1. トップ
  2. ファッション
  3. ヴィヴィアン・ウエストウッドよ、永遠なれ──12人のコラボレーターと信徒たちが語るパンクの女王

ヴィヴィアン・ウエストウッドよ、永遠なれ──12人のコラボレーターと信徒たちが語るパンクの女王

  • 2025.12.29

本記事は、2025年12月8号のオーストラリア版『VOGUE』に掲載されたものです。

2023年、2月のロンドンファッションウィーク前夜に曇り空の下で執り行われたヴィヴィアン・ウエストウッド追悼式で、俳優のヘレナ・ボナム=カーターは赤いタータンチェックのアンサンブルとパールのネックレスを纏って壇上に上がった。もちろん、すべてヴィヴィアン・ウエストウッド(VIVIENNE WESTWOOD)のものだ。この40年以上、ボナム=カーターはほかのデザイナーの服をほとんど着たことがない。「ヴィヴィアンは長年にわたり、私が世界に立ち向かうための“鎧”を与えてくれました」と、彼女は追悼の辞を述べた。

田舎から出てきたばかりの内気なパンク青年だったころ、チェルシーのキングスロードにあったヴィヴィアン・ウエストウッドのブティック「SEX」の敷居を跨ぐことすら怖かったという帽子ハットデザイナーのスティーブン・ジョーンズは、ボナム=カーターの追悼の言葉をよく覚えている。「拍手喝采でしたよ。葬儀の場だというのに!」とジョーンズは語る。「ヴィヴィアンは、女性を引き立てる裁断のテクニックと女性にセクシーさを感じさせる術を知っていました。パンクでありながら、裁断技術と女性の身体についても深い理解を兼ね備えた、まさに天才でした」

ウエストウッドは先駆者で活動家、ドレープの匠、そして反逆者であり、自らが掲げる理念を体現していた。そのカオスと反骨精神、芸術性は、オーストラリアのビクトリア国立美術館で開催中の『Westwood | Kawakubo』展で感じることができる。同展は、ファッション界の異端児であるウエストウッドとコム デ ギャルソンCOMME DES GARÇONS)の川久保玲を同時に特集する初の展覧会だ。

1914年にダービーシャーで生まれたヴィヴィアン・ウエストウッドは10代のころに裁縫を学び始め、70年代に本格的にデザインを始めると、パンクムーブメントの先駆者のひとりになった。「パンクはアンダーグラウンドのムーブメントをメジャーに引き上げ、サブカルチャーとマスカルチャーを衝突させることであらゆるものを変えた」と批評家のアレクサンダー・フューリーは言う。「これはウエストウッドのレガシーのひとつです」

シームを解いて肩で結んだ脱構築系のTシャツ、太もも同士を拘束するパラシュート素材のボンデージパンツ、破れたストッキングのように伝線が走るモヘアのニットなど、ウエストウッドの服はラディカルで自然体だった。ファッションとは「一度抱き上げたら手放せなくなった赤ん坊」なのだと、1998年に出版されたジェーン・マルヴァーによる伝記『Vivienne Westwood: An Unfashionable Life(原題)』で彼女は語っている。

70年代、ファッション界の権威たちは彼女を真剣に受け止めようとはしなかったが、そんなことはどうでもよかった。ウエストウッドはストリートのために存在したのだ。「社会に不満を抱く若者たちのエネルギーがとにかく凄かったです」と、当時を知るザンドラ・ローズは回想する。「チェルシーの彼女のブティック『ワールズエンド』には、彼女の発言に共感するそんな若者たちが集まってきたのです」

「パンクは抗議でした。『私たちはあなたたちが決めたタブーを認めないし、偽善的な生き方を受け入れない』と訴えていたのです」と、ウエストウッドは2020年に語っている。そして生涯そのパンク精神を貫き、あらゆる抗議活動を続けた。

彼女のコレクションはいつも反逆的なエネルギーに満ちていた。シャープなシルエットが主流だった1981年、ウエストウッドはぶかぶかのパイレーツパンツを発表。1987-88年秋冬の「ハリスツイードコレクション」は、当時時代遅れと見なされていたハリスツイード生地へのオマージュで、分厚い生地をまるで野原に漂う朝霧のようにロマンティックで軽やかなものに生まれ変わらせた。

