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2025年にこの世を去ったファッション界の偉人たち

  • 2025.12.30
〈左から〉マリナ・イー、ワード・ランドリガン、マーティン・パー、スー・キャットウーマン、クリストフ・フォン・ウェイエ。
〈左から〉マリナ・イー、ワード・ランドリガン、マーティン・パー、スー・キャットウーマン、クリストフ・フォン・ウェイエ。

ファッションとは服だけではない。デザイナーからスタイリスト、スタイルアイコンからジュエラー、さらにはダイアン・キートンデヴィッド・リンチといった映画界の大物まで、あらゆる分野の人が多く携わり、作り上げている業界だ。さまざまな形でファッション界に影響を及ぼし、惜しまれながら今年この世を去った15人の偉人たちの人生と功績を振り返る。

ジョルジオ・アルマーニ/ファッションデザイナー

Armani's True Confessions

愛車のファルクスワーゲン・ビートルを売って得た資金を元手に事業を始めたジョルジオ・アルマーニは、その後51年間にわたって自らのブランドの指揮を執り続け、ファッション界に革命を起こした。だが、一時は医学の道を目指し、ミラノの百貨店ラ・リナシェンテやニノ・チェルッティのもとでデザイナーとして働いていた。自身のブランドから展開した初コレクションはウィメンズウェアのものだったが、リチャード・ギアが『アメリカン・ジゴロ』(1980)で着たことでメンズウェアが脚光を浴び、やがてアルマーニはレッドカーペットを歩くトップスターたちの定番ブランドに。2025年時点でアルマーニはファッションを垣根を超え、ホテルや住宅、レストランも手がける一大帝国に成長している。

マリナ・イー/ファッションデザイナー(アントワープ・シックス)

2003年、ブリュッセルのアトリエでのマリナ・イー。
BELGIUM-FASHION-MARINA YEE2003年、ブリュッセルのアトリエでのマリナ・イー。

アントワープ・シックスの中で最も捉えどころのない存在だったかもしれないマリナ・イーだが、彼女がファッションに与えた影響は否定できない。彼女のデザインは機能性と脱構築を核とし、従来の男性用の衣服を解体することが多かった。内面的な深みを持つゆえに、アートとファッションにおける自分の立ち位置に葛藤したイーは、1989年ごろにデザインの世界を離れてベルギーに移住カフェを経営し、教壇に立ち、演劇の衣装を手がけ、他人のために働く日々を送った。2018年に東京のコンセプトショップ LAILA TOKIOとのコラボをきっかけに、2021年に自身のレーベル「M.Y.」を立ち上げ、再び創作活動を始めた。

マーティン・パー/写真家

2019年、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーで開催された『Only Human』展でのマーティン・パー。
BRITAIN-ART-PHOTO2019年、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーで開催された『Only Human』展でのマーティン・パー。

1952年にサリーで生まれたマーティン・パーは、14歳にしてすでに自身のキャリアを決めていた。マンチェスター・ポリテクニック(現在のマンチェスター・メトロポリタン大学)で学んだ後、政治が民衆に与える影響を捉えるドキュメンタリー写真家として地位を確立し、80年代からは鮮やかなカラー写真を撮り始めた。仕事において大胆不敵で頑固なパーは、美しさではなく、ときに辛辣さを併せ持ちながら面白おかしく提示される真実を追求した。2014年から2017年までマグナム・フォトの会長を務め、近年ではファッションとの関わりを深め、アレッサンドロ・ミケーレ時代のグッチGUCCI)やルイ・ヴィトンLOUIS VUITTON)、ジャックムスJACQUEMUS)などのブランドとも創作をしていた。

パム・ホッグ/ファッションデザイナー

2008年のパム・ホッグ。
Christopher Kane Hosts A Celebration Of Burns' Night2008年のパム・ホッグ。
2007年のスージー・スーとパム・ホッグ。パム・ホッグがデザインした服に身を包んで。
Dame Shirley Bassey Celebrates Her 70th Birthday2007年のスージー・スーとパム・ホッグ。パム・ホッグがデザインした服に身を包んで。

