1. トップ
  2. 恋愛
  3. 「失敗はしません」と言い切れる努力をしてきた…今も週6で働く85歳・現役アナウンサー加賀美幸子さんの流儀

「失敗はしません」と言い切れる努力をしてきた…今も週6で働く85歳・現役アナウンサー加賀美幸子さんの流儀

  • 2025.11.5

耳にすっと響く、独特の声と語りで人々を魅了し続けるのは、フリーアナウンサーとして今も活躍する、加賀美幸子さん。半世紀以上にわたって“伝える”にこだわり続け、万全を期すため準備には100%以上の力をそそぐから、「失敗はしない」と断言する――。

暮らしの1分メモ
暮らしの1分メモ
放送人生60年超の現役アナウンサー

「今は週6日、朝から晩まで番組の収録や講義・講座を行い、帰宅後は翌日の仕事の準備。体を休めるのは週に1日ほどですね」

そう話すのは、元NHKアナウンサーの加賀美幸子さん、85歳だ。定年退職後もフリーアナウンサーとして仕事を続け、80代の働き方とは思えない日々を続けている。

NHKに入社後スタートした放送人生は、すでに60年以上。凜とした低音の声と落ち着いた語りは、多くの視聴者を魅了し、85歳の今もその声に衰えはなく、指名が絶えないほどだ。

自分の気持ちを表現できる詩との出合い

加賀美さんの性格形成に大きな影響を与えたのは“戦争”だ。3人きょうだいの長女として東京で生まれ、3歳のときに太平洋戦争が始まり、5歳で群馬県渋川の村に家族と疎開。

「直接的な戦争体験はありませんが、間接的に戦争の恐ろしさは身に染みています。爆撃を恐れ、『大通りで遊ぶな』と言われ、大きな声で歌えば、『非国民!』と後ろ指をさされる時代でしたからね」

貧しさやがまんを共有する毎日だったが、村の人々はとても親切で、戦時とはいえ、穏やかな幼少期を過ごすことができた。戦争の恐怖はあるものの、疎開先で目にするものすべてが目新しく、子ども心の「なぜ?」を存分に追求できた。

終戦を迎え、2年後の1947年に帰京。戦争の暗い影が消え、皆が前を向き始めるなか、小学校高学年のとき、担任の先生から言葉を紡ぐ“詩”のおもしろさを教えてもらった。

「幼少期から大きな声を出すこともなく、がまんが染みついているうえ、感情表現が強い質たちではありませんでしたから、自分の気持ちを言葉にできる詩に夢中になりました」

伝えたい想いを長々と綴るのではなく、エッセンスを盛り込み、言葉を極限まで削り、短い文章で伝える。心の声や自分自身を表現する喜びを知った。また、詩と同時に“劇”という表現方法を知ったのもこの頃だ。

現役のアナウンサーとして活躍する、加賀美幸子さん85歳。
現役のアナウンサーとして活躍する、加賀美幸子さん85歳。

高校時代は文芸部に所属し、萩原朔太郎や室生犀星などの詩人が紡ぐ言葉の世界にのめり込んでいく。大学では文学から少し距離を置き、放送部に所属。音声表現に関心を抱くようにり、今度は放送劇に没頭していった。仲間の脚本で放送劇をつくり、全国大学放送連盟のコンクールにも参加。“間”や“息づかい”で言葉の伝わり方が変わることを知り、音声で表現する魅力に夢中になっていった。

どんな仕事でも絶対に断らない

加賀美さんがNHKに入局したのは、大学を卒業した1963年。この頃、女性の就職先は限定的だったが、戦後、性別に関係なく、局員を募集していたのがNHKだった。縁故はゼロ。NHKの採用試験に上位で合格した。

「音声表現の道に進みたいと思い、NHKに入局しました。東京オリンピックを翌年に控えていましたから、局内は活気に溢れていましたね」

1960年代は、まさに女性登用の草創期。この時代、大学に進む女性は少ないうえ、仕事で活躍したいと考える女性はさらに少数派。しかし、“女性も自立することが大切”という母の考えもあり、学生時代からごく自然に働くことを意識していた。