その後、ウエストウッドは自身のランウェイを革命の場へと変え、水圧破砕法によるシェールガス開発や気候変動、過剰消費に抗議した。「彼女は圧倒的な存在でした」と、2015年にウエストウッドのランウェイを歩いた俳優のグウェンドリン・クリスティーは振り返る。「勇敢で世間の懸念や通念など全く意に介さず、アートでも人生でも、決して妥協しない人でした」

彼女のミューズのひとりだったクリスティーナ・ヘンドリックスは、ウエストウッドを「威圧的だったけれど、人ととの議論を楽しんでいた」と回想。10年間彼女のスターモデルを務めたスージー・ケイヴは、「ヴィヴィアンの言葉はいつもストレートで、ときには不快だったとしても常に正しかった」と振り返る。「彼女には鋭い知性や、言葉だけでなく服のそのものを通して周りを挑発する能力がありました。それが彼女の強みでした」

「イタチの毛皮を使うわけにはいかなかったですから」と、「ハリスツイードコレクション」用にフェルトペンで斑点を描いた端切れ生地で王冠を制作したジョーンズは、ウエストウッドについて淡々と語る。話を伺ったとき、彼はビクトリア国立美術館での展覧会に向けた特注のヘッドピース一式を制作しているところだった。「彼女がいたら、きっとヘッドピースのデザインに対してあれこれ批判していたでしょうね」と、彼は笑う。「彼女の意見はもちろん聞いて、その上で『ヴィヴィアン、これが最善だと思う』と言い、激しくやり合ったことでしょう」

ウエストウッドは、2022年12月に81歳で他界した。彼女のような人物はもう二度と現れないだろう。生前、彼女はヴィヴィアン財団を設立。現在は、活動家としての彼女の遺志を託された息子のジョセフ・コーが代表を務めている。コーはビクトリア国立美術館での展覧会には関わっていないが、今なお色褪せることのない亡き母の影響力について語ってくれた。

「大使館や英首相官邸の前、あるいはショーのフィナーレに現れてスピーチをするとき、人々は彼女が何か大事なことを語ることを知っていました。それは一部の人を不快にさせるかもしれない、されど皆が聞くべき真実でした」と彼は振り返る。「声を上げることは大きな勇気が要ることでしたが、彼女は決して躊躇しませんでした。私だけでなく、私がお話しするすべての方々が彼女の声を惜しみ、懐かしく思っています。今こそヴィヴィアンの声が必要なのだと訴えるメッセージや手紙を数多くいただきます。彼女が残した穴は大きです」

1. ケイト・モス

1993年、モデルのケイト・モスとナオミ・キャンベルと。
Kate Moss, Vivienne Westwood, Naomi Campbell1993年、モデルのケイト・モスとナオミ・キャンベルと。

ヴィヴィアン・ウエストウッドは、私が10代のころに初めて買ったブランドでした。80年代のクロイドンでは、ウエストウッドのアイテムはひとつは持っていなければならないものだったんです。何週間もお金を貯めて、3連ストラップのクロコ風ハイヒールをセールで手に入れました。ヴィヴィアンは反逆者で型にはまらず、他人の目を気にしませんでしたが、同時に世界のことを、そして私のことを気にかけてくれました。彼女は本当に素晴らしい人で、彼女がいなくなってしまったことを本当に寂しく思います。ヴィヴィアンのいないファッションの世界は、何かが欠けているのです。

2. ユルゲン・テラー

アンドレアス・クロンターラー(写真左)とユルゲン・テラーと。2019年、ロンドンで開催されたテラーの個展「Demelza Kids」にて。
"Demelza Kids" By Juergen Teller - Private Viewアンドレアス・クロンターラー(写真左)とユルゲン・テラーと。2019年、ロンドンで開催されたテラーの個展「Demelza Kids」にて。

90年代初めからヴィヴィアンと仕事をしてきました。彼女は非常に聡明で、好意を持った相手は心から気にかけ、そうではない相手には気難しい人でした。ファッションの仕事にせよ、政治環境問題にせよ、彼女は驚くべき熱量で何事にも取り組み、世界に対して絶大な影響力を持った人物でした。いなくなってしまって、心から寂しく思います。

3. スティーブン・ジョーンズ

スティーブン・ジョーンズとAZ ファクトリー 2022年春夏コレクションにて。
AZ Factory RTW Spring 2022スティーブン・ジョーンズとAZ ファクトリー 2022年春夏コレクションにて。

