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「豊臣兄弟」ほどクールではない…松下洸平が演じる17歳の家康が桶狭間の敗戦処理で見せたカッコ悪すぎる側面

  • 2026.2.1

NHK大河「豊臣兄弟!」では桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、今川側にいた家康(松下洸平)と信長(小栗旬)が同盟を結ぶ。家康についての著作がある濱田浩一郎さんは「桶狭間のとき家康はまだ17歳ぐらい。判断を誤った場面もあった」という――。

「豊臣兄弟!」で徳川家康を演じる松下洸平、第78回カンヌ国際映画祭『遠い山なみの光』フォトコールにて、2025年5月15日
「豊臣兄弟!」で徳川家康を演じる松下洸平、第78回カンヌ国際映画祭『遠い山なみの光』フォトコールにて、2025年5月15日
秀吉の最大のライバル、家康登場

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で豊臣兄弟(秀吉・秀長)の最大のライバルとなるのが徳川家康(1543〜1616)です。そして同ドラマで家康を演じるのは松下洸平さんです。家康と言うと読者はどのようなイメージを持っているでしょうか。

有名な「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の句が表すように、忍耐強く慎重な性格と思っている人が多いのではないでしょうか。実際、家康には慎重な面がありました。永禄3年(1560)、満年齢で17歳、まだ松平元康という名だった時代、桶狭間の戦いにおいて、織田信長により今川義元が討たれた時もそうです。

桶狭間では慎重すぎて叱られた

家康は義元戦死の際、大高城(名古屋市緑区)におりました。今川方の部将として大高城に兵糧を補給する役割を担ったのです。「義元討死」の報は大高城にいる家康のもとにも寄せられます。周囲の家臣らは家康に「義元は討死されたと聞きます。そうであるならばここを早々に引き払うがよろしいかと」と進言したとのこと(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作『三河物語』)。

静岡駅前に立つ徳川家康像、2025年8月
静岡駅前に立つ徳川家康像、2025年8月

大高城でぐずぐずしていたら、勢いに乗った織田方が来襲してくると家臣らは危ぶんだのです。ところが家康は次のように返答したと言います。

「たとえ義元が討死したとしても、確かなことはどこからも知らせが入っておらぬ。そうであるのにこの城から立ち退き、その後、義元戦死が嘘であったならば、二度と義元に顔向けできぬではないか。その上、この事が人々の噂となったならばここで命を永らえたとしても意味はない。よって確かな知らせがない限りはここを退いてはならん」と。

要はしっかりした情報が入らない限りは軽々に動かないぞということです。

しかし、そうこうするうちに、三河国刈屋城主の水野信元(家康の母・於大の方の異母兄)からの使者(浅井六之助道忠)が家康の前に現れます。そして「大高城に留まっているのは油断である。義元は討死した。よって明日には信長の軍勢がここにも押し寄せよう。今夜のうちに支度して早々にここから退かれよ。我らが案内しよう」との信元の言葉を伝えるのでした。

松平家の岡崎城をようやく奪回

信頼できる筋から情報が入ったことによって、ついに家康は大高城から退く決断をするのです。家康らは、かつては松平家の居城だったが今川家に取り上げられていた岡崎城下に入ります。が、岡崎城には未だ駿河衆がいたのですが、彼らは桶狭間の敗戦を聞き、早く撤退したいと思っていたようで、しばらくして本当に撤退してしまいます。それを知った家康は「捨て城ならば拾わん」と言い、やっと父祖の城である岡崎城に入ることになるのです。

家康は慎重さのみならず、積極性や果敢さもありました。今川義元は大高城に兵糧を入れることについて、重臣らを招集し、評議しますが、困難な仕事であったので自分がやりますと手を挙げる者はいませんでした。ところが家康はまだ若年ではありましたが、大高城への兵糧入れを請け負ったのです(『徳川実紀』)。

大高城への兵糧入れは成功しますが、それを知った人々は家康の武略の優れていることは、名将である祖父の松平清康に似ていると感嘆したとのこと。義元も「龍馬(優れた馬)の種が龍馬を生むとはこの事じゃ」と言い、家康を褒めたと言います。

静岡駅の竹千代(徳川家康)像と今川義元像、2025年8月
静岡駅の竹千代(徳川家康)像と今川義元像、2025年8月
生まれつきせっかちだった?

「豊臣兄弟!」に登場する家康は冷静沈着なキャラに見えますが『三河物語』には家康のことを「生まれつき、気のはやる殿」(生まれつきせっかちな殿)と記しています。慎重さは、過酷な人質生活や実戦経験の中で後天的に身につけた処世術だったのかもしれません。

さて、家康は少年時代に今川氏の人質となっていました。今川氏の前には尾張の織田氏の人質となっており、そのときに信長と知り合ったとドラマや歴史小説などでは描かれますが、そのことを示す史料はありません。

家康の今川氏のもとでの人質生活は苦難の連続だったと言いたいところですが、そうではなく、家康は義元から優遇されていました。そのことを象徴するのが今川一門・重臣である関口氏の娘(築山殿)を娶ったことでしょう(1557年)。家康は今川一門に准じる立場になったのです。

さて、桶狭間合戦により家康が仕えていた義元は死んだのですが、家康はすぐに今川と手切りした訳ではありません。今川方として織田方と戦っているのです。しかし家康はその後、今川氏真(義元の子)がいる駿府を訪れておらず(駿府には家康の妻子もおりました)、永禄3年(1561)の下半期には今川氏を見限っていたと言えるかもしれません。とにかくこの頃の家康は西三河を早く平定したいと懸命になっていたのです。

現在の岡崎城、愛知県岡崎市
現在の岡崎城、愛知県岡崎市、撮影=エヴリン・ローズ(写真=CC-Zero/Wikimedia Commons)
信長と和睦、清洲城で対面した?

