1. トップ
  2. 恋愛
  3. 【英王室の黒歴史】元王子だけではない!逮捕・幽閉されたロイヤルファミリー

【英王室の黒歴史】元王子だけではない!逮捕・幽閉されたロイヤルファミリー

  • 2026.3.23
Heritage Images / Getty Images

イギリスの国王チャールズ3世の弟、アンドルー・マウントバッテン=ウィンザーが公務上の不正行為の疑いで逮捕されたことは、世界中から注目された。アンドルー「元王子」は知られている限り、17世紀半ば以降に逮捕された唯一の王室のメンバーだという。

ただし、“警察沙汰”となるトラブルを引き起こしたことがあるロイヤルは、ほかにも何人かいる。例えば、チャールズ国王の父フィリップ殿下は2019年、逮捕・起訴されることはなかったものの、運転中に自動車事故を起こしている。

また、国王の妹アン王女は2002年、飼い犬の1頭がウィンザー・グレート・パークで遊んでいた子ども2人にかみ付いたことで、「1991年危険犬種法」違反の罪に問われた。裁判で罪を認めた王女は、刑事事件で有罪判決を受けた初の王族となっている。ただ、いずれにしてもアンドルー元王子の身柄の拘束は、王族としては1649年に処刑された国王チャールズ1世以来となる。

そのチャールズ1世よりも前に捕らえられ、監禁・幽閉されたロイヤルには、どのような人たちがいたのだろうか? 歴史を遡ってみよう(かっこ内は、捕らえられた年)。

※上の画像は、『国王チャールズ1世の肖像画』アンソニー・ヴァン・ダイク、1630年ごろ、コペンハーゲン国立美術館所蔵

アンドルー・マウントバッテン=ウィンザー(2026年)

アンドルー王子(当時)、2025年撮影 Max Mumby/Indigo / Getty Images

公務上の不正行為の疑いで2026年2月19日(現地時間)に逮捕されたアンドルー元王子について、テムズバレー警察のオリバー・ライト警察本部長補は発表した声明で、「この件に対する国民の関心が非常に高いことは認識している」と述べ、最新の情報を適切なタイミングで提供していくとしている。捜査は現在も継続中。

国王チャールズ1世(1647年、1648年)

国王チャールズ1世の裁判、作者不明、1649年ごろ Hulton Archive / Getty Images

カトリックの影響力の拡大が懸念され、宗教的な緊張が高まるなか、イングランドとスコットランド、アイルランドの国王チャールズ1世(1600-1649)を支持する王党派と議会派(反王党派)の間で内戦が勃発した。両派は長年にわたり、税の管理権と王権の制限、そして議会の権限を巡って反目し合っていた。プロテスタントのチャールズ1世がカトリックのフランスの王女と結婚したことも、プロテスタントたちがより一層、国王への不信感を募らせる原因になっていた。

国王軍と議会派の軍が開始した戦いは、1645年に議会軍が勝利。チャールズ1世は1646年に投降し、さらにその翌年、議会軍を率いたオリバー・クロムウェルらによって捕らえられ、ハンプトン・コート宮殿に軟禁された。11月には宮殿から逃亡してワイト島に向かったものの、再び拘束され、島にあるカリスブルック城に幽閉された。

国王はその後も、王党派の軍を動かそうと画策。1648年には第2次内戦が始まった。だが、翌年1月、その戦いに勝利した議会派は、国王との和解を望んだ長老派を追放して「ランプ議会」を組織。議会は国王を裁くための高等裁判所を設立し、チャールズ1世を「イングランドの国民に対する反逆罪」で有罪とした。国王は同じ月のうちに処刑され、正式に裁判にかけられ、処刑された初の君主となった。

スコットランドのメアリー女王(1586年)

『スコットランドのメアリー女王の肖像画』作者不明、18世紀(イングランドの細密画家ニコラス・ヒリアードの作品のレプリカとみられる) Avalon / Getty Images

フランスのアンリ2世の王太子フランソワと結婚したスコットランドのメアリー女王は、夫がフランソワ2世として即位したことにより、短期間ながらフランスの王妃でもあった。

メアリー女王の祖母、マーガレット・テューダーは、イングランドの王ヘンリー7世の長女であり、ジェームズ4世の王妃。そして、イングランドの王ヘンリー8世の姉でもある。そのため女王は、イングランドの王位継承権もあると主張することができた。