「仕事はとてつもなく忙しかったですね。VTRが編集できない時代、すべてが一発撮りですから、大げさではなく、本当に命を懸けて原稿を読んでいました」

入局当初から心掛けていたのは、「どんな仕事にもとことん向き合う」こと。人気番組も視聴率の低い番組も、出演者情報を紹介するだけの“枠アナ”の仕事もどれも大切な仕事として関わってきた。どんな仕事であってもとことん向き合うことを第一としていたことから、現役時代は「仕事を断らないアナウンサー」と周囲に思われていたそう。

「仕事の大小に関わらず、入念な準備をして本番に臨みました。そのために睡眠時間が削られても、つらいとも、大変だとも思いませんでした」

アナウンサーは常に視聴者に見られる存在であり、ミスをすればすぐにクレームだ。視聴者の意見に耳を傾けることも大切だが、アンチコメントに心が折れそうになることも。そんなアンチの声につぶれる先輩後輩も多く見てきた。社内でも、加賀美さんのアナウンサーとしての技術を認める人もいれば、認めようとしない人もいた。アンチコメントにさらされることは社内外どちらも同じだった。

「何を言われても引きずらないようにしてきました。常に、埋もれない、目立つこともしない、皆で番組をつくりあげることを第一に考え、仕事と向き合ってきました」

放送業界は「力の総合力」といわれるように、アナウンサーが目立ち過ぎてもダメ、沈んでもダメ。存在感をもちながら、視聴者へまっすぐに伝える。シンプルに“とことん主義”を貫く仕事の姿勢が周囲に認められるかのように、加賀美さんの元にはいろんな仕事が巡ってきた。

アナウンサーがお茶の間の人気者に

そんな折、入局16年目にして加賀美さんも戸惑うようなオファーが飛び込んでくる。『ばらえてい テレビファソラシド』(NHK/1979年~1982年放送)の司会に抜擢されたのだ。

永六輔氏による大抜擢で、バラエティ番組の司会を担当。一躍お茶の間の人気者となった。
永六輔氏による大抜擢で、バラエティ番組の司会を担当。一躍お茶の間の人気者となった。

夜8時のゴールデンタイムの生放送番組。女性アナウンサーがメイン司会を、永六輔氏がアシスタントを務めるという、この時代においては画期的な番組だった。

「永さんがどこかで私の仕事ぶりをご覧になったようで、『この番組には加賀美幸子を使いたい』と推してくださったんです」

しかし、バラエティ番組でどう振る舞えばいいのか、台本どおりでいいのか、自分をどこまで出していいのかわからず、とても悩んだという。その後、アシスタント役として、タレントのタモリ氏が加わり、そのムチャ振りへの対応に悩みを深めていった。

「永さんが『加賀美さんはタモリさんのムチャ振りにのらないで。のらないことが加賀美さんらしさだから』と言ってくださったのです。その言葉を受け、自然体で司会を行うと、タモリさんの高いテンションと私のアナウンサーとしての振る舞いの温度差が視聴者に受け、人気番組へと成長していきました」

当時は、「アナウンサーはこうあるべきだ」という“型”が深く浸透していた時代だ。入局当初、女性アナウンサーの多くがあかるく高め声で原稿を読んでいたため、加賀美さんも、1トーン高い声で原稿を読むよう心掛けていた。しかし、本来の低い声で原稿を読んでみたところ、視聴者から好意的な反応を得たことも。同様に、「加賀美幸子」という一人の人間が自然体で司会を行うことがかえって視聴者に新鮮に映り、番組とともに、一躍お茶の間の人気者となっていったのだ。

大抜擢した永六輔氏は、後日、「どんな番組でもペースが乱れない。あの安定感とやさしさには脱帽です。この番組での大黒柱ですよ」と絶大な信頼を寄せていることを語っていた。

そして、このバラエティ番組の出演をきっかけに、アナウンサーとして「自然体」であることを大切に、今まで以上に大げさな抑揚や演技は避けるようになっていった。

「女性初」を意識せずとことん向き合う

時は高度経済成長時代。働く女性が増えるなか、放送界にも女性登用の波が静かに訪れていた。男性一色だった報道番組で、加賀美さんは女性アナウンサーとして初めて夜7時の定時ニュース番組を担当。続いて、大河ドラマ『峠の群像』(NHK/1981年~1982年放送)では、初めて女性がナレーションを担当するなど、次々と女性アナウンサーの可能性を切り拓いていった。

