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大森時生『記憶の遺影』#23:嫉妬について。

  • 2026.8.26
大森時生『記憶の遺影』#23:嫉妬について。

僕は息を長く吐き、一度LINEのアプリケーションを閉じた。メッセージが長すぎてそこから先は「すべて見る」を押さないと続きが見られなかった。ホーム画面には、仕事の通知がいくつも溜まっていた。ソファにめり込むように座る。寝室の電気は消えていた。妻はもう寝ている。リビングには洗濯機の回る音だけが、壁の向こうから低く響いていた。我が家は夜中に乾燥をかける。ゴウン、ゴウン、ゴウン、と一定の間隔で鳴って、ときどき中のタオルが片寄るのか、ドン、と少し大きな音がする。そのたびに妻が起きたのではないかと思って寝室の方を見る。

テーブルの上に「ちいかわ」のシールが置いてある。「うさぎ」だけがはがされていて、「ちいかわ」と「ハチワレ」が僕のことを見ている。妻はうさぎだけが欲しかったのだろうか。僕の記憶を改めて遡る。僕の記憶では、サツキは先輩の方を見ていた。

「あなたを許すことはない」そう言った。僕は隣に立っていた。だから、その場面を覚えている。それだけだった。

冷蔵庫がブーンと低く鳴り始めた。家電は勝手に動く。深夜に人間の目を盗むみたいに動き始める。冷蔵庫は冷やし、洗濯機は洗い、エアコンは設定された温度に近づける、BDレコーダーはデータを整理して必要な容量を空ける。こちらが寝ていても、忘れていても、決められたことを続ける。僕は「すべて見る」を押した。

部屋から出なくなったのは、そのあとでしたね。サツキが。順番だけは、間違えないようにしておきたいと思います。私たちに彼女が「許さない」と言った。彼女は病院に行った。学校に来なくなった。部屋から出なくなった。たしか、そういう順番だったと思います。

だからといって私たちが原因だった、と言いたいわけではありません。そういう単純な因果関係にしてしまうことも、結局は彼女が嫌がっていたことと同じでしょうから。それが自己保身のために後から用意したエクスキューズなのか、本当に当時からそう思っていたのか、今となってはもう見分けがつきません。時が流れるということは、そういうことなのかもしれない。記憶の中にあった温度や匂いや、そのとき一瞬だけ浮かんだ感情や、言葉にする前の躊躇みたいなものが、長い時間をかけてZIPファイルのように圧縮されていく。

残るのは「何が起きた」「だからこう思った」という論理的な筋道だけで、その周囲にあった無数の情報はどこかへ消えてしまう。2ギガもあったはずのものが何百メガバイトになって、それでもファイル自体は問題なく開ける。だから私たちは、それが完全な記憶だと思ってしまう。軽くなった分が、どこへ行ったのかはわからない。消えたのか、別の場所に保存されているのか、それとも圧縮されたまま、もう二度と展開できなくなっているだけなのか。そんなことをつい考えてしまいます。

すみません。今書いていて、また話が逸れました。患者の話に戻ります。彼女(こちらもサツキなのがややこしいですが)のもとに吐き気が訪れるようになったのは、隣に家族が越してきてからだと言いましたよね。

「その家族と何かありましたか」

「何もないです」

何もない、と彼女はすぐに答えました。こういう言葉を患者から聞くと、ついその意味を取りにいきたくなります。何もない、とは具体的にどういうことなのか。何かあるはずなのに本人が認識できていないのではないか。その回答の早さに意味を見出してしまいます。

何もない。でもきっかけは隣に一家が引っ越してきたこと。それは間違いない。そしてより正確にいうと、その娘の河野純が原因のようでした。美しくて、可憐で、調律がとれた女の子。その純と夫との関係。こう書くと、まるで彼女が最初から、純と夫の関係に違和感をもち、それが吐き気につながっていると自覚していたように読めるかもしれません。

でも実際の診察は、そんなに整理されたものではありませんでした。彼女の話はもっとぐちゃぐちゃで、シュレッターで裁断された紙からB4の資料を再現するようなものです。夫の話をしていたかと思えば、急に義父の話になり、そこから家の間取りの話になり、冷蔵庫の中で腐らせたキャベツの話になり、また河野家に戻る。

純について尋ねると「別に関係ないです」と言うのに、十分後には純の髪の毛の色について異様なほど(それはもう執拗に)細かく説明する。吐き気について聞けば、「朝が多い」と答えた直後に、それから「純ちゃんと会った朝というわけではないです」と、こちらがまだ聞いてもいないことを否定する。そういう断片を何度も行き来しました。

だから、私が「夫と純の距離が縮まっていくこと」と「吐き気」の間に何らかの関係があるのではないかと考えるまでには、かなり時間がかかりました。彼女自身も、それを認めることを避けていたのだと思います。むしろ、もっとも関係ないことにしたかったのでしょう。

僕が一度「嫉妬」というフレーズを使ったときは、烈火のごとく怒り、そして静かに泣きました。むしろ彼女が何度も繰り返し話したのは、何も起きていないということでした。そして、そのときにようやく私は気づきました。彼女は自分の症状の原因を正確に把握している。その形状や大きさ、触り心地に至るまで、全てを知っている。そしてその結論を覆すために、私のところに来ているのだと。

profile

大森時生

おおもり・ときお/1995年生まれ、東京都出身。2019年にテレビ東京へ入社。『イシナガキクエを探しています』『魔法少女山田』といったフェイクドキュメンタリーシリーズ『TXQ FICTION』などを担当。展覧会「行方不明展」「恐怖心展」も手がける。2023年「世界を変える30歳未満 Forbes JAPAN 30 UNDER 30」に選出。

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