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大阪の老舗で押しずしを味わい、国宝・曜変天目茶碗に見惚れ、赤と黒のうるしが織りなす根来の美を堪能【上食研・Wあさこのおいしい社会科見学vol.10】

  • 2025.9.27

お料理教室&上方食文化研究會(上食研)を通じて上方の家庭の味を伝える日本料理家・吉田麻子先生と、奈良在住の編集者・ふなつあさこの“Wあさこ”がお届けする、上方(関西)の食にまつわる大人の社会科見学。

今回は、老舗「すし萬」さんで大阪のすし文化を学んで味わい、藤田美術館で国宝・曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)をはじめとするコレクションに見惚れたのちにお団子で一服し、さらに大阪市立美術館で「根来(ねごろ)」の名で珍重されてきた黒と赤のうるしの美と、大阪の文人たちに愛されてきた煎茶の歴史を学んできました。

創業370余年の老舗「すし萬」で関西すしの歴史を学び、味わう

「子どもの頃からよう食べてんねん」と麻子先生がいうのは、「すし萬」のおすし。

関西のすしというと、型にネタとシャリを重ねて押し固めた「圧(お)しずし(一般的には「押しずし」)」の歴史が長く、すし萬の看板商品「小鯛雀鮨®」(写真左)、「大阪すし」(写真右)ともに今も職人さんたちの手により伝統的な方法で作られています。

まろやかな酸味とやや強めの塩け、昆布の風味がきいていて、お醤油をつける必要はありません。ぺろりと完食しました。

承応2年(1653)、現在の大阪府福島区で魚屋として創業し、天明元年(1781年)に「雀鮨」専門店となったすし萬。雀鮨とは、古くから大阪で作られていたすしで、ボラなどの魚の腹にすし飯を詰めた姿が雀に似ていることからその名がついたのだとか。

京都の仙洞御所に献上する際に二才ものの小鯛を使い、以来「小鯛雀鮨®」が店の看板商品に。当時のすしを再現した「古傳桶詰(こでんおけづめ)」(写真左。写真提供:すし萬)」は、予約限定商品。

明治42年(1909)には高麗橋、平成22年(2010)に現在の靱本町へと本店を移転して、現社長の小倉康宏(やすひろ)さんで、16代目を数えます。

店先に飾られている高麗橋にあった旧本店の石像。「私が高校生ぐらいまでは、店のかまどで薪を使ってごはんを炊いていました」と小倉さん。

「大阪の人にとってはほんまにおなじみの味やと思います」と麻子先生が言うと「ありがとうございます」と小倉さんも笑顔。

「出かけたときに買って帰って夕食にしたり、手土産やお遣いものにも喜ばれます。母は私を出産して初の食事に、お見舞いに頂戴した小鯛雀鮨をいただいたそうで、今でも月に数回は“買ってきて”と頼まれます」と続ける麻子先生。すし萬のおすしは、大阪の皆さんの人付き合いにひと役買っている嬉しいスタンダードなんですね。

「二寸六分の懐石」とも呼ばれる箱ずし「大阪すし」もすし萬の定番。

長らくお付き合いのある魚屋さんが「すし萬さんのために」と用意してくれるネタ、伝統的なレシピで作るすし飯には京都・千鳥酢さんの酢が使われています。ネタに重ねる白板昆布は北海道産、海苔は大阪の河幸海苔店さんのものを……と、すべての材料に厳選を重ねています。

「大阪すしには何十もの材料を使っています。それは何十という会社さんに支えられて作らせていただいているということでもあると思っています」と小倉さん。

代々の味を大切に守りながら、型を小さくして食べやすくするなどの改良も重ねています。

すし萬の新たな名物が「大阪 阿奈古(あなご)めし」。ふっくらと仕上げた穴子を一本丸ごと使った贅沢な逸品です。

「お客さま、取引先さまに支えていただいて守ってきたのれんを受け継ぎながら、時代に合わせて柔軟に変化もしていきたいです」と語る小倉さんに、老舗ののれんの重みを感じました。

本店は持ち帰りのみですが、大丸心斎橋店、リーガロイヤルホテルにはレストランもあり、にぎりすしやコース料理を楽しめます。販売店・レストランともに大阪以外にも展開しているので、詳しくは公式サイトでチェックを!