かつて自身を「ファッションデザイナー/ミュージシャン/映画監督/いたずら好き/失恋学博士」と称したパム・ホッグ。スコットランド生まれの彼女は、ニューロマンティック時代真っ只中にロンドンへ渡るとクラブシーンで名を馳せ、1981年からはランウェイでも頭角を現した。ランウェイでは、手縫いのラテックスのピースやスタッズをあしらったルック、政治的なメッセージで知られるようになった。一時期は音楽活動のためにファッションを離れたが、ニューウェイブの色彩感覚とパンクの精神を貫きながら復帰した。

「英国デザインの感性を定義するとしたら、それはパム・ホッグです」とスティーブン・ジョーンズは言う。「あらゆる障壁に行く手を阻まれたにもかかわらず、彼女は最初のコレクションから常に自身と自身の個性に忠実にあり続けました。彼女にとって、ファッションは生き方であり、存在意義そのものでした。それから、これは誰も言わないでしょうからあえて言いますが、彼女は素晴らしいダンサーでした。特にスパンデックスに身を包んだ彼女は素晴らしかったです」

ポール・コステロ/ファッションデザイナー

2016-17年秋冬コレクションのプレゼンテーションでのポール・コステロ。
Paul Costelloe - Presentation - LFW AW162016-17年秋冬コレクションのプレゼンテーションでのポール・コステロ。
1981年にコステロが打ち出したツイードを使ったデザイン。
Paul Costelloe Fall 1981 Ready to Wear Advance Preview1981年にコステロが打ち出したツイードを使ったデザイン。
1991年のダイアナ元妃。コステロによるルックに身を包んで。
Diana In Marlow1991年のダイアナ元妃。コステロによるルックに身を包んで。
1991年、カナダ・サドバリーを訪問した際のダイアナ元妃。このとき纏っていたビビッドピンクのスーツもコステロがデザインしたもの。
Anwar Hussein Archive1991年、カナダ・サドバリーを訪問した際のダイアナ元妃。このとき纏っていたビビッドピンクのスーツもコステロがデザインしたもの。

ダブリン生まれのポール・コステロは、レインコート製造会社を営む家庭に育った。アイルランドで学業を終えると、パリのラ・シャンブル・サンディカル・ド・ラ・クチュール・パリジェンヌ(オートクチュール組合)で学び、ジャック・エステレル(JACQUES ESTEREL)で短期間働いたのち、ミラノニューヨークにチャンスを求め、アン・フォガティ(ANNE FOGARTY)にも一時期勤めていた。アイルランドに戻って数年後の1979年に、地元の生地を多用した自身のブランドを立ち上げ、1983年にはダイアナ元妃の専属デザイナーに抜擢。1984年以降はロンドン・ファッションウィークの常連になり、ライセンス事業で帝国を築き上げ、妻と7人の子どものうち数名も事業に携わっている。生前のインタビューでは「アイルランドのラルフ・ローレンRALPH LAUREN)になること」がかつての願望だったと明かしていた。

メラニー・ワード/スタイリスト

一時期はカール・ラガーフェルドの名を冠したブランドのクリエイティブ・ディレクターを務めていたメラニー・ワード。写真は2006-07年秋冬ショーで撮られた1枚。
FASHION-US-KARL LAGERFELD-04一時期はカール・ラガーフェルドの名を冠したブランドのクリエイティブ・ディレクターを務めていたメラニー・ワード。写真は2006-07年秋冬ショーで撮られた1枚。

英国出身のメラニー・ワードは、90年代と2000年代を象徴する多くのビジュアルやデザインの立役者だった。1990年にコリーヌ・デイが撮影した有名なケイト・モスの表紙も、今なお魅力が色褪せない初期のヘルムート ラング(HELMUT LANG)のコレクションも、スタイリングはワードによるものだ。ロンドンに生まれ、政治と言語学を専攻した彼女にとってもともとファッションは片手間の趣味だったが、セントラル セント マーチンズCENTRAL SAINT MARTINS)に通ううちに、それ以上のものへと変わった。

