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美食三昧だったCAが医者と結婚。子どもが生まれ「こんなはずじゃなかった」と思ったワケ

  • 2025.6.30

男という生き物は、一体いつから大人になるのだろうか?

32歳、45歳、52歳──。

いくつになっても少年のように人生を楽しみ尽くせるようになったときこそ、男は本当の意味で“大人”になるのかもしれない。

これは、人生の悲しみや喜び、様々な気づきを得るターニングポイントになる年齢…

32歳、45歳、52歳の男たちを主人公にした、人生を味わうための物語。

▶前回:高級料理店に足繁く通う、50代男性と20代美女カップル。ふたりを繋ぐのは、金銭でもときめきでもなく…

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Vol.10 女心に怯える、四谷の帰路 大学病院勤務医の32歳、皆川樹の場合


入院患者さんたちの状態を確認するため病棟を巡回し終わると、時刻は19時を回ってしまう。

そこから諸々の作業や、当直の医師への引き継ぎを行い、退勤。

今日はさらにそのあと先輩医師に飲みに連れていってもらい、四谷の自宅マンションに帰宅したのは22時を過ぎてからのことだった。

「ただいま…」

ささやき声で帰りを告げた僕の前に広がる景色は、足の踏み場もない状態のリビングだ。

床に落ちたブランケット。

開きっぱなしの絵本。

山積みになったたたむ前の洗濯物。

まるで空き巣にでも入られたのではと思うほどに荒れた部屋。

だけど僕はそんなことは全く気にせずに、散らかり放題の部屋を縫うようにして進む。

たどり着いた先は、寝室だ。玄関のドアと同様、なるべく音をたてないようにそっとドアを開く。

そして、部屋の隅に寄せられた二つのシングルベッドを覗き込み目を細めた。

そこにで安らかな寝息を立てているのは、僕にとって何よりも愛おしい宝物───妻と息子のふたりなのだから。

妻の美保は僕より2つ年上の34歳。息子の櫂は、今月でちょうど6ヶ月になる。

「ふ…っ」

ふたり揃って全く同じ寝相をとっているのが面白くて思わず吹き出してしまうと、ハッと美保が目を覚ました。

「は…ごめん!寝かしつけしてたら一緒に…」

「ごめん、起こしちゃったね。寝てていいよ」

「でも、部屋も散らかってるし、洗い物もまだ済んでないの」

「大丈夫。部屋なんて気にしないよ。洗い物も、明日でいいから」

寝ぼけ眼の美保を気遣い、僕は静かに部屋着に着替えて寝室に出る。冷蔵庫からビールを取り出し、櫂の肌着が脱ぎ捨てられたままのソファに沈み込んだ。

と、その時だった。寝室からのそのそと美保が出て来て、シンクに立つ。

「寝てていいのに。櫂、夜泣きもすごいだろ?休めるうちに休んでおいたら」

「うん。でも、今日中に済ませちゃいたくて」

「そう?」

健気な姿にいじらしさを覚えた僕は、思わずソファから立ち上がる。そして、洗い物をする美保を背後から抱きしめて、思った。

― 美保のためにはなんだってしてあげたい。

美保には全く頭が上がらない。

まずは、女性経験がそんなに多くないこんな僕と結婚してくれたこと。

それになにより、大学病院に勤務する医師として多忙な毎日を過ごしている僕に合わせて、専業主婦になってくれたのだ。キャビンアテンダントは、美保にとってはかけがえのない天職だったというのに…。

もしかしたら、苦い過去でもあったのかもしれない。「男の人には、全力で仕事に向き合って欲しいの」と言ってくれたとき、少し寂しそうな微笑みを浮かべていたっけ。

けれどとにかく、美保が主婦業に専念してくれることになったおかげで、僕は仕事に集中できている。家のことも櫂のことも、すっかり美保に任せられるのはありがたかった。

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当直がないクリニックなどの医師にでもなれば、もっと家族のそばについていられるのかもしれない。けれどそれでも大学病院にいたいというのは、僕の希望だった。

給料は安い。休みは少ない。当直だってある。だけど、今勤務している大学病院には尊敬できる先輩方がたくさんいて、刺激をもらえる。

特に、今はもう開業した脳神経外科の磯部先生からは色々なことを教えてもらった。

外科医としての素晴らしい技術に培ってきた経験。そして、患者さんへの向き合い方。結局は脳外ではなく消化器内科に進むことになったものの、磯部先生から学んだことは僕の医師としての礎になっている。

