1. トップ
  2. エピソード
  3. 町田康『家事にかまけて』最終回:家事をなめんなよ

町田康『家事にかまけて』最終回:家事をなめんなよ

  • 2026.6.26
掃除機をかけるイラスト

知り合いから、「今度、集まりがあるから来ないか」と誘われる。誘われること自体は嬉しい。仲間外れは嫌だ。そんな集まりがあって、自分だけ誘われなかったということが後でわかったら傷つく。傷ついて、落ち込んで、泣き濡れて、蟹かまぼこを多食してしまう。なので、声を掛けてくれてありがとう、とすら思う。

だが出席するかどうかになると話は別だ。なぜなら人と会うと気を遣うし、電車に乗ると疲れるし、途中で睡くなっても寝られないし、出かける二時間前に空腹になっても、今、食べたら向こうで食べられないので、我慢して出かけていって、でも行ったら行ったで、なんだか胸が一杯であまり食べられず、そのまま帰宅してしまい、でも家に何も食べるものがなくて仕方なく、猿の真似をして空腹を紛らわせて床に就くのだが空腹で眠れず仕方なく、また服を着てコンビニに行ってつまらぬものを買って食べ、翌日はずっと胃が重い、なんてことがないとは限らないからだ。

或いは、「こんな仕事があるのだがやってみる気はないか」と声をかけてくださる方がいらっしゃる。こんなありがたいことはない。なぜなら、他に有能な同業者が仰山いてる中、無能な自分に、「あんな奴でも少しは取り柄があるから」と思し召し、又、「アレにも生活があるから」と考えてくださる、その優しさが骨身に染みるから。

だがその仕事を引き受けるかどうかとなると話は又、別だ。なぜなら今、現在、受けている仕事があり、それがまだ終わっていないからだ。にもかかわず、声がかかったら、今現在、対応している客を置き去りにして、「はーい」など言って、太客のところへ行ってしまうのは不誠実だと思うからだ。行くなら、今やっていることの埒を明けてから行くべきだ。それに仕事をすると、やはり疲れてしまうし。やはりなんだかんだ言って極度の疲労は健康によくなく、天が二物を与えないとすればやはり健康を選択すべきで、それなら仕事は可能な範囲内に留めて、それ以外の時間は横になり、スマホで漫才を見たり、おいしい茶を淹れて菓子をつまんだりしている方がよいような気がする。

と言う訳で、遊びの誘いも、仕事の依頼もお断りする。

そしてその際、問題になるのは、いったい何と言って断るか、である。というのは、「いやさ、面倒くさいから行きませんわ」とか、「いやー、別の仕事あるから無理っすわ。そっちの方がギャラ高いし」などとむき出しの真実を述べた場合どうなるか、という問題である。

勿論、その場合、相手は鼻白み、或いはもう怒り、「あんな奴、二度と声かけんとこ」という事になるのであり、当然の如くそれは避けたい。

ならばどうすればよいか。解決法は、断るという決断に至った合理的理由の作成である。そしてそれは簡潔であればあるほどよい。つまり、朝起きたら枕元に火星人が座っていて……、といった込み入った物語ではなく、例えば、実は身内に不幸があって……、などと一言で済ますことができるものが良い。なぜならそれらは何れも嘘、というのが言いすぎであれば、真の理由ではないのであり、物語にすればするほど真の理由からかけ離れていき、相手に見抜かれ易くなるからである。

そうするともう答えは簡単だ。「生憎とその日は用があって……」と言えばよいのだ。かつて金丸信という保守政治家は日銀の金融政策を巡って「内閣総理大臣はalmightyだ」と豪語した。議会政治に於いてこれは正しくはないが、「その日は用があって」はalmightyである。ただ問題はなくはない。どこに問題があるかというと具体性がない点だ。