だが、イングランドにおける彼女の立場を難しいものにしたのは、その血筋だった。イギリス国教会体制を確立したテューダー朝の女王エリザベス1世は、イングランドのカトリック教徒にとって正当性が認められない君主であったのがその理由。メアリー女王はエリザベス1世に取って代わり、イングランドの女王となることも可能な身分だった。

スコットランドの政治的混乱と、夫のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートが暗殺されたことにより、メアリー女王は1567年に退位。その立場はさらに不安定なものとなった。この翌年にはエリザベス1世を頼ってイングランドに逃れたが、カトリック教徒たちの求心力となり、エリザベス1世を脅かす存在になり得るとの懸念から拘束され、幽閉されることとなる。メアリー女王は外国勢力や国内の支持者と接触を持たないようにするため、その後20年余りにわたって捕らわれたまま、イングランドの各地に移され、厳しい監視下に置かれた。

メアリー女王は最終的に、エリザベス1世の暗殺計画に関わったとして国家反逆罪に問われ、裁判で有罪となり、1587年にノーサンプトンシャーのフォザリンゲイ城で処刑された。その処刑は残酷でむごたらしいものだったことが伝えられている。斧を振り下ろした処刑人が一度目では斬首できず、次の一撃でも首を外し、3度目でようやく処刑されたという。

女王エリザベス1世(1554年)

『女王エリザベス1世の戴冠式』1600-1610年ごろ、ナショナル・ポートレート・ギャラリー(ロンドン)所蔵 Wikimedia Commons

エリザベス王女(当時)は1554年、異母姉の女王メアリー1世によって捕らえられた。計画されていたメアリー1世とスペインのフェリペ王子の結婚に反対した人々が起こした「ワイアットの乱」に関与したと疑われたことが、その理由。ただ、王女と反乱の直接的な関連性を示す証拠はなかったとされている。

1年近くロンドン塔に幽閉されたエリザベス王女は、明確な証拠が見つからなかったことからオックスフォードシャーのウッドストックにある邸宅に移され、監視下で暮らすこととなる。

その後、宮殿に戻ることを許された王女は、1558年にメアリー1世が死去したことを受け、新たな女王として王位を継承することになった。

レディ・ジェーン・グレイ (1553年)

<em></em>『レディ・ジェーン・グレイの処刑』ポール・ドラローシュ、1833年ごろ、ナショナル・ポートレート・ギャラリー(ロンドン)所蔵 Wikimedia Commons

生まれたその瞬間から、君主となる日に備えて生きる人たちもいる。だが、その数は少ないものの、予期せぬ事態の展開によって突然、君主になることが決まる人たちもいる。

レディ・ジェーン・グレイは1553年、プロテスタントの国王エドワード6世が15歳で死去する直前に行った取り決めによって、女王として即位することになった。エドワード6世はカトリック教徒の異母姉メアリーの即位を阻止するために、同じプロテスタントのいとこ、ジェーンを自らの後継に指名したとされている。

レディ・ジェーンはエドワード6世の父、国王ヘンリー8世の妹であるメアリー・テューダーの孫娘。年齢はエドワード6世と同じだったが、政治力がほとんどないという点では、大きく異なっていた。その即位が突然に宣言されると、メアリーを支持する勢力が急拡大。そのためジェーンは捕らえられ、9日後にイングランド初の「クイーン(王妃ではなく女王)」となったメアリーによって、反逆罪で処刑されることとなった。

キャサリン・ハワード(1541年)

『キャサリン・ハワードの肖像画』、ハンス・ホルバイン、1540-1545年ごろ、メトロポリタン美術館(NY)所蔵 Heritage Images / Getty Images

国王ヘンリー8世の6人の妻たちは、いずれも同じような運命をたどった。だが、処刑されたのは2人。キャサリン・ハワードはそのうちのひとりで、5番目の妻だった。

4番目の妻アン・オブ・クレーヴズとの結婚を無効にしたヘンリー8世は1540年、2番目の妻アン・ブーリンのいとこ、キャサリンと結婚した。アンの母はキャサリンの父の妹で、どちらも第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの孫。

