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ワールドカップに優勝したことがない「5人の偉大なる伝説プレーヤー」

  • 2026.7.17

FIFAワールドカップは、世界で最も人気があるスポーツにおいて、あらゆる選手が求めているトロフィー。サッカー界を彩ってきた偉大なスターでさえ、なかなか手が届くものではないのだ。

今回は『Football Faithful』から「キャリアを通してワールドカップ優勝を果たせなかった5人の伝説的サッカー選手」をご紹介する。

ヨハン・クライフ(オランダ)

ヨハン・クライフは、単なる名選手ではなかった。彼はサッカーというスポーツが生んだ、最も影響力のある人物の一人だといえる。

そのインテリジェンス、動き、そして技術的な想像力はサッカーの概念を塗り替え、「トータル・フットボール」という現代サッカーの礎となった戦術を作り上げた。また、後の監督としての活動はバルセロナの現代的なアイデンティティを形作った。

しかし、ワールドカップ(WC)だけは、彼が手にすることができなかった唯一無二のトロフィーとして残っている。

クライフが最も頂点に近づいたのは1974年だ。世界を熱狂させたオランダ代表は西ドイツとの決勝に進出し、相手が一度もボールに触れる前に先制点を奪ってみせた。しかし、その後逆転を許して1-2で敗北。これは今なおオランダサッカー史上「最も痛恨の敗戦」として語り継がれている。

そして4年後、オランダは再び決勝の舞台に立つが、そこにクライフの姿はなかった。1977年、バルセロナで家族とともに誘拐未遂事件に遭ったことをきっかけに代表引退を決意していたからだ。彼を欠いたオランダは、またもや最後のハードルとなったアルゼンチンに屈した。

監督としても大きな成功を収めたものの、協会内の政治的緊張もあってついに母国の代表を指揮することはなかった。

アルフレド・ディ・ステファノ(アルゼンチン/スペイン/コロンビア)

ディ・ステファノのW杯にまつわる物語は、おそらく最も奇妙なものだろう。同世代で最高の選手の一人であり、キャリアを通じて3つの異なる代表チームでプレーしながら、レアル・マドリーのレジェンドは一度も本大会のピッチに立つことができなかった。

ディ・ステファノはまずアルゼンチン代表としてデビューし、6キャップを記録して1947年の南米選手権優勝に貢献した。

しかし、その後のキャリアは複雑化する。コロンビアへ渡り、当時FIFAに公認されていなかった選抜チームでプレーしたことで、他国の代表として公式戦に出場することを禁じられてしまったのだ。

1956年にスペイン国籍を取得し、ようやくスペイン代表としての出場権を得た。当時の彼はすでに欧州のクラブサッカー界を支配する存在であり、レアル・マドリーをチャンピオンズカップ5連覇に導き、クラブを世界的な巨像へと変貌させた象徴だった。

31歳になった彼は、1962年のチリWC予選でスペインを本大会へと導く。フットボール史上最も完成された選手が、ついに世界最高の舞台に現れる瞬間が来たはずだった。しかし、大会直前の怪我がすべてを台無しにした。

彼はチームに同行したものの、プレーすることは叶わなかった。欧州を征服した男が、WCでは1分もプレーできなかった。

パオロ・マルディーニ(イタリア)

マルディーニは、しばしば「守備者の模範」と評される。エレガントで知的、沈着冷静であり、1対1で彼を抜くことは不可能に近いとさえ言われた。ACミランでの20年以上のキャリアで、7度のセリエA制覇と5度の欧州制覇を成し遂げた。

しかし、イタリア代表としてのWCは、彼に幾度となく悲劇をもたらした。

1990年の自国開催大会でWCデビュー。アッズーリは無失点で準決勝まで勝ち進んだが、ナポリの地でアルゼンチンにPK戦の末に敗れ、夢は絶たれた。4年後のアメリカ大会でも、マルディーニはさらに重要な役割を担い決勝へ進出する。

ロベルト・バッジョの輝きと堅守を武器にした1994年大会。左サイドバックとセンターバックの両方をこなすマルディーニはその中心にいた。ブラジルとの決勝は120分を戦ってスコアレスとなり、そしてまたしてもPK戦でイタリアは涙を呑んだ。

さらに、1998年も同じ運命が待っていた。開催国フランスにPK戦で敗退。マルディーニは3大会連続でPK戦によって姿を消すことになった。そして2002年。議論を呼んだ韓国戦での敗退を最後に、彼は代表ユニフォームを脱いだ。

その4年後、イタリアはドイツの地でWCを制覇した。誰よりもあのトロフィーに相応しい選手だったが、タイミングとPK戦の呪縛が彼のタイトルを奪い去ったのだ。

フェレンツ・プスカシュ(ハンガリー/スペイン)

プスカシュは、W杯を勝ち取れなかった「史上最強」チームのリーダーだった。1954年大会、伝説的なハンガリー代表の黄金世代「マジック・マジャール」は、数年間にわたって世界を支配し、圧倒的な本命としてスイスに乗り込んだ。

プスカシュたちは攻撃に革命を起こしていた。その流動的な動きとパスワーク、戦術的柔軟性は、当時の常識を遥かに超えていた。W杯でも快進撃を続け、難なく決勝に駒を進める。

そして、その相手はグループステージで8-3と大勝していた西ドイツ。決勝でも開始8分で2点を先行し、誰もがハンガリーの優勝を疑わなかった。しかし、西ドイツの猛反撃に遭い同点に追いつかれると、試合終盤にヘルムート・ラーンに決勝点を許した。

2-3の逆転劇は、ドイツでは「ベルンの奇跡」と呼ばれ、ハンガリーでは国家的な悲劇となった。それは、あの黄金世代にとって最後のビッグトーナメントとなった。

1956年のハンガリー動乱後、プスカシュは帰国を拒否してスペインへと亡命し、レアル・マドリーに加入。そこで3度の欧州制覇を成し遂げ、クラブ史上屈指のスコアラーとなった。後にスペイン代表として1962年大会にも出場したが、かつてのハンガリーの夢が再び戻ることはなかった。

クリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル)

画像: (C)Getty Images
(C)Getty Images

クリスティーアーノ・ロナウドは、史上最も多くの栄光を手にしたフットボール選手の一人として、そのW杯での歩みを終えることになった。だが、誰よりも欲したあのトロフィーだけは、その手に収まらなかった。

6つの大会を通じて、ロナウドは重要なゴールを決め、記録を塗り替え、ポルトガルサッカーの顔であり続けた。イングランド、スペイン、イタリアでリーグを制し、5度のチャンピオンズリーグ制覇、複数のバロンドール獲得、そしてキャプテンとしてEURO2016の優勝を手にした。

しかし、ワールドカップだけは別物だった。最も頂点に近づいたのは、当時21歳だった2006年大会である。準決勝に進出したものの、ジネディーヌ・ジダンのPKによりフランスに敗れた。それ以降、ロナウドを擁するポルトガルがベスト4の舞台に帰ってくることはなかった。

その後の大会は、2010年と2018年はベスト16、2014年はグループステージ敗退、2022年は準々決勝で姿を消した。そして、41歳で迎えた2026年大会。最後の挑戦となったこの大会でも、ポルトガルはノックアウトステージまで進んだもののスペインに敗退。6度の挑戦に及んだ壮大な旅路は幕を閉じた。

W杯のメダルがないという事実だけが、ほぼすべてを手に入れた彼のキャリアにおける唯一の喪失として残り続けるだろう。

※選出基準は、各選手の実績に基づきながら筆者またはメディアの主観的判断も含んでおります。

筆者:石井彰(編集部)
画像提供:Getty Images

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