藤田美術館 国宝・曜変天目茶碗の宇宙にたゆたう

「あさこちゃん、曜変天目茶碗見に行きたいねん」と麻子先生からのリクエストで向かったのは、藤田美術館。

全面ガラス張りの開放感あふれるモダンな美術館です。

この美術館のコレクションは、明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と、息子の平太郎、徳次郎によって築かれたもの。現在の建物は2022年にリニューアルオープンした際のもので、以前の建物は藤田家の邸宅にあった蔵そのものだったそう。

オープンスペースの奥にある美術館の入り口にその名残がうかがえるほか、随所に邸宅の部材がリユースされています。

美術館としては珍しく、年末年始(12/29〜1/5)以外休まずオープンしている藤田美術館。漢字ひと文字で統一された3つの展示をスライドしながら部分的に展示していくというスタイルも斬新。

取材当日には、お酒に関わる「酔」(〜9/30・火)、「虫」をテーマにした展示(〜11/30・日)、多くの愛好家の手を経てきた遍歴をたどる「誂」(〜10/31・金)が開催中。

こちらは「酔」の展示で目を引いた、古代中国・殷代の酒器「饕餮禽獣文兕觥(とうてつきんじゅうもんじこう)」。まったく読めない名前ですが、ユーモラスなルックスです。

のんべえな鬼のドン、大江山の酒吞童子(しゅてんどうじ)の酒盛りを描いた「大江山酒吞童子絵巻」(部分)。「見返り美人図」で知られる絵師・菱川師宣(ひしかわもろのぶ)晩年の作品。

さらわれてきたであろう女性のものすごい困り顔が印象的。

「虫」の展示からは「古芦屋糸地蒲団型釜(こあしやいとじふとんがたかま)」をピックアップ。蛾らしき虫がくっついています。

ちなみに展示品には、作品名のほかは解説などは一切記載されていません。

各展示室の入り口で二次元バーコードを読み込めば、自分のスマホで解説を読んだり、聞いたり(イヤホンは持参しましょう)することができます。

私は美術館や博物館では、解説を“読む”より展示品を“見る”ことに集中したいタイプなので、この方式はすごく好みです。

「誂」の展示室に進むと、とにかく箱がいっぱい。持ち主を代えながら受け継がれてきた茶道具は、大切にされるあまり、箱を作り、その箱を守るための箱、さらにまた次の持ち主が箱を作り……とマトリョーシカ状態に。