― だけど…ああいう癖だけは、参考にはならなかったな。

鍋を洗う美保の腰を抱きながら、僕は恩師の顔を思い出す。

磯部先生の悪い癖。それは、ご家族に隠れての女性関係だ。

磯部先生に限らず、いくつになっても“お元気”な先生が多いような気がする。仕事ができる人は、公私共にバイタリティが有り余っているものなのかもしれない。

だけど僕は、どうしてもそんな気になれない。妻と息子を愛しているし、それになにより…。

僕はもう、32歳。

分別のある大人だし、この歳になれば自分の身の程というものもわかってくる。

僕には、目の前のことだけで精一杯なのだ。

磯部先生や、他の偉大な先生方のようにはなれないかもしれない。けれど、そんな先生方から刺激をもらえて家族が健康に過ごせていれば、僕にはそれだけで十分だと思う。

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「樹くん、いいからゆっくり座ってて」

そう言って微笑む美保は、ごはん茶碗を洗っていた。その他シンクにあるのは、空になった納豆のパック。たまった哺乳瓶。櫂のための離乳食の残り。

― これって、美保が食べたのは納豆ごはんだけってことだよな…。

きっと今の美保は、ゆっくり自分のご飯を食べる時間もないのに違いない。そう考えると僕は、いても立ってもいられないようなもどかしさを感じた。

櫂が生まれてからというもの、全くと言っていいほど美保と一緒に外食できていないという事実は、僕に取って強烈な引け目だ。

CAだった頃の美保は世界各国の美食三昧の毎日を過ごしていたのだし、ちらと聞いた過去ではたしか、元彼はフレンチのシェフだったはず…。

それが今は、家で納豆ごはんだけ。

― もともと超がつくほどのグルメだったのに、相当ストレス溜まるだろうな…。

僕が夕飯を食べる時にはきちんとした食事を準備してくれるけれど、本当は外食に行きたいに決まっているのだ。

その証拠に、ちょっとした空き時間にはいつもインスタやTikTokでグルメ情報ばかり見ているのを知っている。

だからこそ僕は、密かにあるプランを立てていた。

今週末の美保の誕生日には、とっておきのサプライズを用意してあるのだ──。



「ねえ樹くん、本当に…?」

「本当だよ、びっくりした?」

「うん、びっくり。けど…」

迎えた美保の誕生日。驚いた表情を浮かべる美保を前に、僕は興奮を抑えきれないでいた。

僕が準備した美保へのサプライズ。それは、夫婦ふたりでのディナーデートだった。

お店は、表参道ヒルズの『SPICA』。いかにも美保好みの洗練された雰囲気に、否が応にも気分は高まる。

この店を監修している吉田能シェフはYouTubeもしていて、美保も大ファンなのだ。我ながら完璧なサプライズプレゼントだという自信があった。

それなのに…。

「ねえ樹くん。櫂、大丈夫かな…」

「大丈夫だよ。ミルクも飲めるんだし、離乳食も始まってるし。母さんが3,4時間くらい楽勝だって言ってくれてるんだから」

「うん、それはそうだけど…」

美しい盛り付け。繊細な味わい。いかにも美保好みの料理が次から次へと運ばれて来ているというのに、なぜだか美保の顔は曇ったままだった。

確かに、まだ母乳もあげているのだから、お酒が楽しめないのは誤算だったと思う。

けれど、一体どうしたというのだろう。

結局その夜はついに、美保から思ったような笑顔を引き出すことはできなかったのだった。

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「…というわけでね、検査入院の結果、肝臓機能障害とまではいかなかったんですけども…。

数値はあまりよくないですし、45歳とまだまだお若いですからね。退院後も健康的な生活を心がけていいただいてね…」

ディナーの翌日。

いつも通り出勤した僕は、入院していた患者さんへの退院の説明を行なっていた。

だけど、説明を続ける僕に患者さん──椎名さんは、逆に心配そうな顔を浮かべる。

「先生、ありがとうございます。でも、なんだか先生の方こそ具合悪そうですけど…?」

「ちょっと、あなた…!」

同席していた奥様が、椎名さんを嗜める。けれど僕は「医者の不養生ってやつですかね」などと笑ってお茶を濁した。

椎名さんに指摘されたように、実際に気分は優れなかった。

その理由はもちろん、昨夜のサプライズディナーが失敗に終わったから。

帰宅してからもすぐに美保はすぐに櫂の面倒をみながら寝落ちしてしまって、ろくに話す暇もないまま今日を迎えている。それどころか今朝も、なんとなくギクシャクした雰囲気が続いていたのだ。

― はあ、何がいけなかったんだろう…。

診察室から夫婦仲睦まじく退出する椎名さんたちを見ながら、僕はまたため息をつく。

― とにかく、今日はなるべく早く帰ろう。

そう決意した僕は美保の本音を聞き出すべく、大急ぎで担当患者への検査や指示出しを済ませ、病棟のラウンドに向かうのだった。



あれだけ急いだというのに結局、四ツ谷駅にたどり着いたのは20時過ぎだった。

― 昨日の美保、やっぱり怒ってたよな…。まだ機嫌悪かったらどうしよう。

出がけに夕飯は家で食べると伝えてきたものの、果たして食事が用意されているかどうかはわからない。

32歳にもなるというのに、女性の気持ちというものは僕にとっては、どんなに珍しい症例よりも理解しがたい難問だ。

「ただいま…」

20時すぎといえば、もう櫂はとっくに寝ているはずの時間だ。美保も寝ているかもと思った僕は、ふたりを起こしてしまわないよう、やっぱりいつも通りささやき声で帰宅を告げる。

