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西加奈子、5年ぶりの長編小説! 二組の幼馴染の“傷”が交錯、言葉の暴力性に『きずもの』にされてもなお救いのような一作【書評】

  • 2026.9.30
きずもの 西加奈子 / 小学館
きずもの 西加奈子 / 小学館

誰しも、なんらかの傷を抱えて生きている。その傷は目に見えるものもあれば、見えないものもある。自身の傷を愛おしんで生きられる人ばかりではなく、少なくない人たちが傷を隠して「なかったこと」にする。だが、それは消えたわけではない。どうしようもなく揺るぎないものとして、その人の深部に横たわる。そういう傷が、私にもある。

初のノンフィクション『くもをさがす』(河出書房新社)が話題となった西加奈子氏が紡ぐ5年ぶりの長編小説『きずもの』(小学館)が、このたび上梓された。長年著者の作品を追い続けてきた私は、インパクトのある冒頭の一文にまず釘付けにされた。

引用----

“松川貢が木下遥に出会ったのは、彼の幼馴染が、自宅に火をつけようとした夜だった。”

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自宅に火をつける。何をどうしたら、そんな事態になるのか。仄暗い疑問を抱えたまま読み進めた先で、私は自身とは異なるジェンダーを持つ者特有の“生きづらさ”を目の当たりにした。

小説家の松川貢と、幼馴染の田持猛。二人の関係性に絡み合う形で、さまざまな人物の心象風景が映し出される本作は、“性”にまつわる描写が数多く登場する。特に貢が抱える性への渇望は、一見すると突出しているようにも思える。だが、そうなるに至った貢の圧迫された幼少期・青年期を鑑みれば、どこか納得してしまう。性への純粋な興味ではなく、むしろ支配欲や嗜虐心に近い。それに苛まれる貢は、不誠実ではあるのだろうが、悪人ではない。

消防士として働いていた猛は、訓練中の事故で腰を負傷し、退職を余儀なくされた。運動をすると腰が痛むため、体重はみるみる増加、さらに増えた体重が腰を圧迫するという悪循環を繰り返した。その後、妻の実家の援助で家を建てた彼は、自分のことを「男としてダメ」と卑下する。憧れの猛にそんな台詞を言わせる社会の風潮に、貢は憤りを覚える。

学生時代の猛は、スポーツ万能で人柄もよく、男女問わず好かれる存在だった。一方、貢は体格が華奢で、スポーツ全般が苦手で文学を愛する少年であった。一昔前、「オタク」という総称が蔑みの意味を持って使われた時代に、彼らは学生として生きた。長年にわたり猛を羨んできた貢だったが、大学卒業と同時期に貢が小説で文学賞を受賞したのを機に、周囲の評価は簡単にひっくり返る。

猛が自宅に火をつけようとした夜、貢が出会った木下遥は、「サイハイブーツ」を履いていた。貢は、サイハイブーツの堂々たる佇まいに怯み、その存在に「こっち来んなジジィ!」と言われているように錯覚する。だが、結論として貢は遥と関係を持つ。貢は結婚していたが、不特定多数との不倫が日常化していた。相手の多くは編集者、作家などの出版関係者である。貢はあくまでも相手と対等なやり取りを心がけ、決して強制しないよう気をつけていた。少なくとも、「彼の中」では。だが、遥はまったく別次元の存在で、二人は何度か身体を重ね、のちにドラッグの罪で逮捕された。

逮捕を機に、貢の不貞は明るみに出る。同時に、遥はSNSでの誹謗中傷に心を病み、静養期間を経てバンクーバーに住む幼馴染の万千花のもとに身を寄せた。遥と万千花の日常を通して描かれる風景は、私にとって貢たちのそれ以上に身近に感じられた。もちろん、バンクーバーには行ったことがない。外観的な風景ではなく、あくまでも心象風景のことである。彼女たちが女性だから、というだけではない。数年前まで社会課題に無関心だった自分と、さまざまな問題に気づきはじめ己を変えようと必死になる万千花の存在が、否応なしに重なった。

引用----

“そんじょそこらのナチュラルでは追いつけない。昨日今日身につけたリベラルでは、慌てて翻ったフェミニズムでは、最近になってやっと知った多様性では、決して追いつけない。”

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これは、遥がバンクーバーに抱く印象である。万千花はそんな街に馴染むべく「擬態している」と遥は思う。そして、そんな親友に対し、憤りに近い感情を持て余している。

貢の妻の頼子、頼子の友人であり貢の元カノの善恵、猛の妻の美咲も、本作の要所要所で語り部として登場する。本作に脇役はおらず、誰もが主人公であり、己の人生と真剣に取っ組み合っている。人生と、それに付随する無数の言葉たちと。

引用----

“我々は日々、なんと恐ろしいものを使っているのか。”

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貢が恐れ慄いたもの、私たちが日々当たり前のように使っているもの――「言葉」は、逃げても逃げても追ってくる。それは、表現者だけのものではない。生きるため、相手を刺すため、己を守るため、欲を満たすため、思いを伝えるため。私たちが使う言葉は、いとも容易く人を壊し、ときに救う。

引用----

“瘡蓋になって治りかけたら、また新しい傷が出来る、ということを繰り返している。”

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生きるとは、多分こういうことだ。言葉を扱うとは、こういうことだ。毎日飽きもせず悩み、戸惑い、「きずもの」の自分を愛す。その先の未来がどんなものか、誰にもわからない。わからないから生きるのだ。最期のときがくるまで。少なくとも私は、そうありたい。まだ、自分の傷を愛せない。でも、いつか愛せるようになればいい。クソったれな世の中に中指を立てた夜、同時に本作に出会えた私は、またしても命拾いをした。

文=碧月はる

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