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夏の歌だけど“太陽”より「夕方が似合う」ゆずが27年前に閉じ込めた季節の境目

  • 2026.9.17
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2014年2月、LIVE TALK on MTVに出演したゆず(C)SANKEI

 

今、ゆずと聞いて思い浮かぶのは、夏の始まりに誰もが口ずさむ『夏色』や、大舞台で何万人と合唱する『栄光の架橋』あたりだろうか。テレビの特番でも、球場でも、この二人の歌は大きな声で歌われる場面のほうが似合う。

だが当時、その手前にはもう少し小さな歌があった。夏の盛りを過ぎたころ、一人でこっそり聴き直すための一曲だ。皆で合唱する歌ではない。自分の部屋の窓を開けて、少し冷えた風といっしょに流す歌である。

ゆず『センチメンタル』(作詞・作曲:北川悠仁)ーー1999年8月18日発売

国民的な大ヒットの陰に隠れたまま、ファンのあいだでは夏の終わりの定番曲として聴かれ続けている。派手な光を浴びなかったぶん、聴いた人ひとりひとりの記憶にだけ濃く残った。その位置を、いまいちど測り直してみたい。

夏の盛りを過ぎた頃合いに鳴り出す

8月18日という日付が、この曲の輪郭をよく表している。海はまだ人であふれているのに、夕方の風だけが先に秋の匂いを運んでくる。そんな端境の時期に、通算6枚目のシングルとして世に出た。

作詞・作曲は北川悠仁。アコースティックギターの音が乾いた手触りのまま前に出て、ハーモニカが隙間を縫うように鳴る。言葉を持たないその音が、歌の合間でいちばんよくしゃべっているように聞こえる。静かな歌い出しから、サビで一気に視界が開く。その開き方が空へ突き抜けるというより、日が傾いた浜辺で息を大きく吸い込むような開き方に映るところに、この曲の夏がある。

盛夏の歌なら太陽をまっすぐ描けばいい。けれどここで鳴っているのは、終わりかけの光の中でようやく言葉になった気持ちの音だ。聴いた人がその年の夏の終わりをそっとこの曲に預けてしまうのは、歌が大声で夏を惜しまず、隣で同じ風に当たっているような距離で鳴るからだと感じる。

飾らないまま前に出る二つの声とギター

横浜の路上で歌ってきた二人。デビュー以降、そのそばで伴走者として音を形にしていったのが寺岡呼人だった。師弟のような関係が、初期の音の背景には静かに置かれている。

だからこの曲には、大きく飾らない佇まいがある。北川悠仁と岩沢厚治の声が重なるとき、二人の声そのものが編曲の中心にいることが分かる。楽器が主役を奪う瞬間はなく、ギターと声がそのまま前に出て、歌が終われば潔く引いていく。路上で足を止めてくれた人の、次の一歩を邪魔しない引き際に近い。

路上で人の足を止めていた鳴り方を、そのままスタジオに持ち込んだ音だと言ってもいい。装飾が少ないぶん、時代の音色に縛られない。古びないというより、最初から流行の側に立っていなかった。だから四半世紀を越えて再生しても、どの時代から来た音かを問われない。私有財産として長く手元に置けるのは、飾りが少なくて持ち運びやすいからだと、聴き直すたびに思い知らされる。

誰かの手元で今年の夏も終わる

いまこの曲がいちばん生きているのは、大きな会場ではなく、誰かの手元だ。ギター一本とハーモニカで弾き語る。歌い手も撮る場所もばらばらなのに、鳴らしているものは同じ。夏の終わりの、少し持て余した気持ちである。

皆で声を揃える歌は、人が集まる場所に呼ばれる。この曲は反対に、一人になった時間に呼ばれる。誰かに聴かせるためではなく、自分の一年を確かめるために、ギターを膝に乗せて鳴らす。その使われ方に、曲の本当の居場所を感じる。

歌い継がれるといっても、舞台で継がれる歌ばかりではない。窓辺で、駐車場で、帰省先の実家で、誰かの指が同じコードを押さえる。今年の夏が終わるときも、きっとどこかの手元でこの曲が鳴り、その人だけの夏を静かに閉じていく。


※この記事は執筆時点の情報に基づいています。

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