相変わらず、部屋は散らかっている。

床に落ちたブランケット。開きっぱなしの絵本。山積みになったたたむ前の洗濯物に、足の踏み場もない状態のリビング。

だけど今夜はひとつだけ、いつもと違っているところがあった。

「あっ!おかえり、樹くん」

そう言って微笑みながら、美保が食卓についている。そしてその目の前には、信じられないほどのご馳走がずらりと並んでいたのだ。

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「美保、これ…どうしたの?」

驚きの表情を浮かべる僕に、美保はまたしてもニコっと笑う。そして、絵画のように美しいテリーヌを盛り付けながら、恥ずかしそうに言った。

「あのね、実は…。『レザンファンギャテ』のテリーヌをお取り寄せしてたの。他にも、櫂をベビーカーに乗せてお散歩がてら、気になってたお店でいっぱいテイクアウトしてきちゃった」

「お取り寄せ?」

「うん。来月の結婚記念日を自宅でお祝いしようと思って、こっそり頼んでたの。でも…昨日おいしいお店に連れていってもらったら、我慢できなくなっちゃって!えいっと思って、今日出しちゃったんだ。

ね櫂、ちょうど今寝たところなの。今のうちに一緒に食べよ」

「あ…う、うん」

一体何がなんだかわからないまま、食卓につく。戸惑いながらテリーヌを突く僕に、美保は申し訳なさそうな目を向けて言葉を続けた。

「樹くん、昨日はごめんね。私に美味しいもの食べさせてくれようとしたんだよね。すごくうれしかった。でも…」

「でも?」

「私、ずっと早く結婚したい。早く家庭に入りたいって思ってたから、正直に言うと、家庭のことはもっと完璧にできるつもりでいたの。

だけど実際にやってみると、部屋はご覧の通り荒れ放題だし…そう簡単じゃなくて。せっかく専業主婦までさせてもらってるのに、本当に申し訳ないんだけど…」

美保の表情は、みるみる曇っていく。その言葉の続きが怖かった。

もしかしたらこれは、最後の晩餐──?

恐ろしさのあまりごくりとつばを飲み下しながら僕は、絞り出すように「けど…?」と続きを促す。

けれど、次に美保が放った言葉は、僕の予想とは全く違うものだったのだ。

「申し訳ないんだけど、私…。今は外食よりも何よりも、ゆっくりする時間が欲しくて。

もし私のことを考えてくれるなら、たまーに洗い物とか変わってもらえると嬉しい!あと、もしお母様に櫂を見ていただけるなら、たまにでいいから昼寝もしたいの!」

「洗い物に、昼寝…??」

拍子抜けしたあまり、すでに椅子に腰掛けているにもかかわらず、膝から崩れ落ちそうになる。

大学病院で途方もないバイタリティの持ち主たちに囲まれているがあまり、僕は大切なことを見失っていたらしい。

美保が必要としているのは、夜な夜な街にグルメに繰り出すことではなく、そんなささやかな時間だったのだ。

「そんなこと言われないと気づかないなんて…本当にごめん…!もう32歳のいい大人なのに、本当に自分が情けない…」

頭を抱える僕に対し、美保は慌てて首を振る。

「ううん、仕事に専念してってお願いしたのは私だもん!樹くん、いつもお仕事頑張ってくれて本当にありがとう。

美味しいお店に行くのは先の楽しみにとっておいて、今はこんなふうに、今の私たちだからできる楽しみ方をしたいな」

「うん…うん、そうだね」

美保といると、いつも教わることばかりだ。

もしかしたら、磯部先生につくよりも勉強になるかもしれない。32歳にもなったのに、育てられているような感覚に陥るときがある。

「じゃあ…改めて、食べよっか」

ふたりそろっていただきますと言おうとした、その時だった。寝室から、櫂の激しく泣く声がした。

「あ…、櫂が泣いてる」

席を立とうとする美保を止めて、僕は宣言する。

「僕が見るから。美保はゆっくり食べてて。それから、今夜は洗い物も僕がするからね」

「樹くん…ありがとう」

寝室で待つ息子のもとへと向かいながら、僕は思う。

もう32歳のいい大人だけれど、夫としても父親としても僕はまだ、赤ちゃんみたいなものなのかもしれない。

今夜は夜泣きの担当をしながら、息子に語りかけてみよう。

「一緒に大きくなろうな」、と───。


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▶1話目はこちら:2回目のデートで、32歳男が帰りに女を家に誘ったら…

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45歳。体の不調を覚え始めた椎名が、妻に対して思うこと

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