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だから「普通の英語教師」になれなかった…ばけばけ・小泉八雲が「最底辺の移民」から「文学の巨人」になれたワケ

  • 2025.11.6

NHKの朝ドラ「ばけばけ」は、小泉八雲がモデルになっている。八雲はなぜ、日本の怪談に魅了されたのか。ルポライターの昼間たかしさんが、八雲を突き動かす原点に文献などから迫る――。

「アイルランド系」は激しく差別される存在

朝ドラ「ばけばけ」の第4週では、トキ(髙石あかり)が東京に向かい、銀二郎(寛一郎)との別れが描かれた。怪談好きで趣味も合っていたのだが、最初の結婚は失敗に終わった。そして第5週では、久しぶりに小泉八雲をモデルとするヘブン(トミー・バストウ)が登場し、ついにトキと出会うことになった。今回は、そんな八雲の日本に来るまでの人生に焦点をあててみたい。

ふじき みつ彦『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 ばけばけ Part1』(NHK出版)
ふじき みつ彦『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 ばけばけ Part1』(NHK出版)

来日するまで、八雲の人生は決して明るいものではなかった。

八雲ことラフカディオ・ハーンは、黒船来航と同じ1850(嘉永3)年にギリシャのレフカダ島で生まれた。父のチャールズ・ブッシュ・ヘルンは駐留するイギリス軍の軍医だが、アイルランド系だった。当時、アイルランドはイギリスの植民地であり、出身者はイギリス帝国内で激しく差別される存在だった。先祖に文人や官僚がいる家系でも、その出自は消えない烙印だった。母のローザ・カシマティはギリシャの下層階級出身で、アラブ人の家系だったとも伝わっている。

そんな二人の結婚は歓迎されたものではなく、八雲は後に「私の両親の結婚については奇談がある」と記している。一節には、母・ローザの一族が結婚に強く反対して襲撃し、父・チャールズは瀕死の重傷を負ったともされる。

母との別れ、カトリック系学校への望まぬ入学

結婚生活は長く続かなかった。1851年、任務を終えてアイルランドのダブリンに戻る途中、西インド諸島への赴任を命じられたチャールズは、ローザと幼い八雲を弟に託して単身赴任。ダブリンのハーン一族は熱心な国教会信徒であり、正教徒のローザを受け入れなかった。寒く陰鬱な気候も、ギリシャ育ちのローザには耐え難かった。

1853年にダブリンに戻ったチャールズはすぐに愛人をつくり、慣れない環境で健康を害してヒステリックになった妻を見捨てた。ローザは八雲と弟を置いてギリシャに帰国し、生涯ほとんど会うことはなかった。しかし八雲は母を思慕し続け、母から受け継いだ「東洋の血」が後の日本への憧れの原型になったと、多くの研究者が指摘している。

八雲を引き取ったのは父方の大叔母サラ・ブレナンだった。富豪で熱心なカトリック信徒だった彼女の指示で、八雲はカトリック系学校に入れられたが、それは彼の好むものではなかった。1863年にフランスの神学校、次いでイギリスのダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(後のアショウ・カレッジ)という寄宿学校に入学。礼拝を嫌がる一方で奇抜な悪戯をし、詩の才能もあって学校中の人気者だったという。

失明、大叔母の破産、退学…“アウトサイダー”として育つ

しかし不幸が立て続けに襲った。1865年、回転ブランコで遊んでいた八雲はロープが左目に当たって失明。翌年には父が西インド諸島からの帰国途上で病死。1867年には庇護者の大叔母が破産し、学費が尽きた八雲は退学を余儀なくされた。

行き場を失った八雲をフランスのカトリック学校に送り出したが、言葉も通じず視力にも難があり、宗教学校特有の規則に縛られた生活は耐え難く、すぐに退学。後年、子供をカトリック系学校に入れてはどうかと勧められた時、八雲は「それよりは殺すほうがよいと思います」と真顔で答えたという。

八雲は、どこにも居場所のない「アウトサイダー」として育った。ギリシャ人の母、アイルランド系の父、失明、貧困、そして押しつけられた宗教教育への嫌悪。体制に受け入れられなかった八雲が憧れたのは、見知らぬ土地への放浪だった。

1869年、19歳の八雲は移民たちに交じってアメリカへ渡った。明確な目的のないバックパッカーのようなものだった。破産したとはいえ大叔母からの支度金はあったが、それも数度の送金で途絶え、たちまち困窮した。