キャサリンはノーフォーク公の未亡人(義祖母)に引き取られ、その住まいで育った。国王との結婚後、疑惑を持たれることにつながったのは、そのころの恋愛だった。結婚前に男性と性的な関係を持ち、結婚後も連絡を取り合っていたことなどが明らかにされ、キャサリンは姦通罪に問われることとなった。当時のイングランドでは夫が国王の場合、この罪は同時に反逆罪を意味した。

有罪を言い渡されたキャサリンはロンドン塔に幽閉され、1542年に斬首された。いっぽう、王妃との関係を疑われた男性2人も、(残虐な形で)処刑されている。また、キャサリンの侍女だったジェーン・ブーリン(アン・ブーリンの弟ジョージの未亡人)も、キャサリンが愛人たちのひとり、トーマス・カルペパーとひそかに会う手助けをしていたと疑われ、罪に問われている。

アン・ブーリン (1536年)

『アン・ブーリンの肖像画』のレプリカ、作者不明、16世紀後半、ナショナル・ポートレート・ギャラリー(ロンドン)所蔵 Photos.com / Getty Images

国王ヘンリー8世との結婚によって、テューダー朝の宮廷において大きな権力を手にしたアン・ブーリンは、最も広くその名を知られる「クイーン」のひとり。アンに夢中になったヘンリー8世は、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を無効にするため、ローマ教皇に許可を求めるものの、受け入れられなかったことからイングランド国教会を設立、1533年にアンと結婚した。そしてアンはその年、後に女王エリザベス1世となる王女を出産した。

だが、アンが王子をもうけることはなく、次第にヘンリー8世の心は遠ざかっていった。1536年には、勢力を拡大していたアンの政敵たちによる画策と、ヘンリー8世がアンの侍女だったジェーン・シーモアに心を奪われたことなどにより、アンの立場は弱まった。

そして、アンは姦通罪と弟ジョージとの近親相関、反逆罪に問われ、捕らわれの身となる。だが、その後の歴史家たちの多くは、これらはヘンリー8世の側近トーマス・クロムウェルの陰謀であり、えん罪だったとみている。

アンは最後の望みを聞き入れられ、フランス式の方法で斬首された。ひざまずいて背筋を伸ばした姿勢で行われるほか、より迅速に執行されるため、この処刑方法は「より尊厳が保たれる」とされていた。フランス北部のカレーから呼び寄せられた処刑人は、アンに許しを乞うてから剣を振り下ろしたと伝えられている。

また、処刑直前にアンとヘンリー8世の結婚が無効とされたことから、王女から庶子に身分を引き下げられた娘のエリザベスは、その後1558年に君主として即位している。

国王エドワード5世&第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット(1483年)

『エドワード5世とリチャード兄弟』ポール・ドラローシュ、1830年ごろ、ルーブル美術館(パリ)所蔵 Wikimedia Commons

エドワード5世は1483年、父の国王エドワード4世の死を受け、12歳で“名目上”の君主となった。だが、その即位の直後から、母のエリザベス・ウッドヴィルと王立評議会の争いが激化し、エドワード5世は戴冠式のために居城のラドロー城からロンドンへ向かう途中、自身の摂政となった父方の叔父、グロスター公リチャード(後の国王リチャード3世)によって捕らえられ、当時は王家の居城であり、単なる監獄ではなかったロンドン塔内に幽閉された。

このとき、母エリザベスは次男のヨーク公リチャードや、後にヘンリー7世の王妃となり、ヘンリー8世の母となった姉のエリザベス王女その他の子たちとともに、ウエストミンスター寺院に保護を求めた。そのうちヨーク公リチャードひとりが、エドワード5世のいるロンドン塔に移された。

議会はその後、「王たる称号(Titulus Regius、ティトゥルス・レギウス)」法案を可決。それに基づき、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚の無効を宣言した。これにより、エドワード5世とそのきょうだいは全員が庶子となり、エドワード4世の弟リチャードが国王リチャード3世として王位を継承。エドワード5世と弟リチャードの消息は、この年のうちに不明となった。

ロンドン塔内では1674年、改修工事中に子ども2人のものとみられる遺骨が発見された。伝えられるところによると、その工事を行っていた「作業員が使用していた道具によって、子どものものとみられる頭蓋骨はひどく損傷。その他の骨は木製の箱の中に、“おそらく人骨とみられる状態”となっていた」とのこと。見つかった遺骨は国王チャールズ2世によって、ウエストミンスター寺院にある王家の廟に埋葬されている。

