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大森時生『記憶の遺影』#16:蒸気(Vapor)について。

  • 2026.5.11
川辺に立つ大森時生の写真

彼女の吐き気は、急に来るものではなかった。タバコの匂いの中に沈み込んだタクシーで酔ったときみたいに、ある地点から一気にせり上がってくるのではない。

朝のうちは、ただ喉の奥に薄い膜が一枚張っている感じがするだけだった。でもその膜は微妙な表面張力で支えられていて、歯を磨くと、その膜が少し揺れる。歯磨き粉が生成する白い泡が、もっと奥、喉と胃のあいだの細い場所にひっかかる。

口をゆすいでもそれは消えなくて、急に泣きたくなる。泣きたくなったことで、高校生のころ友人が急に亡くなったことを思い出す。葬式の匂いは嫌いだ。

膜は、昼前になると少し厚くなる。昼を過ぎるころには、不吉な雲みたいに増長する。

片田舎で育った私にはわかる。この雲は大雨の前兆だ。あの雲が出てきたあとはなすすべがない。目を瞑って過ぎ去るのを待って、過ぎ去るのを待つしかない。

雲の写真

彼女はだいたい毎朝9時きっかりに湯を沸かしていた。紅茶を飲むためだ。ガラス製のポットの蓋を開けて、茶葉を落とす。電気ケトルの底がかすかに鳴り、やがて白い蒸気が立つ。お湯を注ぐ。ダージリンティー。

最初はただの乾いた欠片だったものが、湯を吸うにつれて、イソギンチャクみたいに中心からぬるく膨らみ、細い腕を何本もひろげる。何かを捕食するみたいだ。静かな生態を見守る。白湯はあっという間に色づき、美しい瞳を連想する。

そして海辺に沈む太陽を想像する。瀬戸内海の静かな海。このごろ自分の故郷のことを考える時間が増えている。その理由はわからない。

蒸気はいつもまっすぐには上がらない。窓の方へ行くのかと思うと、途中であきらめたみたいに薄まり、換気扇の吸い込みに負ける。その曖昧な立ちのぼり方を見るだけで、だめな日があった。見ているうちに自分の中で食道がそういう動きをしていることを想像してしまう。つまり、吐きそうだ。吐くことができない。綺麗に吐くことを夢見る。

10時00分。パソコンを開く。いまだにWindows10を使っている。録音データの一覧が出る。数字と記号だけのファイル名。
日付。案件番号。仮納品。修正版。最終。最終2。完全決定版。完全決定版_修正_0222。

こんな案件でもこんなに修正する必要があるんだなあ、と思う。揶揄する意図はなくて本当にそう思った。中年の男が、少し鼻をすすってから、小さな咳を挟み込んで「それでは定刻になりましたので」と言う。音質は悪くて盗み聞きしているみたいな音だ。

最初のきっかけが何だったのか、どのタイミングからこの吐き気が顕現したのかは覚えていない。さらにいうとある日ドラスティックに発生したものでもない。それはグラデーションで気づいたら彼女のもとに訪れていた。
やあ、こんにちは。そんな挨拶はなく病理は気づいたら彼女と共にあった。

「こういう問診は側から見たらとても奇妙に見えると思います」
先輩は老猫みたいに目を細めた。猫は死ぬ前には目を細める回数が増えると聞いたことがある。

「どこからが症状で、どこからが生活で、どこからが比喩なのか、線を引きながら聞いていく。その線引きには繰り返しの質問が必要です。私がいま過去にあったことを再構築しているので、一本のストーリーのように聞こえると思いますが、実際はバラバラのアナグラムのようにそれは提示されます」

車のヘッドライトが濡れた道路の上で揺れている。光が滲んでいる。
「彼女の場合は他の患者とは少しばかり異なりました」

先輩はそう続けた。先輩はそう言って、少し黙った。黙るときも、彼は黙る準備みたいなものをする。紅茶のカップに指を添えて、すぐには持ち上げず、ほんの一拍だけ置いてからゆっくりと口に運ぶ。そういう小さな予備動作がある。

「何が変だったんですか?」

「ひとつの問いに対して、毎回少しずつ違う入り口から答えるんです。吐き気はいつから始まりましたか、と聞くでしょう。すると最初は、春先から、みたいな答えが返る。でも次の週に同じことを聞くと、隣の家が越してきてから、と言う。さらにその次には、夫が家でよく水平器を持ち出してからかもしれない、と言う。どれも嘘をついている感じはないんです。ただ、どれも少しずつ違う。

つまり、決定的に他の人たちと異なるのは、ねじれ方なんです。認知が歪んでいるわけではない。正しい認知の中で進んでいきます。ただ急速に巻き戻り、違う入り口から同じ場所を目指す。牛の反芻をいつも思い出してました。一度飲み込んだものをもう一度噛み締める。

牛の身体に明るくないのでその理由は定かではないですが。その話をしがみたいのか、もしくは巧妙に話したくない部分があってそれを隠しているのか。でもそのどちらにも見えません。ただただ自然な成り行きでそうなっているように見える。一般的に嘔吐を繰り返す人のそれとは決定的に異なっていました」

避けているというより、そこを中心にして、違う円を何度も描いている感じだ、先輩はそう言った——水は同じところへ落ちていくのに、表面だけは毎回少し違う渦になる。

先輩はそう話しながら、これからの話の紡ぎ方を再構成しているのだろう、そんな顔をしていた。そしてこう続けた。

「きっかけは隣の家に核家族が引っ越してきたことでした」

profile

大森時生

おおもり・ときお/1995年生まれ、東京都出身。2019年にテレビ東京へ入社。『イシナガキクエを探しています』『魔法少女山田』といったフェイクドキュメンタリーシリーズ『TXQ FICTION』などを担当。展覧会「行方不明展」「恐怖心展」も手がける。2023年「世界を変える30歳未満 Forbes JAPAN 30 UNDER 30」に選出。

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