加賀美幸子さん
加賀美幸子さん

もっとも印象的だったというプロデューサーの言葉がある。「女性もドキュメンタリーを読む時代になる」――前時代的な表現だが、この時代、女性が政治や社会情勢を語ることは普通のことではなかった。そんななか、先陣を切って、女性で初めて戦後日本の歴史を紹介する大型ドキュメンタリー番組『激動の記録』(NHK)のナレーションを担当したのも加賀美さんだった。

「私は特別に女性だからと意識したことはありません」

この時代、女性の社会進出が進む過渡期に結果を出せたのは、仕事に対する誠実さが認められたからにほかならない。

「どういうアナウンサーなのか、どう伝えるのか。NHKの視聴者はとても厳しい目で私たちを見ています。だから大変なんです。大変だからこそ、ひとつひとつの仕事を大切にしよう、やり遂げていこうと思ってやってきました」

聞く相手なくして“伝える”は成り立たない

プライベートでは31歳で結婚し、32歳で出産。加賀美さんのとことん主義は、仕事だけに限らず、家事・育児にも発揮された。

「仕事と家庭で力を半々にしてはダメでしょ。仕事もとことん、家庭もとことん。ただ、他人が見たときに、ちゃんとできていたかどうかはわかりませんよ」

仕事が家庭の時間に食い込むこともあったが、寝る時間を削ればなんとか帳尻は合わせられた。

放送人をめざしてNHKに入局。新人時代の加賀美幸子さん
放送人をめざしてNHKに入局。新人時代の加賀美幸子さん

そんな育児に奔走するなか、任された番組が、『テレビろう学校』(NHK/1961年~1980年)。テレビの向こうには、さまざまな障害をもつ人もいるのだという事実を取材し、伝えることの意味と思いを番組を通じて改めて気付かされた。

仕事をすることは自分への挑戦でもある

言葉を相手に届けるためには伝える力が欠かせない。きれいに読むことより、きちんと届くかどうかに心を砕き、組織内での地位には見向きもせず、「伝える」ことに全力投球してきた。

そんななか、回ってくる仕事に不満をもったことがないといえばウソになる。上司よっては大きな仕事が巡ってこず、悔しい想いを抱くことも。しかし、どんなときも手を抜かず、丁寧に仕事をすることこそが役目だと信じ、仕事に邁進してきた。

「収録前の事前準備は100%行います。だから、失敗はしません。失敗しないように準備を怠りませんからね。その分、自分の衣装や化粧に関しては時間をかけず、いい加減でしたけど(笑)」

古典、特に漢詩が好きだという加賀美さん。どんなときも準備は怠らない。
古典の原型でもある漢詩が好きだという加賀美さん。どんなときも準備は怠らない。

睡眠不足で肌の調子がよくないこともしばしば。最低限、身だしなみを整えるが、「もっときれいにしましょう!」と、美粧部(ヘアメイク担当部門)のスタッフに追いかけられながら、本番に挑んでいた。

チーフアナウンサーを経て、局次長級エグゼクティブアナウンサー、そして局長級エグゼクティブアナウンサーに就任。さらに女性初の理事待遇アナウンサーとなり、60歳を超えてNHKを定年退職した。

退職後、民放局からのオファーや大学教授、政治参加の誘いも受けたが、選んだのは千葉市の男女共同参画センターの館長(初代)。アナウンサーの仕事としては、どんなに好待遇の条件を示されても、その後も自分の声が必要とされる場として、古巣NHKの仕事を優先した。

「仕事での失敗はあってはならないし、したことはない」と言い切る加賀美さんだが、定年後の働き方では失敗したと感じることもあったという。

退職してからも、仕事選びは堅実に、華やかな仕事を避けていた。しかし、振り返ると、NHKを離れたからこそチャレンジしてみたい仕事はあった。

「政治の世界はともかく、民放局の仕事や大学教授の仕事をお受けしていたらどうだっただろうかと、後悔することもあります。最近もテレビコマーシャルの仕事を打診されたのですが、お断りしました。明確な理由があるわけではなく、いつものように断ってしまって……。今考えると、チャレンジしてみればよかったと反省しています」