80年代後半に始まり、ワードのファッションとスタイルは数十年にわたって変化していった。グランジ派だった彼女は、やがてフェザーや反射テープのような形での派手さを許容するミニマリスト(ただし本人は“モダニスト”という呼び方を好んだ)へと成長。「彼女は目で見て観察することに重きを置いていました」とイネス・ヴァン・ラムスウィールドヴィノード・マタディンは言う。「彼女のスタイリングのアプローチはじっくり見てから決めていくというもので、適当に組み合わせたり、後で考えようとすることはありませんでした。だからこそ、彼女のスタイリングには常に期待を裏切る何かがあり、けれどすべてに意味があり、彼女にとって身近で思い入れのあるものから生まれていたのです」

ダイアン・キートン/俳優

ラルフ・ローレン 2024年春夏コレクションにて。
Ralph Lauren Spring 2024 Runway Show - Front Rowラルフ・ローレン 2024年春夏コレクションにて。

アカデミー賞に4度ノミネートされ、『アニー・ホール』(1977)で主演女優賞を受賞したダイアン・キートンは誰もが知る名優だが、彼女の影響力は映画界にとどまらず、ファッションにも及んだ。『アニー・ホール』の衣装を担当したラルフ・ローレンやジョルジオ・アルマーニの影響もあり、キートンはボーイッシュなスタイルを生涯のトレードマークにした。端正に仕立てられた服に、ほとんど帽子を欠かさなかった彼女独自のスタイリングは、彼女の独立した生き方そのものを表していた。

マリアンヌ・フェイスフル/ミュージシャン、ミューズ、スタイルアイコン

1967年に撮影された1枚。
Marianne Faithfull Leaves Court1967年に撮影された1枚。
1967年、当時交際していたミック・ジャガーと。
Jagger And Faithfull1967年、当時交際していたミック・ジャガーと。
1967年のマリアンヌ・フェイスフル。
Marianne Faithfull1967年のマリアンヌ・フェイスフル。
1969年、ミック・ジャガーと。
Jagger and Faithfull go to Court1969年、ミック・ジャガーと。
1973年、デヴィッド・ボウイとパフォーマンスするフェイスフル。
The 1980 Floor Show1973年、デヴィッド・ボウイとパフォーマンスするフェイスフル。
1994年にニューヨークで撮影されたポートレート。
Marianne Faithfull...1994年にニューヨークで撮影されたポートレート。
1998年、ケイト・モスとカルバン・クラインの1999年春夏ショーにて。
Kate Moss And Marianne Faithfull1998年、ケイト・モスとカルバン・クラインの1999年春夏ショーにて。
2009年、ウィーンで開催されたWomen's World Awardsにて。
Women's World Awards - Arrivals2009年、ウィーンで開催されたWomen's World Awardsにて。
シャネル 2016-17年秋冬オートクチュールコレクションのショー会場にて。
Chanel : Outside Arrivals - Paris Fashion Week - Haute Couture Fall/Winter 2016-2017シャネル 2016-17年秋冬オートクチュールコレクションのショー会場にて。

ミック・ジャガーローリング・ストーンズとの関係や、スウィンギング・ロンドン時代経て、清純で愛らしいものから官能的なものへと変化していくスタイル。若かりしころのマリアンヌ・フェイスフルの写真を見れば、彼女ににとって音楽とファッションがいかに切っても切り離せないものだったかがわかる。

1960年に一気にその名を広めたフェイスフルだが、1960代末には薬物依存症となり、息子の親権も失った。それでも彼女は諦めず、1979年にはアルバム『Broken English』をリリースし、1985年には薬物依存から脱却。2000年代に入り、新たな世代に受け入れられ音楽活動を再開した彼女の声には、闇を歩んできた女性の個性が現れていた。2011年にはフランス政府より芸術文化勲章最高位「コマンドゥール」を授与されている。

