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作家・滝口悠生が読む、釣り文芸の古典『オーパ!』

  • 2026.6.30
『オーパ! 』中面 開高健/著

“待つ時間”を起点に立ち上がるアマゾン川で釣りをすること

『オーパ!』 開高健

無類の釣り好きで、事あるごとに著書でその愛を表出させてきた作家の開高健。代表作の一つが1977年にブラジル・アマゾン川流域へと赴き、釣りをしながら旅した60日間を綴る『オーパ!』だ。この傑作ルポルタージュから浮かび上がる釣りの本質とは。自らも小説『水平線』の中で釣りの場面を象徴的に描いた滝口悠生さんが解き明かした。

『オーパ! 』開高健/著
開高健/著、高橋曻/写真。1977年に著者が大河アマゾンを旅したルポルタージュ。ポルトガル語で感嘆を表す“オーパ!”のタイトルの通り、殺し屋ピラーニャ、淡水最大の巨魚ピラルクー、黄金の魚ドラドなど、そこは名、怪、珍、奇な驚きの魚の宝庫だった。集英社文庫/1,650円。

僕自身は今は釣りはやらないんですが、子供の頃は、八丈島に暮らす祖父と一緒に港で海に釣り糸を垂らしていました。場所を変えたり、複雑な仕掛けを施したりもせず、運良く魚の群れがやってくれば釣れることもあるし、そうでなければただぼーっと座っているだけ。暇つぶしみたいな漫然とした遊びでしたが、それでも心に刻まれたのは“待つ”時間です。

釣りは、一見主体的な行為にも思えますが、結局は魚がエサに食いつくのを待つ、受動的なものでもありますよね。熱心な釣り人なら、水中にさまざまな働きかけをするのかもしれませんが、それでも釣りをしている時間の大半は待つ状態です。そんな行為はほかになくて面白い。その感覚は『オーパ!』を読んで、再確認することとなりました。

一部始終の描写ではなく、経験の総体から語られる

本作は、開高健がブラジル・アマゾン川流域の1万6000kmもの距離を旅した記録です。丸腰のままに未知の領域にズカズカと足を踏み入れていくような大胆さは、情報が簡単に手に入る今の時代に読み返すと新鮮で。1977年当時の日本人にとって異国とはどういう存在であったかも垣間見えます。

そしてもちろん、この旅の揺るがざる主目的は釣り。ですが特筆すべきは、具体的な日付や時間に紐づく直接的な釣りの描写がほとんどないことです。一般的に釣りのハイライトといえば、目的の獲物に狙いを定め、糸に掛かった個体と格闘しながら釣り上げる一部始終でしょう。もし小説であれば、そういう部分が書かれると思う。

でもそれに代わって、本作の大部分を占めるのは、目的地に向かうまでの船上の様子や、交わされた会話、現地の釣りのスタイルへの考察、生息する魚の生態、そして彼が生身の体で実感した痛みや痒(かゆ)み、暑さにまつわるエピソードです。“アマゾン川で釣りをするとはどういうことか”。その経験の総体が、開高らしいフィジカルを通した描写とともに語られるところが面白いんです。

『オーパ! 』中面 開高健/著

そしてこうしたテキストの産出元こそが、彼が釣りの最中に得た、“待つ時間”なのではないかと感じました。例えば第二章「死はわが職業」のテーマは、アマゾン川の至るところに生息する肉食のピラニア(文中では、ピラーニャ)です。その獰猛さを目にした実体験はもちろん、ピラーニャの鋭利な歯を砕いてみた考察、そして彼らの意外な弱点まで、あらゆる側面から分析されるんです。

かと思えば、「まだ分からないことも多い」としてその捉え難さを実感していることにもリアリティがある。そこからは、著者がこの恐怖の対象と隣り合わせで長い時間を過ごし、思考を巡らした跡が窺えて、それはまさにそこに身を置いて待つ時間に考えられたことだったのだろうと想像します。

獲物が掛かるまでの間、釣り人たちは茫洋とした水面を眺め続けながら、その下に“いるかもしれない”魚のことを考えます。目に見えないものを見ようと試み、水面に生まれたわずかな変化を、過度に読み取ろうとする。そういう時間にこそ研ぎ澄まされていく想像力や洞察力がたしかにあるのだと思います。

profile

滝口悠生(作家)

たきぐち・ゆうしょう/1982年東京都生まれ。2016年には「死んでいない者」で第154回芥川賞を受賞。近年の代表作に『長い一日』(講談社)、『水平線』(新潮社)がある。

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