ギリシャ、レフカダ島のラフカディオ・ハーンの像
ギリシャ、レフカダ島のラフカディオ・ハーンの像(写真=Konstantinos Stampoulis/Geraki/CC-BY-SA-2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)
八雲は働くことに向いていなかった

しかし当時のアメリカで「アイリッシュ」は最底辺の移民だった。「犬とアイリッシュお断り」という看板が堂々と掲げられ(INJ GROUP「アメリカ大統領とアイルランド系移民(後編)」)、風刺画では猿のように描かれる(HISTORY 「When America Despised the Irish: The 19th Century's Refugee Crisis」)。八雲は二重の意味で差別される存在だった。

明確な目的もなく移民船でアメリカに渡った八雲は、オハイオ州シンシナティに落ち着いた(当時、工業化が進んでおりアイルランド系移民も多かった)。しかし、職探し以前に、八雲はまったく働くことに向いていなかった。後年の手紙にこうある。


私はある会社へ書記として入社することができたが、もともと算数に長じないのみか、普通の計算すらろくにできなかったのでダメになった。それから電信配達になって電信局に出た。外の配達は皆若い子供であるところへ、私が二十歳であるのは、すこぶる滑稽で、皆に笑われた。

私はしゃくに障って給料も受けないでやめた。友人は怒って世話をしないというし、下宿屋からは追い出された。最後に、宿屋で十時になってストーブに火を焚きつけたり、石炭を入れて回ったりして、なんとかしてそのかわりに食物と喫煙室で寝ることを得た。

八雲の“文才”を見抜いた「活版屋のワトキン」

そんな八雲を助けたのが、活版屋のヘンリー・ワトキンという男だった。家族の反対を押し切って八雲を居候にしたワトキンは、八雲の天才を見抜いていたが、仕事のほうは紹介してもまったくうまくいかなかった。ワトキンは生涯八雲と文通を続け、その中でこう評している。

大文人たる天賦の才はことごとく備えていたが、ただ一つユーモアという点が欠けていた。

性格に難のある付き合いづらい人物だったが、才能の片鱗を感じて支援を続けたワトキンは偉大だった。

八雲自身が見つけた自分の才能が「文才」だった。最初は原稿料もなく投稿しているだけだったが、1872年に「トレード・リスト」、1874年に「シンシナティ・インクワイアラー」に採用された。採用したジョン・コックリーは後にこう記している。

ある日事務所へ、変な浅黒の小男が入ってきた。強度の近眼鏡をかけて、妙に臆病らしいそして「運」の神には見放されたという風をしていた。穏やかな震え声で、原稿を買って貰えないかと聞いた。(中略)それからその日遅く、その置いてあった草稿を見て面白く書いてあったのには驚いた。

ラフカディオ・ハーン
ラフカディオ・ハーン(写真=Frederick Gutekunst/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
「殺人事件の取材記事」で名声を得る

こうして採用された八雲が実力を発揮したのは、殺人事件やアンダーグラウンドなど。現代ならば「実話○○」などのような特異とする話題だった。

とりわけ八雲が記者として実力を認められたのは、1874年に発生した「タンヤード殺人事件」の取材だ。これは、1874年11月、シンシナティの「シャンブルズ」と呼ばれるスラム地区で起きた残忍な殺人事件で、被害者ヘルマン・シリングが皮革工場の炉で生きたまま焼かれるという凄惨な事件であった。

八雲は、警察や検死官に同行して目撃者への聞き込みや容疑者の尋問に立ち会い、検死解剖にも立ち会って炭化した遺体をスケッチまでこなした。記事には、焼けた遺体の白く輝く歯や、炉から引き出された焦げた骨と人肉の詳細な描写が含まれ全米の話題になった(Murder by Gaslight. 「The Tanyard Murder」)。

タンヤード殺人事件で名声を得た八雲は、その後、シンシナティの社会の底辺に生きる人々の生活を描く一連のルポルタージュを執筆している。1875年に「シンシナティ・コマーシャル」に移籍し、「黒人の生活、好ましくない職業、都市の貧困地区」についての報道を拡大させている。(National Endowment for the Humanities. 「Lafcadio Hearn in New Orleans」2012年5~6月号)。

“奴隷だった女性”と結婚するも、3年で別れることに

1875年8月22日の『シンシナティ・コマーシャル』に掲載された「パーリア・ピープル:イースト・エンドの夜の追放者たちの生活――バックタウンの地下の巣窟とそこに住む人々」では、シンシナティの「バックタウン」と呼ばれる黒人居住区の夜の生活を描いた。これらは南北戦争後の都市における黒人の生活を描いた「数少ない記録の一つ」として、歴史的に重要な資料となっている(Hearn, Lafcadio and Frost, O. W. “Children of the Levee” University Press of Kentucky, 1957)。