なので言われた方は、「都合良く、用、などと言っているが嘘かも知れん。本当は面倒くさいだけで用などなく、家でYouTube動画を見ているだけかも知れん」などと謂れない疑いを掛けられ、「今後はかかわらないようにしよう」と思われる可能性がある。

それを避けるためには具体的にどんな用があるかを告げる必要性がある。例えば、「すんません、その日の夕方までに瓦煎餅六百枚焼きやんとあきませんねん」とか、「すんません。豚が仔ぉ産みよりまして」といった具体性である。そしてそれは端的であればあるほど説得性を増す。「集中して取り組まないといけない仕事を抱えていて」と言うよりは、「明日の午前三時に犬吠埼集合ですねん」と言った方がよいのである。

しかしその際も注意しなければならないことがひとつある。それは、それが家事であってはならない、ということた。と言うと、「いや、そんなことないでしょう」と思うかも知れないが、そうではない。論より証拠、実際にやってみよう。例えば、「すまみせん。その日、洗濯せんとあきませんねん」と言ったらどうなるだろうか。直接言うか、内心で思うだけかどうかは別として、「前日か翌日でええやんか」となる。「スズメバチの駆除せなあきませんねん」と言ったらどうなるだろうか。「業者、呼べや」となる。

以下、椅子の修理せんとあきませんねん→「修理屋に持っていけ」窓拭きせなあきませんねん→「別の日じゃダメ?」猫のブラッシングがありまして→「なめてんの?」電球を交換したいんです→「一瞬で終わると思うんだけど」衣更えがしたくて→「今、八月(十二月)だけど」急須が汚れてて→「なめてんの?」アイロン掛けしたいんっすよね→「なめてんの」靴磨き、最近やってないなあ、って→「なめてんの」と言った具合で、家事を理由に断ると、結句、相手は自分をなめているのか、と思ってしまう。

なぜそうなるかというと、大体の人が家事をなめているからである。

なので、この俺の誘いよりも家事如きを優先するのか。つまり俺をなめているのか?と怒るのである。

ワークライフバランスという考え方が最近流行っていると聞く。つまりどう云う事かと言うと、昔は仕事を何よりも優先し、私生活を犠牲にしてきたが、それだと人生つまらぬし、長生きも出来なさそうだから、そのバランスを見直し、もっと私生活を前面に押し出していこう、という考え方らしい。おほほ。と思う。

そんな風潮も相俟って、積極的に家事をすると婦人に好感を持たれ、取り囲まれてチヤホヤされるかなあ、という思想の元、俺は家事をけっこうやって、仕事をかなり蔑ろにし、その様子をこの稿に綴ってきた。それは方向性としては間違っていなかったといまでも信じているが、結果はあまり出ていない。

しかしまあ、継続は力なり、と言う。今後も大いに仕事を蔑ろにして家事をやっていこうと思う。そして、先ず隗より始めよ。誘いや依頼を断る際も、「米を買いに行かなければならない」とか「排水管のヌメリをとりたいんで」といった具体性を付与して口実とすることにしようと強く思おうかなと思う。そして又、梵我一如という思想もある。

家事か仕事か、ではなく、ひとりの人間の内においてそれは表裏一体のものであり、どちらが優、どちらが劣、とか、どちらが先でどちらが後ではないのではないだろうか。そのあたり、「おまえはいったいどう思う?」と、答えないのを知りながら布団に座って先程からこちらを凝視している愚猫に問うたところ、あたり前のことを言うな。という顔をして横を向いた。

profile

町田康

まちだ・こう/1962年、大阪府生まれ。作家。『くっすん大黒』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞、「きれぎれ」で芥川賞、『告白』で谷崎潤一郎賞、『宿屋めぐり』で野間文芸賞など受賞多数。他の著書に「猫にかまけて」シリーズ、『しらふで生きる』『口訳 古事記』『俺の文章修行』『口訳 太平記 ラブ&ピース』など。

元記事で読む
次の記事
の記事をもっとみる