彼女は英雄でした。やることすべてが型破りでした。それは手がける服にとどまらず、風貌や身のこなし、あらゆる面が非凡で、ある種挑発的な存在でした。今でもパンクキッズを見かけますが、彼女こそがその始祖です。

『WWD』が組んだ特集で、「過去150年間で最も重要なデザイナーは誰か」と問われたとき、私はココ・シャネル、クリスチャン・ディオール、そしてヴィヴィアン・ウエストウッドの名前を挙げました。皆がどれほど気づいているかはわかりませんが、ヴィヴィアンは人々の意識を変えました。それは服に対してだけでなく、彼女自身が体現した「異質」な世界全体に対してです。ヴィヴィアンがいなければ、ジョン・ガリアーノアレキサンダー・マックイーンも存在し得なかったでしょう。(彼女のレガシーは)世間を挑発すること。物事を違う方法で実践することです。

4. スージー・ケイヴ

1992年、スージー・ケイヴとサラ・ストックブリッジと。
London Fashion Week1992年、スージー・ケイヴとサラ・ストックブリッジと。

ヴィヴィアンの服は、着る人に挑みかけます。軽蔑の眼差しに背を向けて誇り高く堂々と振る舞い、街に踏み出すときには胸を張って「これが私。道をあけよ」と高らかに叫ぶことを。ヴィヴィアンに選ばれ、一緒に仕事できたことは最高の名誉でした。彼女とアンドレアス(クロンターラー)、そしてヴィヴィアンのミューズだったサラ・ストックブリッジと過ごした時間は忘れられないものです。

サラは私が地球上で最も素晴らしい女性だと思っていた人物で、彼女が大好きで畏敬の念すら抱いていました。サラはとてもフェミニンで美しくて、ふたりでランウェイを歩くときは私が男役を務めることがよくあったほどです。ものすごくショートな黒いヴィヴィアンのミニスカートにコルセット、白い靴下にフリルのついたレースの下着を身につけ、カールさせたブロンドの髪をしたサラがキングス・ロードを歩く姿は、今も脳裏に焼き付いています。攻めたカットの服と、Tシャツに書かれた“Truth loves to go naked(真実はありのままを好む)”というスローガンの醸し出す強烈なセクシーさに、皆足を止めて見とれていました。

ヴィヴィアンは誰よりもワイルドな存在で、亡くなってもなお勢いは衰えず、これからもファッション界に影響を与え続けるでしょう。彼女のショーは無秩序そのもので、甘美で、スリリングなカオスでした。キャリアの早い段階でそんなショーの数々に携われたことは、私を変え、発信の場を与えてくれました。私を含む多くの人たちが、彼女のおかげでなりたい自分になることができたのです。ヴィヴィアンは私たちにとって船長のような存在であり、最高のリーダーでした。そして私たちはスキャンダラスな衣服を身に纏う、ヴィヴィアン・ウエストウッドの引き立て役でした。ヴィヴィアン・ウエストウッドと過ごしたあのころは、かけがえのないものです。私という人間を形作り、何より救ってくれたのですから。

5. ベラ・フロイド

1982年、ロンドンで撮影された1枚。
Vivienne Westwood1982年、ロンドンで撮影された1枚。

ヴィヴィアンから学んだ最も重要な教訓は、決して現状に満足してはいけないということです。服の製作のあらゆる側面、特に製造では妥協するなということ。

彼女の要求に対して製作チームは「それは無理です、不可能です」としきりに言いましたが、ヴィヴィアンが限界を押し広げ、その過程に皆が胸を躍らせていました。彼女は忍耐強く励ましてくれる良き指導者でしたが、同時に厳しい監督でもあり、スタッフの仕事ぶりに満足できないときは容赦なく檄を飛ばしました。言われる側としては少々ショックではありましたが、とても勉強になりました。彼女は思い描いた通りのものを創り上げるために、現場に嫌がられるようなことでも妥協を許さず、徹底させました。

ヴィヴィアンがどれほど懸命に働いていたか、革新的で美しいブランドを守り抜くためにどれほどの勇気が必要だったかを周りはいまいち理解していませんでした。彼女のもとで働いた経験は、私にとって一生モノの学びです。