スー・キャットウーマン/パンク界のアイコン

1970年ごろのスー・キャットウーマン。
Photo of Soo CATWOMAN and PUNKS1970年ごろのスー・キャットウーマン。

1954年、ロンドンで生まれたパンクの先駆者スーザン・ルーカス。後に“スー・キャットウーマン”と名乗るようになった彼女は、センターを剃り上げ両サイドを尖らせた逆モヒカン、翼のようなアイライナー、頬にあしらった星がトレードマークで、その派手な見た目の彼女をロック写真家のボブ・グルーエンは好んで撮影し、ヴィヴィアン・ウエストウッドVIVIENNE WESTWOOD)もモデルとして起用。一時期ルームメイトだったシド・ヴィシャスは彼女を“スーおばさん”と呼んで慕った。いっときはミュージシャンや役者としても活動し、1980年に公開された映画ではフェイ・ハートが、2022年に配信のテレビドラマではアイリス・ロウがそれぞれ彼女を演じた。

デヴィッド・リンチ/映画監督

第12回ローマ国際映画祭でのデヴィッド・リンチ。
David Lynch Red Carpet - 12th Rome Film Fest第12回ローマ国際映画祭でのデヴィッド・リンチ。

デヴィッド・リンチ監督は「ロサンゼルスのダイナーBob’s Big Boyで、7年間、毎日午後2時30分に同じミルクシェイクを飲む」などの奇妙な儀式めいた習慣を持つ人物だった、とシャーロット・オーウェンはUS版『VOGUE』の追悼記事で述べている。そんなリンチの世界観は歪つで自由度が高く、人生の不条理を探求する手法は独特だった。あまりに独特であったため、ひとつのスタイルとして確立され、ファッションを含むあらゆるクリエイティブな分野や表現に浸透していった。カルバン クライン(CALVIN KLEIN)の「オブセッション」の広告を監督するなど、自らもファッション業界に携わり、手がけた映画は川久保玲ラフ・シモンズアンダーカバーUNDERCOVER)の高橋盾らにコレクションやショーのインスピレーションを与えている。

ビョルン・アンドレセン/俳優、歌手

1970年、『ベニスに死す』でタジオ役を演じたビョルン・アンドレセン。
Bjorn Andresen1970年、『ベニスに死す』でタジオ役を演じたビョルン・アンドレセン。
2021年、『世界で一番美しい少年』のフォトコールにて。
Day 3- Atlantida Mallorca Film Fest 20212021年、『世界で一番美しい少年』のフォトコールにて。

2021年のドキュメンタリー『世界で一番美しい少年』は、名声が重荷となったビョルン・アンドレセンの物語だ。スウェーデンで生まれたアンドレセンは、ミュージシャン志望だった15歳のときに祖母の勧めでルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』(1971)のオーディションを受けた。見事タジオ役を射止めたが、脚本を読むことは禁じられていたとキャスリーン・タイナンはUS版『VOGUE』に寄稿した記事で書いている。

「少年は(中略)カメラの前を優雅に、自然体で歩いた。ヴィスコンティは各シーンの流れを決め、肩を焼かないように念を押すだけで、ビョルンと脚本について話そうとはしなかったが、灰色の冷めた瞳の細身の少年は、物語の本質を理解しているようだった。ダーク・ボガードは当時のアンドレセンについてこう語る。『彼の目を見つめると、パイソンに捕えられた獲物のように、その視線に絡めとられてしまう。子役と仕事をしている感覚じゃない、彼は本物の役者だ』」

アンドレセンはまた、自分を利用しようとする周囲の大人たちに対して無防備だった。映画の成功を受けて訪れた日本では彼をモデルにしたアニメのキャラが生まれ、パリではトロフィーのように見せ物にされた。スウェーデンに戻ってからも俳優業を続けて家庭を築いたが、息子を乳幼児突然死症候群で失い、アルコール依存症に陥る。「無名になるために必死で努力してきた」──生前のインタビューで語ったアンドレセンは、最後まで搾取され、美しさと名声の裏側にある闇に晒されたという思いに苦しんだ。

ワード・ランドリガン/ジュエラー

ヴェルドゥーラのニューヨーク本社にて。
Verdura chairman and chief executive officer Ward Landrigan at the company's New York headquartersヴェルドゥーラのニューヨーク本社にて。

子ども時代にボーイスカウトの活動の一環として行った地元ニュージャージーの宝石店でのインターンシップが、ワード・ランドリガンをジュエリーに深く携わる人生に導くことになるとは、誰が想像できただろう。

