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【金曜ロードショー放送直前】『もののけ姫』に隠された“知られざる日本の歴史”…物語の鍵を握る“3人のキャラクター”

  • 2025.8.29

宮崎駿監督の不朽の名作『もののけ姫』が8月29日、金曜ロードショーで放送される。本作は、自然と人間の戦いの物語と紹介されることも多いが、単純な二項対立にとどまらないだけでなく、日本の歴史を再考する奥深い作品でもある。本作は、歴史の表舞台には出てこなかったが、確かに日本に存在した人々に光をあてる作品としても貴重な作品だ。

放送を前に、物語の背景となる3つのポイント「アシタカの村」「タタラ場」「ジコ坊とシシ神」について、その背景を知って、物語をさらに深く味わおう。

滅び去った民の末裔、アシタカの故郷とは

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© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

物語の冒頭、主人公アシタカは「東の果て」の隠れ里に住む、一族の王子として登場する。彼の一族は、かつて日本の東北地方などに暮らし、中央政権である大和朝廷との長い戦いの末に歴史から姿を消したとされる「蝦夷(エミシ)」の末裔として描かれている。主人公は、日本の歴史から姿を消した一族という点がまず、一般的な時代劇とは大きく異なるポイントだ。

蝦夷は、自然を深く敬い、狩猟や漁労で生きてきた人々であり、特に乗馬と弓術に長けていたとされている。アシタカが劇中で見せる乗馬術と弓術はそうした歴史も反映しているのだろう。彼がタタリ神を射る際に使うのが金属の矢ではなく石の鏃(やじり)であることや、村の巫女の住居にある縄文土器を思わせる土器など、細かな描写からも、彼らが「いにしえの民」であることが見てとれる。

アシタカが呪いによって村を追われるという運命は、かつて大和朝廷によって故郷を追われた蝦夷の歴史をなぞるかのようだ。彼は、日本の歴史の表舞台から消された民の代表という点で虐げられた人々を象徴する。同時に蝦夷は自然と共生してきた存在だ。だからこそ彼は、森の神々の心も、人間たちの苦闘も、どちらか一方に偏ることなく「曇りなき眼」で見定めようとする。森の自然と人間が双方、ともに生きる道はないのかと最後まであきらめないのだ。

森の破壊者であり弱者の理想郷。「タタラ場」の持つ二つの顔

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© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

本作は一般的な時代劇と異なり、侍が主要な登場人物として登場しない。本作は室町時代を舞台にしており、よく知られるようにすでに武士が支配する時代に突入しているが、実は武士や農民に当てはまらない人々がたくさんいたと提唱する歴史学者・網野善彦の歴史観に大きな影響を受けている。

そうした非農業民の存在を象徴するのが、エボシ御前が率いる「タタラ場」の描写だ。網野善彦は、中世の日本には農民や武士だけでなく、多様な人々がダイナミックに生きていたと語っており、当時の社会は、現代の我々が想像するよりもずっと自由で、支配者の力が及ばない「アジール(聖域)」のような場所が存在したとしている。

エボシのタタラ場は、まさにこのアジールそのものだ。そこに集うのは、人買いに売られてきた女性たちや、当時は不治の病とされ社会から見捨てられていたハンセン病患者など、既存の社会では居場所のなかった人々が多い。エボシは彼らを受け入れ、仕事と尊厳を与えている。特に女性たちは、鉄を作るための過酷な労働を担いながらも、自分の意見をはっきりと主張し、経済的にも自立して生き生きと暮らしている姿が描かれている。

しかし、周縁的な生き方をせざるを得なかったマイノリティが生き生きと暮らせる場を作るためには、経済的な自立が不可欠だ。タタラ場はそのために森を切り開く必要がある。エボシは自然の破壊者として描かれるが、その立場は『もののけ姫』という作品を一層深いものにしている。私利私欲のためでなく、虐げられた人々を救うために森を切り開く存在として描かれていることが、単純な二項対立に陥らないポイントになっているのだ。

神の首を狙う謎の男、ジコ坊の正体

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© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

ひょうひょうとした態度で現れ、物語をかき回していく謎の僧、ジコ坊。信頼もできそうにないが、憎み切れないこの男も物語のカギを握る存在だ。しかし、どういう動機で動いているのか、どういうバックグラウンドを持っているのかは、はっきりと物語の中で描かれていない。

彼は「師匠連」という謎の組織に属し、天皇からの密命を受けてシシ神の首を狙っていることが示唆される。彼は天皇にその行動を保証された存在であり、網野善彦によれば、実際に天皇から諸国を自由に通行できることを保証され、広範囲を移動する存在がいたという。

ジコ坊は、シシ神の首を欲する天皇の命令で、エボシたちを巻き込んでいくが、それは中央集権的な支配者が自由に生きる民たちの領域、そして自然にまで手を広げていく歴史のプロセスを象徴していると言える。人間が技術の発達によってその支配領域をどんどん広げていき、ついには太古の神々が暮らす森にまで及んできた時代を描いているのが『もののけ姫』なのだ。

『もののけ姫』はそんな太古の自然と縄文時代に辺境に追いやられた末裔と、歴史の表舞台からはじき出された人々、そして自然を支配しようとする権力者の思惑が入り乱れた、混沌とした時代を描いている作品だ。宮崎駿監督の作品の中でもひときわ歴史に対する深い洞察と激しい情念がぶつかりあう作品と言え、他の宮崎作品には味わえない歴史のダイナミズムが体感できる。大げさに言うと、日本という国の正体を、隠された歴史から捉えようという壮大な作品なのだ。



ライター:杉本穂高

映画ライター。実写とアニメーションを横断する映画批評『映像表現革命時代の映画論』著者。様々なウェブ媒体で、映画とアニメーションについて取材・執筆を行う。X(旧Twitter):@Hotakasugi