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伝説のキャプテンも転落…「名選手が監督で失敗した」5つの悲劇

  • 2025.10.16
伝説のキャプテンも転落…「名選手が監督で失敗した」5つの悲劇
伝説のキャプテンも転落…「名選手が監督で失敗した」5つの悲劇

Text by 石井彰(編集部)

アレックス・ファーガソンやジョゼップ・グアルディオラ、アーセン・ヴェンゲルなどの名監督はそれぞれのクラブに数々のトロフィーをもたらしたほか、ファンに大きな熱狂を与えていた。

しかしながらその一方、選手としては成功を収めた経験を持ちながら、指導の現場では難しい時間を過ごすことになった監督たちも多い。今回は『GMS』から「近年でもっとも最悪だった監督」のワースト5をご紹介する。

テリー・ブッチャー

伝説のキャプテンも転落…「名選手が監督で失敗した」5つの悲劇
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悲惨な成績に終わったクラブ:ハイバーニアン(スコットランド)

指揮した年:2013年11月12日~2014年6月10日

英国海軍に勤務していた父親のもと、シンガポールで生を受けたテリー・ブッチャー。1976年にイプスウィッチ・タウンへ加入し、後にレンジャーズで長く活躍した名センターバックであった。

ただ、素晴らしい選手が必ずしも偉大な監督になるわけではない。32歳で指導者の道を歩んだブッチャーは、その後コヴェントリー、サンダーランド、マザーウェル、シドニー・オリンピック、ブレントフォード、スコットランド代表(※アシスタントコーチ)を指揮したものの、あまり好成績を収められず。

2009年1月に就任したインヴァーネスではようやく素晴らしい結果を残すことに成功し、2010-11シーズンにはスコティッシュ・プレミアシップで7位という好成績をあげる。

そして2013年11月には同じリーグのハイバーニアンに引き抜かれ、最初の7試合で4勝をあげたものの…時が立つごとに低迷。シーズン最後の18試合ではわずか1勝となり、クラブは2部へと降格してしまった。

トニー・アダムズ

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悲惨な成績に終わったクラブ:ポーツマス

指揮した年:2008年10月28日~2009年2月9日

所属した主なクラブ:ウィコム・ワンダラーズ、ガヴァラ、グラナダ

アーセナルの名キャプテンであったトニー・アダムズは、現役引退ののちに大学でスポーツ科学を修め、2003年11月にウィコム・ワンダラーズで指導者としてのデビューを飾る。

当時3部で最下位だったこともあり、監督初年度は降格を経験。4部で2年目のスタートを切ったが17位と低迷してしまい、2004-05シーズンの開幕から3ヶ月あまりで辞任を表明した。

その後フェイエノールトやユトレヒトのアカデミーでの指導やアーセナルのスカウトを経験したと伝えられており、2006年夏にポーツマスのアシスタントコーチに就任。2008年10月にハリー・レドナップ監督がトッテナムに移ったため、アダムズとジョー・ジョーダンが暫定指揮官となった。

その後正式な監督に任命されたものの、指揮した4ヶ月弱でわずか4勝と低迷。トレーニングで選手を指導する際に見せていたダンスのような動きが後に話題になった。

ヤープ・スタム

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悲惨な成績に終わったクラブ:FCシンシナティ

指揮した年:2020年5月21日~2021年9月27日

世界最高クラスのセンターバックであったヤープ・スタム。彼もまた、監督としての仕事でまだ成功を収めることができていない名選手の一人である。

2009年にズヴォレの暫定監督として指導者デビュー。その後アヤックスでのアシスタントコーチやリザーブチーム監督を歴任し、2016年にイングランド2部のレディングで本格的にデビュー。ところが2018年3月に20位と低迷したことから退任した。

その後ズヴォレ、フェイエノールトでの指揮を経て2020年にアメリカのFCシンシナティへと移った。日本人MFの久保裕也も所属していたクラブで成績は低迷し、2021年9月27日に解任されている。

皮肉なことに、このあとFCシンシナティは急成長を遂げ、2022年はプレーオフ準決勝にまで進出。2023年はレギュラーシーズンで全体1位という好成績を収めている。

ローリー・サンチェス

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悲惨な成績に終わったクラブ:フラム

指揮した年:2007年4月11日~2007年12月21日

所属した主なクラブ:ウィンブルドン、ウィコム・ワンダラーズ、北アイルランド代表など

選手時代はレディングやウィンブルドンで活躍し、1988年のFAカップ決勝ではリヴァプールを撃破するゴールを奪取。ダークホースだったウィンブルドンに優勝カップをもたらしたローリー・サンチェス。

北アイルランド代表監督として2004年1月から2007年4月までを過ごし、4年弱勝利がなかったチームに目覚ましい成長をもたらした。わずか3年あまりでFIFAランキング116位程度だったチームを27位まで引き上げたという実績を持つ。

その彼に目をつけたのがフラムだ。クリス・コールマンを解任したクラブは、シーズン終盤の段階でサンチェスを引き抜いた。彼は就任した後1勝1分3敗という成績でチームを残留に導き、長期契約を勝ち取った。

しかしながら、愛弟子の北アイルランド代表選手を多数獲得した次のシーズンは苦戦。12月にニューカッスル戦で敗れて降格圏に落ちたあと、クラブは彼の解任を決定した。

ハワード・ウィルキンソン

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悲惨な成績に終わったクラブ:サンダーランド

指揮した年:2002年10月10日~2003年3月10日

所属した主なクラブ:シェフィールド・ウェンズデイ、リーズ・ユナイテッド、イングランドU-21代表など

現役時代はウインガーとしてブライトンやボストン・ユナイテッドで長く活躍。下部リーグで数々のタイトルに輝いた名選手だった。

ただ、ハワード・ウィルキンソン監督が過ごした悲惨な時代のことは、サンダーランドのファンが思い出したくないものの一つだろう。彼の時代に記録された勝率はわずか10%であった。

2002年10月にサンダーランドの監督に就任したとき、クラブはすでに残留の危機に瀕していた。そこで選ばれたのは6年間ほどイングランドサッカー協会での仕事に関わっていたウィルキンソンだった。

6年間ほどクラブチームでの指揮経験がない彼を選んだことに批判の声もあり、不穏な雰囲気の中でウィルキンソンも地元記者と衝突する事件も起こしてしまった。

サンダーランドは最終的に当時歴史上最少だった勝点19に終わって2部へと降格。ウィルキンソン自身もその後中国で短期間指揮をとったあとは監督を引き受けておらず、アシスタントコーチやテクニカルディレクター、アドバイザーなどの仕事に移っている。

※選出基準は、各選手の実績に基づきながら筆者またはメディアの主観的判断も含んでおります。

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