クラレンス公ジョージ・プランタジネット(1477年)

クラレンス公ジョージ・プランタジネットの銅版画、作者不明、19世紀半ば powerofforever / Getty Images

クラレンス公ジョージ・プランタジネットは、国王エドワード4世の弟であり、グロスター公リチャード(後の国王リチャード3世)の兄。バラ戦争(プランタジネット家を継承するランカスター家とヨーク家の王権を巡る対立)で戦闘を主導したことによって、その名を知られている。

だが、エドワード4世を支援したことでクラレンス公の爵位を与えられたジョージは、必ずしも兄に忠誠を誓っていたわけではなかった。そのため何度か捕らえられ、最終的には1477年、エドワード4世への反逆罪を疑われ、ロンドン塔に送られた。そして、議会で裁判にかけられ、翌年に処刑されている。

その処刑の方法は、公式の文書に記載があるわけではないものの、自ら望んだ「ワイン樽での溺死」だったとされている。

国王ヘンリー6世(1465年、1471年)

『国王ヘンリー6世の肖像画』作者不明、1879年ごろ、ナショナル・ポートレート・ギャラリー(ロンドン)所蔵 Wikimedia Commons

15世紀半ばのイングランドの政治は、その大半がバラ戦争によって語られる。この戦争は、いずれも当時のイングランドを支配したプランタジネット家を継承する、赤バラを紋章とするランカスター家と、白バラを紋章とするヨーク家の長年に及ぶ対立であった。

ランカスター朝の最後の国王となったヘンリー6世は、1465年にヨーク派によって捕らえられ、その後王位についたエドワード4世によってロンドン塔に移された。その後、1470年に起きたランカスター家の蜂起によってエドワード4世が王位を追われると、一時的に復位するものの、再びヨーク派に捕らえられてロンドン塔に幽閉され、翌年に死去した。

国王リチャード2世(1399年)

『国王リチャード2世の肖像画』作者不明、1600年ごろ、ナショナル・ポートレート・ギャラリー(ロンドン)所蔵 Wikimedia Commons

国王リチャード2世は1399年、遠征先のアイルランドから帰還する。このとき、フランスに追放していたいとこ、ヘンリー・ボーリンブルックが国王不在のすきにイングランドに上陸し、国王に不満を抱いていた貴族たちの支持を集めていた。

リチャード2世はそのヘンリーによって捕らえられ、廃位を迫られる。そして、議会がリチャード2世の退位を承認したことから、ヘンリーは新たな国王、ヘンリー4世として即位。リチャード2世はその後、ポンテフラクト城に幽閉され、翌年に命を落とした。

アリエノール・ダキテーヌ(1173年)

アリエノール・ダキテーヌの版画、作者・制作年不明 Hein Nouwens / Getty Images

英語圏では「エレノア・オブ・アクイテイン」として知られるフランス・アキテーヌ地方の君主、アキテーヌ公ギヨーム10世の長女アリエノールは、1137年に父が死去するとその爵位を受け継ぎ、広大で豊かな領地を持つアキテーヌの女公爵となった。

最初の夫、フランス国王ルイ7世とは男子をもうけることなく、1152年に離婚(婚姻を無効とさせた)。そのわずか数週間後には、アンジュー伯・ノルマンディー公アンリと再婚した。

その新たな夫は1154年、イングランド王を継承してヘンリー2世として即位。夫妻はスコットランドとの境界からピレネー山脈にまでまたがる広大な領地を治めるプランタジネット朝の王と王妃となる。イングランドの王妃となったアリエノールはそれ以降、積極的に政治に関わり、三男リチャードには故郷アキテーヌ公領を継承させた。

だが、末子を出産して以降、夫婦仲は悪化。夫の国王ヘンリー2世は1173年、次男ヘンリーと三男リチャード、四男ジェフリーらによる反乱を支援したとして、アリエノールを捕らえ、幽閉する。その後、ヘンリー2世は在位中のほとんどの期間、妻をいずれかの宮廷に軟禁した。

1189年にヘンリー2世が死去すると、王位を継いだ三男リチャードは母を解放。アリエノールは息子の国王リチャード1世の統治下で、政治的に大きな役割を果たすこととなる。十字軍に参加したリチャードの遠征中は、息子に代わり摂政として、イングランドを統治した。

From TOWN&COUNTRY

元記事で読む
の記事をもっとみる