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【豊臣兄弟!】豊臣秀長(仲野太賀)の直球の問いが徳川家康(松下洸平)の心を動かした夜、何が起きた?

  • 2026.11.6

【豊臣兄弟!】豊臣秀長(仲野太賀)の直球の問いが徳川家康(松下洸平)の心を動かした夜、何が起きた?

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。今まであまりスポットライトの当たることのなかった豊臣秀長を主人公に、戦国時代がどう描かれるのか? ここでは、ストーリー展開が楽しみな本ドラマのレビューを隔週でお届けします。今回は、第41回「家康の野望」と第42回「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」です。

第41回「家康の野望」

天下一統を目指す豊臣秀吉(池松壮亮)にとって、いまだ最大の難敵は一向に上洛に応じない徳川家康(松下洸平)である。前回は先方の求めに応じて、妹のあさひ(倉沢杏菜)を人質として家康の正妻に差し出したのだが、それから3カ月経っても態度の変化は見られなかった。

九州では島津が、大名同士の私的な戦いを禁じた惣無(そうぶ)事令に従わず勝手な振る舞いを続けており、これを鎮めるためにも、まずは「徳川を臣従させ後顧の憂いを断たねばならない」というのが石田三成(みつなり/松本怜生)はじめ、大坂城の見解だった。「さらにほかの者を差し出すしかないのでは」と豊臣秀次(ひでつぐ/山田涼介)から意見が上がると、三成はそれには「大政所(おおまんどころさま)様(なか=坂井真紀)しかない」と言うのだった。

重い気持ちを抱えて母の屋敷を訪れた兄弟を、母・なかは歓待する。なかなか本題を切り出せない兄弟に、母は「私が徳川へ行けば、あんたら、お天道(てんと)様になれるんじゃろう?」と向こうから笑顔で言い出してくれた。母のその思いに兄弟は言葉なく、ただ、万感の思いを込めて頭を下げるのだった。

あさひは仮病を使って寝ていた。そして、自分たちの母親まで人質として差し出すなど、お前の兄弟は血も涙もないのか、と言う家康に、毅然としてこう答えた。「母はあくまで私の具合を心配して見舞いにくるのだと聞いております。私は別に来てくれなくてよいのです。されど、殿が気にされていることもわかりまする。世間は関白が自らの母を差し出してまで、徳川に上洛を迫ったと見るでございましょう。であればこそ、私が母に『来るな』と言うと、世間にはこう見えまする。徳川家康は礼儀知らずの臆病者と。それはよくありませぬ」。これを聞いて家康もついに肚を決めた。「わしの負けじゃ。上洛いたす」

徳川がついに上洛するという知らせに、大坂城は沸いたが、その書状には6万の軍勢を連れてくるとあって、一同は訝る。それだけの軍勢を率いてくるからには、「何かたくらみがあるのではないか」と秀長は疑う。秀吉は「形ばかりの臣従など要らぬ。それでは今と何もかわらぬ。ほしいのは、家康のまことの心じゃ」と言うが、秀長は「相手のまことを得るためには、われらのまことを見せるしかあるまい」と返す。秀吉は「家康の接待役はおぬしに任せる」と秀長に告げる。

天正14(1586)年10月18日、なかは三河・岡崎城に入った。家康もいよいよ大坂に向かおうと立ち上がる。「ではそろそろ、いただきに参るとするか。豊臣にとって大切なものを」。そう言う家康に、家臣が「大政所様をということでござりまするか」と尋ねると、家康はこう答えるのだった。「違う、秀長の命じゃ」

ついに、家康が大坂に入った。翌日の秀吉との対面を前に、秀長は自らの屋敷でもてなそうと迎える。だが、家康は腕を布で吊っており、負傷している模様だ。秀長が尋ねると、途中、賊に襲われたとのこと。「わしが豊臣に臣従するのを快く思わぬ者であろう」と言う家康に、秀長はすかさず「北条にござりまするか」と迫り、家康は「おそらく」と答えた。

そして、歓待の宴が始まった。秀長は家康の盃に酒を注ぎながら、こう伝えた。「今宵はわれらの胸の内を包み隠さずさらけ出しますれば、明日までにとくとお見極めくださりませ。我らが手を取り合うにふさわしいかどうか。もしお心にかなわぬときは、形ばかりの臣従など装うことはござりませぬ。そのときは、我らの負けにござりまする」

あまりに直球の秀長の発言に、家康は上洛前のある場面を思い起こしていた。それは、家臣に向けて「狙うのは秀長の命じゃ」と言った後に続けた、自らの発言であった。「わしをもてなすのは秀長になるであろう。わしを狙った北条の刺客に殺されたと見せかけるのじゃ。屋敷内に兵を入れる手筈はある。あとは、その中の何人かが北条の刺客になりすまし、秀長を討てばよい。わしが盃を落とす。それが合図じゃ」