80代半ばにしてやっと、さまざまな仕事を“チャレンジ”と捉えられるようになったと微笑む。

加賀美さんにとって、“チャレンジ”とは、「社会と接点を持ち続けること」であり、「自分が生きている証し」だ。

古典を学ぶと人生が愛おしくなる

NHK時代から“朗読の加賀美”と呼ばれ、朗読の名手とされるが、「そう言われるのは、本当はご遠慮したいんです。だって、ほかにも多くの仕事にかかわってきたので」と、困った顔を見せる。しかし、その技術の高さから、日本朗読文化協会の名誉会長を務め、朗読教室の講師としても活動。また、NHKラジオでは、『漢詩をよむ』『古典講読』の朗読を担当し、古典にも深い造詣をもつ。

「古典の原文を難しく読まず、自然に読むので視聴者には解りやすいのだそうですよ」

朗読という形で古典に取り組み続けているのも、その言葉の奥行きを感じ、人間の本質に触れることができるからだ。大切にしているのは、“自分らしい表現”より、“作品らしい表現”。そのために必要なのは、一生学び続ける姿勢だ。80代になってもなお、新しいテーマに挑戦し、読み方を工夫し、言葉の重みを問い続ける。

「古典は難しいものではないんですよ。学べば学ぶほど、人間の営みそのものが描かれていることがわかります。だから、古典を学ぶと、人が、人生が愛おしくなります」

上皇后・美智子さまに、「とてもよい朗読ですね」とお褒めの言葉をいただいたことも。しかし、その朗読の技術は、古典を読むだけに留まらない。技術力の高さゆえ、「自分の番組の朗読にはぜひ加賀美さんを」と、今も指名が絶えない。最近、有名ミュージシャンの番組内の朗読をミュージシャン本人から指名された。今までドラマチックな選択をしてこなかったが、これからは、新しいことにチャレンジしてみようと考えている。

声に出して自分で自分を励ます

「50歳は思春期。60代で青春真っ盛り、70代でちょっと年齢を感じ、80代はさすがに自粛しなければなりませんね。1月に圧迫骨折をしてしまったときは、神さまからゆっくり体を休めなさいといわれたのだと思いました」

骨折の3カ月後には、転倒のアクシデントも。歯は欠け、口内は裂傷だらけだったにもかかわらず、声は普段とまったく変わらず、アナウンスの仕事を休むことはなかった。治療にあたった医師は、口内や口周りの筋肉が発達しているからなのかと、首をかしげたという。

加賀美幸子さん
加賀美幸子さん

十数年前の番組が再放送されると、「声がまったく変わらない」と周囲から驚かれる。どんなトレーニングしているのか尋ねると、「特に何もしていません。ただ毎日声を出していることが、結果的に声の維持や健康につながっているのかもしれませんね」と笑う。

声を出す日常がノドを鍛え、健康を保ち、そして、誰かに届けようとする意志そのものが生命力の源になっている。

「声ってね、不思議な力を持っていて、脳に響くんですよ。だから、どんな言葉を口にするかがとても大切なんです」

その効果はNHK時代から感じていた。絶対に失敗しないと決めて臨んだ仕事の現場で、自分を奮い立たせていたのは、「加賀美、よくやった!」「今日もがんばった!」「明日もうまくやれる!」と、自分で自分にかける激励の言葉だったからだ。

「誰も褒めてくれないなら、自分で自分を褒めて励ませばいいんですよ」

そう語る先には、言葉の力を信じて進む未来の景色が広がっている。

取材・文=江藤誌恵

加賀美 幸子(かがみ・さちこ)
フリーアナウンサー
1963年、アナウンサーとしてNHKに入局。女性アナウンサーではじめて「夜7時のTVニュース」や大河ドラマのナレーション、ドキュメンタリーを担当。バラエティから朗読まで幅広いジャンルで活躍。1997年理事待遇エグゼクティブアナウンサー就任。定年退職後もフリーアナウンサーとしてNHKの古典番組などを担当している。千葉市・男女共同参画センターの初代館長。NPO日本朗読文化協会名誉会長。

元記事で読む
の記事をもっとみる