野球の底力を」と訴え、被災地に勇気を与えた。13年には星野仙一監督の下、主将・正捕手として球団史上初の日本一に貢献。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞2回に輝く。20年に東京ヤクルトスワローズへ移籍し、22年限りで現役引退。現在は中日ドラゴンズの一軍ヘッドコーチを務める。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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