家康の腕を吊った姿には、そうした目論見があったのだ。しかし、その自分の企てに比べて、秀長のあまりのまっすぐさ、誠意に家康は面食らい、その真意を量りかねている。

秀長は自らの「まこと」をまずは示そうと、さらにこう続けた。「さぁ、徳川殿、我らに尋ねたきことがあれば、何なりとお尋ねあれ」。すると、家康は「ならば聞くが、大坂城を攻めるとしたら、どこを攻めればよい」。秀長は動じることなく、こう答えた。「南側にござりまする。そこが地の利の上から最も攻めやすく、守りもやや手薄となっておりまする」

「よいのか。そのようなことを話して。わしがそれを手がかりに、大坂を攻めることがあるやもしれぬぞ」、「覚悟の上」。その答えに、家康はさらにこう続ける。「それで関白殿下が死なれてもよいということか。そなた、まこと兄を嫌っているのではないか」

それに対しても、秀長は正直にこう答えるのみであった。「確かに。兄には好き勝手なことを命ぜられ腹も立ちますれば、ときにはつかみ合いの喧嘩もしまする。じゃがわしは、兄者を天下人にすると肚を決めておりまする」

家康は秀長の真意を探るべく、さらに質問を重ねてくる。「ではそなたが最もつらく、苦しかったことはなんじゃ」。秀長は、百姓だった頃、信吉(しんきち/若林時英)という友が夜盗に襲われて、首をはねられて死んだこと、許嫁の直(なお/白石聖)が村のいさかいに巻き込まれて殺されたこと、そして息子・与一郎(大西利空)を亡くしたことなどを打ち明けた。

「もう、争いで人が無駄に死ぬのは見とうはござらぬ。恨むはやむなし。憎み合うも仕方なし。じゃが、殺し合いはもうたくさん。戦ごときに大事なものを奪われてたまるか! 皆で文句を言いながら寿命を全うし、最後は笑って死にたい。わしはそんな世を作りとうござる。徳川殿が作りたき世は、どんな世でござるか。ぜひとも聞かせていただきたい」

秀長から思いがけない過去を聞かされた家康は、それに自身が経験してきたつらい過去──妻や息子を信長に殺されたこと──などを重ねていた。気持ちも動揺し、盃を持つ手が小刻みに震えてきて、そこへ秀長の義理の兄・長尾吉房(よしふさ/上川周作)が酒を注ごうとしたところ、家康はその盃を落としてしまう。

そのつもりではなかった「合図」を送ってしまったと慌てた家康は立ち上がって、控えていた家臣たちに目をやり、刺客を止めようと目で探すと、こちらに向かって矢を放とうとしていた人間が見つかった。止める間もなく矢は放たれ、その瞬間、家康は秀長に覆いかぶさってその身を庇い、自らの背中に矢を受けてしまう。騒然とする周囲に、「すべてわしのはかりごとじゃ。北条の仕業に見せかけて、そなたを殺すつもりであった。大坂入りも臣従も、見せかけの偽りじゃ」と白状する。そこへ、秀吉がやってくる。「徳川殿、よう参られた。早う手当てせい!」

手当てを終えて落ち着きを取り戻したところで、秀吉、秀長兄弟は改めて家康に向き合う。「まことの臣従をせよなどと、傲慢であった。ここまで足を運んでいただき、頭を下げていただく。それだけで十分でござる」

そして、秀吉は心からの言葉として、こうも続けたのだ。「だが徳川殿、これだけはまことのことじゃ。わしがここまで来れたのは、徳川殿のお陰でござりまする。いつも道に迷うたときは、あのときの言葉を信じて前に進むことができ申した。『誰にもできぬことをやってのけるのじゃ。恐れず、己を信じて突き進むのじゃ。大事なのはここじゃ(胸を叩く)。熱意が人を動かし、生涯を決する』。今もそうじゃ。徳川殿、明日は見せかけで構わぬ。されどいつの日か、まことの心で通じ合えると信じておりまする。ともに支え合っていきましょうぞ」

兄弟が頭を下げると、家康はふと立ち上がって去り際にこう答えた。「そなたらの目指す世も、悪くはなさそうじゃ」

翌朝、月代(さかやき)をきれいに剃り、改めて秀吉のもとに参上した家康は、頭を下げ、臣従を誓った。「この家康、本日ただいまより、身命を賭して殿下にお仕えいたす所存」。そして、秀吉から陣羽織を贈られたのであった。

さらに家康は、自分のもとを出奔した石川数正(かずまさ/迫田孝也)のもとも訪ね、「わしは決めたぞ、数正。長生きする。お前の言うとおり、あやつらよりも長生きして最後に笑ってみせるわ」と未来の自分を思い描くのだった。

第42回「北野大茶湯」

第42回は、権力を身に着けていく秀吉の言動を、秀長が身近で冷静に俯瞰で見て、忌憚のない助言や苦言を呈していくという姿が、一層細やかに描かれた回だった。ともすれば力で周囲をねじ伏せようと生き急ぐ兄に対し、あくまでも「まこと」でぶつかっていこうとする秀長の生き方が、非常に印象的だ。

こういうときに、仲野太賀というキャスティングが、この物語、役柄には正解だったと思えてくる。物語が進むごとに台詞回しにも説得力が出てきて、英傑の活躍の裏には、こうした人物がいるのだということが、彼ならではのキャラクターを通してしみじみ伝わってくる。

