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「彼女がそれも愛と呼ぶなら」それも愛と呼ぶなら、私たちはどこまで許される? 複数恋愛が問いかける「尊重」と「執着」

  • 2025.5.27

揺らぐ“普通”――伊麻が選んだ複数恋愛という形

「彼女がそれも愛と呼ぶなら」(読売テレビ・日本テレビ系)
「彼女がそれも愛と呼ぶなら」(読売テレビ・日本テレビ系)

現在放送中のドラマ「彼女がそれも愛と呼ぶなら」は、複数恋愛を描いた刺激的なラブストーリーでありながら、恋人や親子の間にひそむ「尊重」と「執着」の境界線を丁寧に描いている。第7〜8話では、栗山千明が演じる主人公・伊麻(栗山千明)と、その娘・千夏(小宮山莉渚)、そして彼女たちを取り巻く人間関係を通じて、私たちの“愛のかたち”に静かに揺さぶりをかけてくる。

主人公・水野伊麻は、3人の男性と同居しながら関係を築いている女性である。「一対一の恋愛」が“正しい”とされるなか、彼女は複数の人と対等に、誠実に向き合おうとしている。

しかしそれは、決して軽やかな理想論ではない。複数恋愛という生き方は、娘・千夏に「ママは人と違うから」と突き放されるほど、周囲との摩擦を生む。そのなかで伊麻は、自分の関係性が他者をどう傷つけているのかと、初めて向き合うことになる。

伊麻の娘・千夏は、初めてできた恋人・太呂(竹野世梛)との関係に戸惑いを抱えていた。「恋人なんだからこれくらい当然」と強く迫られ、言いなりになってしまったことに、心も身体も疲弊していった。しかし、氷雨(伊藤健太郎)の優しさや、伊麻との対話を通じて、ようやく「私は太呂のことが好きじゃなかった」と認めることができた。いい彼女でいなければ、相手に応えなければという思い込みが、千夏を縛っていたのだ。

傷つき悩む千夏に、伊麻は「千夏の心と身体は、千夏のものだよ」と静かに伝える。恋人かどうかに関係なく、嫌なことは嫌だと伝えていい。その当たり前のようで難しいことを、伊麻は一人の母親として、娘に優しく語る。強く抱きしめたりはしない。しかし、そこには確かな愛情と覚悟がにじんでいる。

一方で、伊麻に惹かれ続ける氷雨は、彼女が「大切な相手」と称する直江(渋川清彦)の存在に嫉妬し、「会ってほしくない」と口にする。尊重しているように見えても、そこには独占したい気持ちが見え隠れする。

太呂もまた、千夏への強い執着を“愛”と信じ、自分の望みを押しつけていた。恋愛における「尊重」と「支配」の境界線が、ここまで曖昧になってしまうのはなぜか。ドラマはその問いを、登場人物たちの揺れる心を通じて私たちに突きつけてくる。

栗山千明が体現する“母であり、ひとりの人間”

「彼女がそれも愛と呼ぶなら」(読売テレビ・日本テレビ系)
「彼女がそれも愛と呼ぶなら」(読売テレビ・日本テレビ系)

本作の見どころのひとつは、栗山千明の繊細な演技である。とくに印象的なのが、「千夏を追い詰めたのは、きっと私です」と涙をこぼす場面だ。

伊麻という人物の静けさのなかに宿る、揺れ動く感情の起伏――母として娘を守りたい気持ちと、ひとりの人間としての脆さが共存する表情は、言葉以上のものを伝えてくる。抑制された演技のなかに潜む覚悟と優しさ。その余韻が、視聴者の心をゆっくりと包み込んでいく。

「彼女がそれも愛と呼ぶなら」は、愛という言葉では括りきれない関係のもつれや痛みを、丁寧にすくい取ろうとするドラマである。複数恋愛、執着、親子の摩擦、それらを一面的に裁かず、誰かの気持ちに寄り添いながら物語は進んでいく。愛とは何か、尊重とは何か。その答えを急がず、問いかけ続けてくるこのドラマは、私たちの“当たり前”を見直すきっかけになるかもしれない。

読売テレビ・日本テレビ系新木曜ドラマ「彼女がそれも愛と呼ぶなら」毎週木曜23:59放送

(北村有)

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