1. トップ
  2. 「意味はない、秘密はある」土門蘭(文筆家)

「意味はない、秘密はある」土門蘭(文筆家)

  • 2026.6.9

編集部注目の書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回寄稿いただいたのは、文筆家・土門蘭さん。話題の新刊『ほんとうのことを書く練習 「わたしの言葉」で他者とつながる文章術』の帯に書かれた一文「まず、誰にも見せない文をノートに」のような、「誰にも見せない◯◯」シリーズは他にもあるとか。自分だけの密かな楽しみについて教えていただきました。

先日、新刊のプロモーションで、あるラジオに出演した。その帰り、担当編集のKさんと広報のHさんとともに、お茶をしようとカフェに入った。
私はHさんと隣同士で座り、一緒にメニュー表を覗き込んだ。「このパンケーキ、おいしそうですね」「これとこれ、どっちにするか悩んでます」などと言いながら、メニュー表をあれこれ指差す。
すると、正面に座っているKさんが「ネイル、いいですね」と言った。メニュー表の上の私の爪は赤、Hさんの爪はピンクに塗られている。私たちは爪を褒められて、顔を見合わせてニコニコした。

「ネイルって楽しそうですよね」
と、Kさんが言った。
「楽しいですよ。Kさんもしてみたらどうですか?」
すると彼は驚いた顔をして「いやいや、僕がしたら変でしょう」と笑う。
「変じゃないですよ」
Hさんと私が同時にそう言った。Kさんが「ハモりましたね」とまた笑った。

でも確かに、最近では美容に取り組む男性が増えてきたとはいえ、ネイルをしている男性はあまり見ない。そんな中、ネイルを始めるのはハードルが高いだろう。
「塗るとしたらどんな色がいいですか?」
そう聞くとKさんはちょっと考え込んで「土門さんが今塗っているような、深い赤とかいいなって思います」と言った。
「じゃあ、まずは足の爪にマニキュアを塗るのはどうですか? 誰にも見せないネイル。靴下を脱ぐ時、自分ひとりで眺めて楽しむんです」
するとKさんは「なるほど」と納得しつつ、「でも家族が見たらびっくりしないかな」と呟いた。

Kさんと作った本は『ほんとうのことを書く練習』というタイトルだ。
帯には「まず、誰にも見せない文をノートに」と書かれている。他者の評価やリアクションに左右されず、自分ならではの文章を書くために、まずは誰にも読ませない文章を書きましょうと、この本の中で書いた。
ネイルの話をしながら「『誰にも見せないマニキュアを爪に』ですね」と言った。そうしていたらパンケーキが届いて、私たちは歓声をあげた。

「誰にも見せない◯◯」シリーズは他にもある

改めて考えると、私には他にも「誰にも見せない◯◯」シリーズがある。
誰にも見せない文(日記)を筆頭に、誰にも見せないネイル(足の爪)、誰にも見せない雑貨(サンリオやセーラームーンのグッズ集め)、誰にも聞かせない歌(一人カラオケ)などなど。

ここ数年はそこに、「誰にも嗅がせない香水」シリーズも追加された。私は香水が好きで何本か集めているのだが、それらをつけて人に会うことはない。つけるのは、一人で家にいる時だけ。そう言うと友達に「意味なくない?」とびっくりされたのだが、確かに意味はないかもしれない。

誰にも会わない日は、どんな香りを纏おうかとウキウキする。自分の気分や調子と話し合い、コレクションから選び出す。TPOや会う相手の趣味、似合うかどうか、つけすぎかどうかなんてことは、考えなくていい。ゴージャスな薔薇の香り、心静まる白檀の香り、フレッシュなオレンジの香り、とことん甘いバニラの香り……本当に自分が嗅ぎたい香りを身につけられた時、呼吸が深くなり、幸せな気持ちになる。
新しい香りに挑戦して、失敗することもよくある。でも、それすらもおもしろい。感覚を思う存分稼働させる一人遊び。その間、ささやかな自由を感じる。

私だけの秘密が、ここにある。

以前は、こんな遊びはしなかった。
誰にも見せない日記だけは長年書き続けていたけれど、誰にも見せないものを買うのはもったいないと思っていた。他人に見られる格好や持ち物にこそお金を使うべきで、自分ひとりが楽しむものはちょっとでいい。それこそ、人に見られないのに「意味なくない?」と、自分で自分に言い続けていたのだ。

だけどある時、夜空のような色のマニキュアに一目惚れした。深い紺色に、キラキラしたラメが散りばめられている。私の指にもファッションにも似合わないと思ったが、あまりに綺麗なので買ってしまった。無駄遣いをしてしまっただろうかと少し後悔して、とりあえず人に見られない足の爪に塗ってみようと思った。
夜、お風呂上がりに塗ってみた。10個の爪は見慣れない様相になったが、光を当てると小さく輝いて、それぞれ小さな宇宙のようだった。足の指を曲げたり伸ばしたりして、私は塗り立ての爪を愛でる。そのときふと「秘密を持った」と思った。

このキラキラ光る爪は、誰の目にも留まらない。誰にも褒められないし、誰の記憶にも残らない。そういう視点で見ると、確かに意味はないだろう。だけど、秘密はある。私だけの秘密が、ここにある。
そう気づいた時、世界が広くなった気がした。誰も足を踏み入れない、自分だけの花畑が目の前に現れたような。そうか、秘密を持てば、世界は広くなるのだ。私は私のためだけに、秘密を増やしてやろうと決めた。

ふわふわのぬいぐるみ、小さなキーホルダー、レースのハンカチ、ガラス瓶に入った香水、色とりどりのマニキュア、懐かしいラブソング。それらは決して人に見せない。ひとりでいるときだけ、私はそれらを身につける。
秘密が増えるたび、私の花畑は広がって、いろんな種類の花が咲く。そしてより存在感を持ち、社会に出る私をひっそりと支えてくれる。

今後、Kさんの足の爪に色が乗せられる日は来るのだろうか。来るかもしれないし来ないかもしれない。赤色かもしれないし、他の色かもしれない。それはKさんだけの秘密であり、私には私の秘密がある。見えていないだけで、世界はきっと色とりどりだ。

土門蘭(どもん・らん)

文筆家。1985年広島県生まれ。京都府在住。同志社大学文学部卒。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品の創作と、インタビュー記事、ブックライティングなどのクライアントワークの双方を生業とする。これまでインタビューした相手は1500人超。著書に、第1回「生きる本大賞」を受賞したエッセイ集『死ぬまで生きる日記』(生きのびるブックス)、歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』(藤原印刷)、インタビュー集『経営者の孤独。』(ポプラ社)、小説『戦争と五人の女』などがある。最新刊『ほんとうのことを書く練習 「わたしの言葉」で他者とつながる文章術』(ダイヤモンド社)が話題。

文=土門蘭

元記事で読む
の記事をもっとみる