秀吉も、この回まではわりと素直に秀長に従っているが、問題はじわじわ存在感を増してくる秀次の影だ。その小賢しさで、秀吉の心をくすぐることには長けているが、今からもう悲劇を予感させる。それだけ、山田涼介の演技がいいということなのかもしれないが。

徳川を臣従させ、島津を制して2カ月で九州を平定した秀吉は、あらたに九州の領地配分を行い、日の本の大半をその掌中に収めた。さらに、キリシタン勢力の拡大を危惧し、民衆を扇動する宣教師を国内から追放する伴天連(バテレン)追放令を下した。

そして天正15(1587)年9月、家康の臣従からおよそ1年が過ぎた頃、京の都に秀吉の邸宅である聚楽第(じゅらくてい)が完成した。

秀吉は聚楽第に、キリシタン大名の高山右近(うこん/市川知宏)を呼びつけ、所領を捨てるかキリシタンの信仰を捨てるかを迫った。南蛮人が伴天連やキリスト教の布教を通して、国を乗っ取るつもりだという秀吉の見解に反論した右近は、「形だけでもいいから棄教したように装え」という秀長の説得にも応じず、ついに改易を言い渡されるに至った。

右近が去った後、「私にとっては、殿下こそが大明神。日の本の民を導くのは殿下におわします」と発言した秀次は、さらに聚楽第の完成祝いとして、盛大に茶会を開くことを提案する。そのような催しは、大名たちに不満の種を蒔くことになり、時期尚早であると秀長は反対するが、秀吉はその案を採用して茶会の開催を決めた。

こうして天正15(1587)年10月1日、身分の隔てなく誰もが参加できる北野の大茶会が催された。千利休(吉岡秀隆)の茶室には長蛇の列ができた。茶室で利休が休んでいるところへ、秀長が現れる。大茶会をめぐって兄弟の意見が割れていることを察した利休は、秀長にこう言った。「これまでは天下人っちゅう的(まと)に向かって、同じほうを向いておった。倒さなならん敵のほうを向いとった。せやけどもうそんな敵もおらんようになってしもうて、今はお互いを見るようになってしもうた。これまで見えんかったもんが、見えるようになってしまうかもしれまへんな」

日の暮れる頃、秀吉を狙った刺客を石田三成が刺殺した。物陰にいた少年(福田龍世)が、犯人だと疑われて連れて来られた。そしてしばらくして、この少年を連れてきた男が姿を現した。それは、昔、中村で暮らしていた頃の百姓仲間・玄太(げんた/高尾悠希)であった。

少年の名前は鍋丸といい、かつて直がその命を救った娘の子どもであった。両親の死後、直の父・坂井喜左衛門(きざえもん/大倉孝二)が育てていたが、先日この世を去ったため、玄太は鍋丸の奉公先を探して、秀長を頼ってきたのだった。吉房が彼らとずっと接触していたことも、秀長は初めて知った。秀長が妻・慶(ちか/吉岡里帆)に相談すると、慶は養子にすることを提案した。「お直さんが助けた命が、めぐりめぐって殿のところに帰ってきた。こんな素晴らしい縁(えにし)はありませぬ。大切にせねば」

そんな折、肥後国で力ずくの検地に反発した国衆たちが、大きな一揆を起こしたとの知らせが入る。秀吉は毛利、小早川、大友、黒田を差し向け一揆を鎮めると、天正16(1588)年2月、その命に逆らい検地を強行して一揆を起こさせる要因を作った佐々成政(なりまさ/白洲迅)を摂津国の尼崎に呼ぶ。秀長は徳川家康と前田利家(としいえ/大東駿介)からの二通の許しを請う嘆願書を差し出し、寛大な措置をとるように頼むが、秀吉は応じようとしない。

その夕方、秀長のもとを、かつての足利義昭(よしあき)改め昌山(しょうざん/尾上右近)が訪ねてきた。昌山は、かつての自らの過ちを振り返りながら、今の秀吉を案じて、秀長にこう説くのだ。「おぬしは、決して関白殿から離れるでない。兄を諫め、助けられるのはおぬしだけであろう。わしらのようになるでないぞ」

昌山の助言を経て、翌日、秀長は秀吉のもとを訪れるが、「佐々成政に切腹を申しつける」との言葉に驚愕する。

秀次の母・とも(宮澤エマ)が、ふと何かを感じて秀次に「あんた、小一郎のことが嫌いなの?」と聞き、これに対して秀次は、「違います。向こうが私を嫌いなのです」と答える場面があった。跡取りのいない秀吉にとって「甥」という存在は、ましてやこのドラマの中の秀次のように、「殿下の言うことがすべて正しい」と100%肯定してくる人物であったら、判断を誤ってしまうほど可愛いものだったのだろうか。

その後の豊臣の、そして秀次の運命を考えると、なんともハラハラするところだ。地位が上がれば上がるほど、周囲がイエスマンばかりになっていく例は、古今東西、枚挙に暇がない。

秀長は秀吉にどう関わっていくのか。あるいは疎まれていくのか。新たなステージに入った二人の関係に注目したい。

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