この間、1874年6月に八雲はアフリカ系アメリカ人(混血だったとされる)女性アリシア・「マティ」・フォリーと最初の結婚をしている。マティはケンタッキー州メイズビル近郊のタブ家に奴隷として所有されていた元奴隷で、八雲が下宿していた宿舎で料理人として働いていた。〔Find a Grave. “Alethea 'Mattie' Foley (1850~1931)” ; Notable Kentucky African Americans Database. “Foley, Alethea 'Mattie'”〕。

しかし、当時のオハイオ州では反異人種間結婚法が存在し、この結婚自体が違法とされていた。八雲が『シンシナティ・コマーシャル』に移籍したのは、この結婚について『シンシナティ・インクワイアラー』に聖職者や政治家(以前より八雲の記事で風刺されていた)からの圧力がかかり解雇されたためだった(Cincinnati & Hamilton County Public Library. “Lafcadio Hearn Collection.” Special Collections and Rare Books. Accessed October 27, 2025.)。

しかし、あわや八雲がKKKからリンチされる危険もあったこの結婚は、わずか3年で破綻している。

“マージナルな文化”に魅せられた

1877年、八雲はシンシナティを離れ、ニューオーリンズに移った。八雲は約10年間ニューオーリンズに住み、1878年6月から「デイリー・シティ・アイテム」で、その後「タイムズ・デモクラット」で執筆している。

とりわけ「アイテム」では、八雲の編集者としての才能を発揮している。八雲は、紙面を単なる三面記事だけでなくブレット・ハートやエミール・ゾラの書評、全国誌の要約記事なども掲載するものに変え、同紙をニューオーリンズの文化を支える新聞へと成長させている(64 Parishes. “Lafcadio Hearn.” Accessed October 27, 2025.)。

ここで八雲が魅せられたのも、やはりマージナルな文化であった。八雲はクレオール・フランス語を研究し、クレオールの歌、物語、ことわざを収集し著書を出版している。

クレオール・フランス語とは、フランス語を基盤にアフリカ諸語などが混ざり合って生まれた言語で、奴隷制時代のカリブ海で自然発生的に形成された。標準フランス語とは文法も語彙も異なる、まさに「境界」で生まれた言語である。

八雲が特に注目したのはヴードゥー(ブードゥー)で、この時期の彼の主な記事はニューオーリンズのクレオール文化、ブードゥー教などであった。またクレオールの諺、音楽、料理、怪談などを取材し、1885年に『ゴンボ・ゼーブ』(クレオールのことわざ辞典)、『クレオール料理』、『ニューオーリンズ周辺の歴史スケッチと案内』を出版した(小泉八雲記念館「ニューオーリンズとラフカディオ・ハーン:ハーンを魅了した街とそのスケッチ」)。

八雲が日本で初めて出した作品集『知られぬ日本の面影』
八雲が日本で初めて出した作品集『知られぬ日本の面影』(写真=Flickr/Sarah Wyman Whitman Bindings/Boston Public Library/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)
「出自と差別」が、“外側の世界”に向かわせた

このクレオール文化研究の成功を受けて、八雲は1887年、クレオール文化がより色濃く残るフランス領西インド諸島マルティニーク島へ向かい、1889年まで約2年間滞在している。1890年には、これらの記録を収録した『仏領西インド諸島の二年間』が出版された(Hearn, Lafcadio. Two Years in the French West Indies. New York: Harper & Brothers, 1890. World Digital Library, Library of Congress.)。

ようは、出自と差別が、彼をマージナルなものへと駆り立てたのだ。

奴隷の子や黒人街、ブードゥー教や異人種婚などなど、彼が惹かれたのは、いつも「外側」に追いやられた世界だった。

そして驚くべきは、そんな彼が、現代でいえば実話誌のライターとして出発していることだ。殺人現場を取材し、炭化した遺体をスケッチし、黒人スラムを歩いた、つまり、ネットで安いニュースを量産している凡庸な記者のような立場から、世界文学の巨人にまで成り上がった。

貴族でも学者でもなく、アウトサイダーの眼だけを武器に、ここまで到達した作家は、たぶん近代文学史でも八雲くらいだろう。ライターになりたての頃は、毎日女性の裸体ばかり見てたのに、いまはこういう記事を書いている筆者も色々と感慨深い。

ラフカディオ・ハーンと妻のセツ
ラフカディオ・ハーンと妻のセツ(写真=富重利平/Japan Today/PD US/Wikimedia Commons)

昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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