6. ザンドラ・ローズ

2015年11月29日、COP21の開幕前日に行われたクライメート・マーチにて。
The People's March For Climate, Justice And Jobs2015年11月29日、COP21の開幕前日に行われたクライメート・マーチにて。

ファッションは依然として男性中心の業界です。そんな世界で、私たちのような女性デザイナーの何人かがあらゆることを声高に主張できるのはとても恵まれていると思いますし、素晴らしいことだと思います。そして少数派だからこそ、私たちの声はこうも世間に広く届いているのでしょう。

ヴィヴィアンはとても誠実な人でした。服に対する思いはもちろん、政治に対しても強い信念を持ち、生涯の大半において自分が信じていることを貫きました。彼女は力強く堂々と、言葉と服を通して主張を展開したのです。

7. グウェンドリン・クリスティー

2017年、ロンドン・ファッションウィーク期間中にジェームズ・ジャガーと共催した「Mad Max」パーティーにてグウェンドリン・クリスティーと。
Vivienne Westwood & James Jagger Host Mad Max Party In Aid Of Climate Change At Fabric2017年、ロンドン・ファッションウィーク期間中にジェームズ・ジャガーと共催した「Mad Max」パーティーにてグウェンドリン・クリスティーと。

初めて出席したヴィヴィアン・ウエストウッドのショーのバックステージで、モデルをしないかとヴィヴィアンに直接聞かれたんです。運が良すぎて信じられませんでした──だって、それはまさに私が望んでいたことでしたから。彼女は、私がサラ・ストックブリッジを彷彿とさせると言ってくれて。この上ない褒め言葉です!

ヴィヴィアンとは、建前ではなく本音で付き合わらなければなりませんでした。なぜなら彼女は些細なごまかしやうわべだけの言葉をすぐに嗅ぎ分けることができて、彼女を失望させたり、嘘をついたりしたくなかったのです。正直な意見や本音を共有すると心が通じ合い、その心の繋がりを感じる瞬間を逃したくなかったのです。

物心ついたころからヴィヴィアンと仕事がしたいと思っていましたが、彼女との関係、一緒に過ごした時間は想像をはるかに超えた深いもので、試練と驚きに満ちていました。すべての瞬間が鮮やかて刺激的で、貴重な贈り物のような時間でした。

8. キ・プライス

2014年、水圧破砕法によるシェールガス開発に対する抗議デモでプライスが撮影した1枚。
Vivienne Westwood Anti Fracking protest2014年、水圧破砕法によるシェールガス開発に対する抗議デモでプライスが撮影した1枚。

ヴィヴィアンはアクティビストそのもので、ファッションは二の次のようにすら私には見えました。ショーは抗議の手段だったのです。私が彼女を撮るときも、彼女は写りよりも、そこから伝わるメッセージをはるかに重視していました。「キ、プラカード全体を撮った?」とよく聞かれたものです。

彼女の存在感に圧倒され、当初は写真を撮るのも気が引けたほどです。キャンペーンのバスの車内で初めてヴィヴィアンに会ったとき、彼女は私が一体何者なのか尋ねました。そこで私は彼女の隣に座り、自分がどういう人間でどんな信念を持っているかについて、包み隠さず話したのです。それ以来、私たちはずっとともに歩んできました。

ヴィヴィアンはとても好奇心にあふれた人で、学ぶことが好きでした。人の名前を決して忘れず、一度会っただけの私のアシスタントの名前を1年後でも覚えていました。 そして詭弁の通じない人でした。彼女を自宅まで送ったことがありますが、ずっとゲーテの戯曲『ファウスト』について話していましたね。

ウェールズのビーチであの有名な写真を撮影した日のことをよく覚えています。撮影準備をしていると「ヴィヴィアンはどこ?」と誰かが尋ね、「散歩に出たようだけど、どこに行ったかはわからない」と誰かが答えました。彼女ほどアイコニックな人物がふらりとどこかへ行ってしまうことに、かなり驚いたものです。

9. リリー・コール

ヴィヴィアン・ウエストウッド レッドレーベル 2024年春夏ショーに出演したリリー・コール。
Vivienne Westwood Red Label - Runway: London Fashion Week SS14ヴィヴィアン・ウエストウッド レッドレーベル 2024年春夏ショーに出演したリリー・コール。