黒い箱は藤田家の人々が誂えたもので、ピカピカのうるしの黒と、エッジに金であしらわれた藤と鳥のモチーフとのコントラストが粋な「藤田箱」。箱にも気合が入ってます。

いよいよ、国宝・曜変天目茶碗とご対面! 現在の中国・福建省で盛んに作られていた黒い釉薬の茶碗「天目茶碗」の一種で、現存するのは世界で3つのみ。

そのすべてが日本にあり、そのひとつがここ、藤田美術館のもの。星空のようでもあり、オーロラのようでもあり、小さなお茶碗の中に小宇宙が広がっていました。

国宝「曜変天目茶碗 箱次第」。つまり、曜変天目茶碗のマトリョーシカのような箱たちです。箱にはしばしば「箱書き」という作家や所蔵者、由来などが書かれています。

藤田美術館の曜変天目茶碗の持ち主を辿っていくと……なんと、徳川家康!!!! スケールがすごい。

展示室を出ると、移築された蔵の窓が。外には広々とした藤田邸跡公園が広がっていて、写真に撮ると麻子先生がものすごく大きな本を広げているみたいに見えます。

昔はこの辺り一帯すべてが一族の邸宅だったそうです。

庭には、高野山から移築されたという多宝塔が。自宅の庭にそんなことを……! ひと昔前のお金持ちはスケールが違いますね。

塔の移築は藤田平太郎さんによるものですが、父である傳三郎さんは、現在のリーガル・東洋紡・南海電鉄・JR山陽本線など名だたる大企業の前身となる企業を次々に設立、一代で藤田財閥を創設したスゴい人で、その功績をたどると驚きの連続。今まで知らなかったことが不思議なぐらいです。そのうち、ドラマの主人公になっていてもおかしくない!

オープンスペースの一角にある「あみじま茶屋」では、目の前で点てていただけるお抹茶や日本茶とお団子を提供しています。なんと500円。

しかも使われているお茶碗は、現代の作家ものばかり。素晴らしい茶道具を見て「素敵」とうっとりして、そのうえいい器でお茶までいただけるなんて……。

それでいて、お菓子が肩肘はらずにいただけるお団子、というのも良い!

リニューアルにあたり、茶道やアートに興味がある人はもちろん“ちょっとお茶でもしてこうかな”ぐらいでも気軽に立ち寄れる、どんな人にもオープンでありたいという願いを込めた空間は、江戸時代の峠や宿場の茶屋のように、情報交換の場でもあるそう。

お能や落語、文楽(人形浄瑠璃)などの伝統芸能をカジュアルに楽しめるイベントも開催されています。詳しくは、公式SNSでチェックを。

大阪市立美術館で人気の漆工品「根来」の魅力に触れ、大阪で愛されてきた煎茶の歴史も学ぶ

漆工品の人気ジャンルである根来にフォーカスした大阪市立美術館で開催中の特別展「NEGORO 根来 - 赤と黒のうるし」へ。内覧会には、館長の内藤栄先生もご登場。メインビジュアルのデザインがとにかく素敵!

そのメインビジュアルに登場する「輪花盆」(大阪市立美術館蔵)がお出迎え。

根来とは、下地をほどこした木地に黒うるしをかけ、さらに朱うるしを上塗りした漆器のこと。使いこむうちに朱の下から黒がのぞくようになる、いわばヴィンテージの美も魅力です。

こうした漆器が「根来」と呼ばれるようになったのは江戸時代のことだといわれています。和歌山県岩出市の古刹・根來寺(ねごろじ)が由来ともいわれており、実際に漆器が出土していますが、その関連性についてはまだはっきりしていないそう。

展示は、根来という名称が使われる前にさかのぼり、奈良・大神神社の「楯(たて)」〈鎌倉時代・嘉元3年(1305)〉や和歌山・熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)の「唐櫃(からびつ)」〈南北朝時代・明徳元年(1390)〉など神仏に捧げられた名宝からスタート。

手前の奈良・法隆寺の「輪花天目盆(天目台付)」(りんかてんもくぼん/てんもくだいつき)など、朱と黒のうるしの美が次々に登場。

大正時代におこった民藝運動で知られる柳宗悦(やなぎむねよし)が、根来を「漆として一つの型をなす」(『手仕事の日本』)と評していたことなど、根来人気のルーツも学べます。

トリは、現代美術家・杉本博司氏のアート作品「瑠璃の浄土」〈2005〉(小田原文化財団蔵)。

玉手箱みたいだなぁ〜とうっとり眺めながら、江戸時代にはすでにそれ以前の“黒うるしに朱うるしを重ねた器”がヴィンテージとなっていて、茶道の侘び寂びの美学を経てその色合いを愛でるようになり、とくに寺院で使われることが多かったことから「根来」と称するようになったのかな……なんぞと、ふわふわ妄想していました。

ネゴロ(私の結婚後の姓です)meets 根来!(スイマセン……)

