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『もののけ姫』アシタカは、なぜタタラ場に残ったのか? 「共に生きよう」に“込められた思い”

  • 2025.8.31

1997年の公開から四半世紀以上が過ぎた今も、テレビ放送のたびに大きな反響を呼ぶスタジオジブリの不朽の名作『もののけ姫』。先日、「金曜ロードショー」でも放送され、改めてそのクオリティの高さを証明してみせた。

自然と人間の壮絶な戦いを描いた本作は、単純な勧善懲悪では決して割り切れない、深く、痛みを伴う問いを見る人に投げかける作品だ。

森に生きる少女サン、虐げられた人々のために森を開拓しようとするエボシ御前。そして、その双方の立場に間に立ち苦悩するアシタカ。それぞれの正義がぶつかり合う物語の果てに、どのような結末を迎えたのか。結末に関わる3つの謎を、改めて読み解いていきたい。

アシタカはどうしてタタラ場に残ったのか?

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© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

物語の終盤、アシタカはサンに「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう」と告げる。アシタカのこの決断は、もちろん第一義にはサンとともに生きたいという恋愛感情もあるだろう。しかし、それだけでは決してない。本作の物語を通して、人と自然がともに生きる道を諦めないアシタカの必然的な結末といえる。

タタリ神から受けた呪いによって故郷の蝦夷(エミシ)の村を追われたアシタカは、なぜ古い神が祟りとなってしまったのか「曇りなき眼で見定める」と言い、旅に出た。作中、「森と人間、双方共に生きる道はないのか」と問いかけるアシタカの見定めは、まだ終わっていないのだろう。森を破壊するタタラ場は、人買いに売られた女たちや病に苦しむ人々を救う場でもあった。たくさんのマイノリティを受け入れ、彼らに生きがいを与えている場所でもある。

アシタカは一方を断罪することをしない。彼は森と人間、どちらか一方を選ぶのではなく、両者の痛みを伴う境界線に立ち、共存の道を探ることを諦めていないのだ。タタラ場に残るというのは、一見すると人間側に立ったように思えなくもないが、同時にサンに「共に生きよう」と言っている。それは森と人が共に生きていける方法をこれからも一緒に探していこうという意思を表していると考えられる。人間と自然をつなぐ「橋渡し役」になるべくこれからも努力を続けるのだという決意がタタラ場に残るということなのだろう。

シシ神とは結局なんだったのか

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© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

『もののけ姫』後半の展開は、自然を象徴するシシ神という存在を巡って、人と自然が争う構図となる。シシ神はアシタカの怪我を治したかと思えば、歩いただけで草木を枯らす。作中シシ神についてアシタカは「あれは生命そのものだ。生と死、2つとも持っている」と語っているが、その言葉通り、命を与えつつも奪うこともあるシシ神は破壊と創造を同時に行う人知を超えた存在だ。意思があるのかどうかも、映画でははっきりと描かれない。まさに自然のように「ただ、そこにあり、時に恩恵をもたらし、時に破壊をもたらす」存在として描かれている。

夜にはデイダラボッチという巨大な半透明の姿となるシシ神は、首を切られて暴走する。中世となり技術が発展し、森を切り開ける時代となって、人間は自然を次第に恐れなくなったのだろう。ジコ坊たちが天朝の命令でシシ神の首を狙うのも、そんな時代の変化を象徴しているかもしれない。

森が野原になった理由

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© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

アシタカとサンの活躍によってシシ神の首をデイダラボッチに返すと、暴走は静まり平穏が訪れる。しかし、うっそうと生い茂る深い森はなくなり、緑の草原として再生することになる。この結末は一見ハッピーエンドのようでいて、自然に不可逆の変化をもたらしている。サンが「蘇っても、ここはもうシシ神様の森じゃない」と言うように、その風景は以前の原生林とは決定的に異なってしまっている。

かつての神々が宿る原生林は、人間の手がほとんど加わっていない、文字通りの「自然」だった。しかし、シシ神の死を経て再生した草原は、人間の管理によって維持される「里山」に近い風景へと変貌している。物理的な生命は戻ったが、太古から続いていた凶暴な森の魂は失われ、人間にとって優しい「人工的な自然」となったのだ。実際に日本の歴史はそのように推移してきたと言えるし、弱くなっていく自然に対して、人間は技術を発展させてどんどん強くなっていった、その現実の歴史を象徴したような結末といえる。

『もののけ姫』の最後のカットは、森に一匹だけコダマが再生する場面を描いている。純粋な自然の名残がわずかに残されたことが僅かな希望だ。人は自然を破壊するが、一匹のコダマが生きられるような自然をいかに守っていけるか、それはアシタカたちの努力に委ねられるのだろう。人と自然がともに生きるということは、コダマが生きていける道ということでもある。アシタカの願いは、ギリギリのところでまだ潰えていない、一匹だけでも生き残ったことを小さな希望として、映画は幕を閉じている。

単純に自然は大切だから守ろうというメッセージではなく、より深いところから人と自然の関係を描き出し、未来に向けて小さな希望を示す。自然を痛めつけた人間の業と同時に希望も描き出す、その複雑さが『もののけ姫』という作品の最大の魅力なのだ。



ライター:杉本穂高

映画ライター。実写とアニメーションを横断する映画批評『映像表現革命時代の映画論』著者。様々なウェブ媒体で、映画とアニメーションについて取材・執筆を行う。X(旧Twitter):@Hotakasugi