永禄4年(1561)2月、家康は対立していた信長と和睦します。通説では家康が清洲の信長のもとを訪れ、同盟を結んだとされますが『三河物語』や『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)にはそうした「清洲同盟」に関する記述はありません。よって家康が清洲を訪れて信長と同盟を結んだという「清洲同盟」はなかったと思われます(もちろん、信長と家康が同盟を結んだことは事実ですが)。

今川氏との抗争が激しさを増しており、家康には岡崎を離れ清洲に赴く余裕はなかったはずです。しかし江戸時代の文献には家康が清洲を訪れて、信長と同盟したとの話が収載されています。例えば『武徳編年集成』もその1つです。

同書は寛保元年(1741)頃に幕臣・木村高敦により編纂された家康の伝記であり、8代将軍・徳川吉宗に献上されました。同書によると、家康は岡崎から酒井・石川・植村・天野・高力など「騎兵百余」を率いて清洲に赴いたとのこと。信長は家康を歓待するため、駅舎を修理。その間には茶店を設けて酒なども用意。道路もきれいに掃き清めます。その上で、林佐渡守や滝川一益などの家臣を熱田に遣わし、家康を迎えるのでした。

名古屋まつりでのNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」織田信長役・小栗旬(左)と豊臣秀長役・仲野太賀。2025年10月19日、名古屋市
名古屋まつりでのNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」織田信長役・小栗旬(左)と豊臣秀長役・仲野太賀。2025年10月19日、名古屋市
家康の小姓・本多忠勝vs織田家臣

家康は寺で休憩してから清洲城に向かうのですが、多くの者が家康一行を一目見んと蝟集いしゅうして(一カ所に集まって)いました。その雑然とした雰囲気に怒ったのが、同書によるとそのとき、14歳だった家康の小姓・本多忠勝です。

忠勝は「お前たち、このような猥みだりな振る舞いは何事ぞや」と怒ったので、諸士は「平伏」したと言います。信長は二の丸まで出迎えました。家康の近臣・植村新六郎家政は家康の佩刀を持って両者(信長と家康)が対面する本丸まで入ろうとするのですが、番兵はこれを咎とがめます。それに対し、植村は「元康(家康)の臣・植村という者なり。主君の刀を持ち来たることを何故に咎めるか」と荒々しく答えたのでした。

この問答を聞いていて喜んだのが信長でした。信長は老臣らに向かい「植村は誠に勇士なり。番兵が咎めたことは誤りだ」と述べたと言います(信長は気骨ある武士が大好きだったのです)。家康は席につくと、信長に一礼します。一方、信長は和議を家康が受け入れてくれたことはたいへん喜ばしいことであり、今後は両者が協力して「天下一統」すべきことを述べるのでした。

江戸時代に「盛られた」逸話なのか

さて、家康が清洲を訪れたことは『徳川実紀』(19世紀前半に編纂された徳川幕府の公式史書)にも記されていますが、そこにも信長は家康を「あつくもてなし」たとあります。さて『武徳編年集成』は貴重な史料との評価がある一方で誤りや「松平(徳川)中心史観」が認められると評されています。また『徳川実紀』も「将軍の事績を褒めすぎたのが欠点」と言われるように「徳川中心史観」の史料と言って良いでしょう。

そうした後世の二次史料に「清洲同盟」が記載されているのは興味深いことです。今回、見てきた2つの史料には清洲を訪れた家康を信長が篤くもてなしたとあります。要はあの信長に「神君」家康公は歓待されたのだということを主張しているのです。家康の清洲訪問(清洲同盟)が家康を箔付けする素材になっていると言えるでしょう。

「清洲同盟」の頃の秀吉は?

いわゆる「清洲同盟」が結ばれた時期の秀吉の織田家における立場というものはよく分かりません。秀吉が確かな史料にその名を現すのは永禄8年(1565)11月のことであり(松倉城主の坪内利定宛の知行安堵状に木下藤吉郎秀吉と副署)、この頃には信長に認められ、有力武将の1人になっていたと思われます。しかし、それ以前の秀吉の織田家におけるポジションについては、繰り返すようによく分からないのです。

「豊臣兄弟!」で描かれるこの時期、秀吉(そして弟の秀長)にとって、家康はおおげさに言えば「雲の上の存在」でした。のちに信長が本能寺で倒れ、天下の覇権を握った秀吉に家康が臣従することになりますが、その「逆転劇」の面白さを味わうためにも、この若き日の圧倒的な格差はドラマの見どころとなるでしょう。

参考文献
・小和田哲男「「武徳編年集成」の史的考察」(秋沢繁 他編『戦国大名論集12』吉川弘文館、1983年)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022年)

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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