こちらの展覧会は11月9日(日)まで開催され、2025年11月22日(土)から2026年1月12日(月・祝)まで、東京・六本木のサントリー美術館に巡回するそうです。

1Fで開催されていた特集展示「売茶翁(ばいさおう)から花月菴(かげつあん)―煎茶道はここから始まった!―」ものぞいてみました。

こちらは個性的なルックスの「売茶翁像」初代高橋道八〈江戸時代・寛政10年(1798)〉(大阪市立美術館寄託品)。「煎茶を売り歩いたおじいさんのにんぎょう」という子ども向けの解説文に笑いました。

江戸時代のはじめ、中国から招かれた黄檗宗(おうばくしゅう)の禅僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)などによって伝えたれたお茶の飲み方をもとに、日本では「煎茶」の文化が広がりました。その発展に大きな役割を果たしたのが、売茶翁さんです。もとは黄檗宗のお坊さんでしたが、禅の精神を説きながらお茶を売り歩いたのだそうです。

写真左上の図のように、「清風」と書かれた旗を出し、道ばたで茶店をオープン。自由だ。

売茶翁さんが掲げた茶旗「清風」大典禅師筆・桂州禅師筆〈江戸時代〉(大阪市立美術館寄託品)も展示されていました。

絵に描かれているのと同じ旗ですね。ってことは、本当にやってはったんですね。道ばた茶店。

売茶翁さんの交流は広く、たとえば人気の高い絵師・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)もそのひとり。写真左は、若冲が描いた「売茶翁像」〈江戸時代〉(大阪市立美術館寄託品)。

「若冲」の名は、売茶翁が持っていた写真右の「注子(ちゅうし。水指のこと)」〈江戸時代・延享4年(1747)銘〉(大阪市立美術館寄託品)に書かれていた銘文から取ったともいわれています。

数年前に放映されていたNHKのドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』にも、仙人みたいなキャラクター設定で石橋蓮司さん扮する売茶翁さんが登場したことを思い出しました。ドラマ見直そうかな。

売茶翁さんは自分が使っていた茶道具などを心ない人に使われたくないと一部を燃やしてしまいますが、その多くを友であり弟子でもある木村蒹葭堂(きむらけんかどう)さんが受け継ぎます。

本業の酒造業による資本力もあり、とんでもないインテリにして、とてつもないコレクターでもあった蒹葭堂さんは、売茶翁の茶道具を『売茶翁茶具図』にまとめます。

それをもとに刊行された『売茶翁茶器図』の拡大図と、描かれているものの現物が並べて展示してあり、見やすい! 親切!

大阪の文化をあれこれ調べていると、必ずといっていいほど“なにわの知の巨人”蒹葭堂さんに行き当たります。この方もドラマ化希望したいけど、彼の日記には教科書で見覚えあるレベルの有名人も含め、数万人の文人たちとの交友録が記載されているようなので、キャスティング不可能かも。

売茶翁さんが広めた煎茶は、大阪の文人に愛され、江戸時代末期には田中鶴翁(かくおう)さんが煎茶道の流派・花月菴流を起こしました。鶴翁さん所用の「色絵羅漢図急須(いろえらかんずきゅうす)」初代尾形周平〈江戸時代〉(大阪市立美術館寄託品)から、当時の文人文化のはなやぎを感じました。

あ〜。美味しいお茶、飲みたい!

この記事を書いた人

編集者 ふなつあさこ

ふなつあさこ

生まれも育ちも東京ながら、幼少の頃より関西(とくに奈良)に憧れ、奈良女子大学に進学。卒業後、宝島社にて編集職に就き『LOVE! 京都』はじめ関西ブランドのムックなどを手がける。2022年、結婚を機に奈良へ“Nターン”。現在はフリーランスの編集者として奈良と東京を行き来しながら働きつつ、ほんのり梵妻業もこなす日々。

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