ヴィヴィアンの偽りのない彼女らしさ、信念、そして勇敢さが大好きでした。彼女は常にオープンな心で世界を理解しようと努め、嘘や欺瞞は一切ありませんでした。時代の潮流を生み出し、ファッションであれ、政治であれ、誰かに倣うことは一度もなかったです。

10. クリスティーナ・ヘンドリックス

2016年、The Art of Elysium主催のガラにてクリスティーナ・ヘンドリックスと。
Art Of Elysium's 9th Annual Heaven Gala - Arrivals2016年、The Art of Elysium主催のガラにてクリスティーナ・ヘンドリックスと。

ヴィヴィアンのキャンペーンに選ばれたことは、私にとってこの上ない光栄でした。撮影の日まで彼女とは会ったことがなく、いつもは写真を数枚撮影すると帰ると聞いていましたが、彼女は現場に到着するとすぐに緊張している私のスタイリングを始めました。ヘアメイクの担当者に「孵化したばかりのヒヨコのように」と指示したことは今でも忘れられません。しかもパープルの口紅を使うようにと!彼女は1日中現場に残り、とても楽しい時間を過ごしました。撮影が終わると飲みに誘ってくれ、以来私たちは友人となりました。まさか自分があのヴィヴィアン・ウエストウッド様と一緒にマティーニを飲んでいるなんて信じられませんでした。

私は彼女を心から尊敬していました。ヴィヴィアン・ウェストウッドは私が初めて本当に興味を惹かれたデザイナーで、初めて見入ったデザインも彼女のものでした。実際、“ヴィヴィアン・ウエストウッド”という名前のデザイナーがいると知る以前から、“ヴィヴィアン風”の服を着ていました。彼女が手がけた服に身を包んだケイト・モスを『VOGUE』で見たとき、私と同じ美意識を持つ人がいること、ファッションは想像以上に深みがあるものなのだと気づいたことを覚えています。

ヴィヴィアンはファッション界を揺さぶり、根底から覆しましたが、着る人を引き立てる完璧なフィット感の服を作っていたため、誰もがその才能を認めざるを得ませんでした。彼女は美の定義を変えたのです。

11. スティーブン・フィリップ

1985年、パリにて。
FASHION-FRANCE-WESTWOOD1985年、パリにて。

私が初めて手に入れたヴィヴィアン・ウエストウッドのピースは、1981-82年秋冬の「パイレーツコレクション」に登場した、赤と白のスクイグル柄のサッシュでした。スコットランドのダンディーから、わざわざロンドンの「ワールズエンド」まで足を運んで買ったんです!当時は誰もが身につけていた、あのアイコニックなスクイグル柄がどうしても欲しくて。私が彼女と(マルコム)マクラーレンに惹かれたきっかけは、初期の『i-D』でした。誌面を通して、ロンドンのストリートスタイルや音楽、政治に触れたことを覚えています。あれはまさにロンドンのムーブメントでしたね。

12. アレクサンダー・フューリー

1992-93年秋冬コレクションより。
1992-93年秋冬コレクションより。

狂気や過剰さ、テーマとアイコンとの奇妙な結びつき。多くの人にとって、ヴィヴィアンはファッションのこういった欠点を代言する存在だったと思います。ですが、私にとって彼女はファッションの最も素晴らしい部分、何にも縛られないクリエイティビティと素晴らしい想像力、我が道を行く大切さの象徴です。

ヴィヴィアン・ウエストウッドには独自の言語があります。独自のシューズ、ジャケットジュエリーといった、ひと目でヴィヴィアンのデザインとわかるアイテムが揃っており、どれも非常に大きな影響力があります。今でもビスチェをイブニングウェアとして着用する女性はいますし、「下着を外着として着る」という発想自体が、ウエストウッドに端を発するものです。彼女の成し遂げたことの真価や、その革新性と先見性を正しく評価するのはとても難しいことです。なぜなら、彼女が成し遂げた偉業の数々は、私たちの日常の一部になっているのですから。

『Westwood | Kawakubo』展は、12月6日のNGVガラを皮切りに、12月7日からビクトリア国立美術館で公開中。

Text: Hannah-Rose Yee Translation: Motoko Yoshizawa

From VOGUE.COM

READ MORE

元記事で読む
の記事をもっとみる