大学で美術史を専攻していたランドリガンは、後にサザビーズが買収するパーク・バーネット画廊に採用されると、予期せぬ同僚の死により弱冠24歳で同オークションハウスの米国におけるジュエリー部門の責任者に就任し、世界的に有名な宝石の売却を担当した。エリザベス・テイラーとリチャード・バートンのために33.19カラットのダイヤモンドがあしらわれたエンゲージメントリングを調達したのもこのころだ。8年後の1973年、ランドリガンはエステート・ジュエリーの事業を立ち上げると、ココ・シャネルも愛用したカフブレスレットのデザインで知られるフルコ・ディ・ヴェルドゥーラ(FULCO DI VERDURA)とスザンヌ・ベルペロン(SUZANNE BELPERRON)にひと際興味を惹かれ、1984年と1999年に両社を買収。ふたつの重要な芸術的遺産を守り、継承する存在となった。

アファ・ア・ルー/ファッションデザイナー、アクティビスト

2018年、『プロジェクト・ランウェイ』に出演したアファ・ア・ルー。
Project Runway - Season 172018年、『プロジェクト・ランウェイ』に出演したアファ・ア・ルー。

サモアに生まれ、独学でデザインを学んだアファ・ア・ルーのデザインはサイズインクルーシブで太平洋諸島の文化を讃えるものだった。『プロジェクト・ランウェイ』のシーズン17に出演した彼は、テレビ以外の場でも精力的に活動し、縫製ワークショップや非営利団体クリエイティブ・パシフィック財団を通じて多くの人を支援。だが、今年6月に参加した「No Kings」抗議デモで銃弾に倒れた。「アファを失うのは太陽を失うようなものです」と、ふたりの幼い子どもとともに残された妻のローラは語っている。

レナード・ローダー/エスティ ローダー名誉会長、慈善家、アートコレクター

2020年、世界がん研究基金のイベントでのレナード・ローダーと妻のジュディ。
WCRF's "An Unforgettable Evening" - Inside2020年、世界がん研究基金のイベントでのレナード・ローダーと妻のジュディ。

両親が共同設立した美容ビジネスを受け継いだレナード・ローダーは、エスティ ローダーESTEE LAUDER) を数多くの美容とファッションブランドを擁するコングロマリットへと成長させたと同時に、マクロとミクロの両レベルで美容業界全体を変えた。会社の成長ぶりと事業の幅は、ローダーの両親が設立当初に思い描いていたであろうものを遥かに超えており、その影響はファッション業界にも及んでいる。

「レナードは、購入特典やシーズンやイベントごとの特別パッケージ、季節ごとのメイクアップなどの今日では当たり前となっている素晴らしいマーケティングアイディアを導入した」とかつてUS版『VOGUE』のビューティーエディターを務めたシャーリー・ロードは言う。

また、1933年生まれのローダーは、海軍で勤務していた経験もあった。美容ビジネスの傍ら、アルツハイマー病や乳がんの研究支援や芸術支援を通じ、世界をより良く、より美しい場所にする活動にも精力的だった。

クリストフ・フォン・ウェイエ/アーティスト、アズディン・アライアのパートナー

2016年、自身の作品の前に立つクリストフ・フォン・ウェイエ。
'Jean Nouvel And Claude Parent, Musees A Venir' Exhibition Opening In Paris2016年、自身の作品の前に立つクリストフ・フォン・ウェイエ。

1937年にドイツで生まれたクリストフ・フォン・ウェイエは、パリ国立高等美術学校で学ぶためにフランスへ移住。アズディン・アライアのパートナーとしてビジネスにも関わり、2007年にはアズディン・アライア協会(現アズディン・アライア財団)を共同設立した。物静かだが動じない「クリストフの存在と尽力は、メゾンの歩みに欠かせないものでした。彼のレガシーは、アライア(ALAÏA)の歴史に静かに刻まれ、遺っていくでしょう」とアライアでの同僚たちは振り返る。また、ジャーナリストのアレクサンダー・フューリーによれば、1980年以前のアライアのオートクチュールのラベルはフォン・ウェイエが手描きしており、彼のレガシーはメゾンの服の一部にも刻まれている。

Text: Laird Borrelli-Persson Translation: Motoko Yoshizawa

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