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【生誕100周年】エリザベス女王がファッションで示した、王室の意思。激動の時代を生き抜いた❝美しきワードローブ❞の秘密とは

  • 2026.6.6
当時25歳のエリザベス女王。1952年2月6日に即位して間もなく、イギリスにて撮影された。 Getty Images

「I have to be seen to be believed(見てもらわなければ、信じてもらえない)」──かつてエリザベス女王は、そう語った。その有名な言葉は、私が新著『Fashioning the Crown』(Pegasus Books) の執筆に取りかかったとき、何度も脳裏によみがえった。本書では、彼女自身、そしてその前の世代である両親や祖父母たちの装いが放つ視覚的インパクトこそが、国際的な紛争や国内の危機が相次ぐ激動の時代において、王政を守るうえで重要な役割を果たしてきたことを探っている。

現在、王室がさまざまな困難に直面していることを思えば、彼女の衣装に焦点を当てた展覧会「Queen Elizabeth II: Her Life in Style」が、誕生から100年を迎えた今年の4月10日から、キングス・ギャラリーで開催されているのは、実に時宜を得たことのように思える。

私は幸運にも、エリザベス女王に公の場でも私的な場でも幾度かお目にかかる機会を得た。そのたびに、私は彼女のたたずまいに圧倒された。まばゆいダイヤモンドのジュエリーと、精緻な銀糸刺しゅうが施されたイブニングドレスをまとった姿であれ、あるいはタータンのスカートにスコットランド産ウール、頑丈な茶色のレザーブローグを合わせた、伝統的なカントリースタイルであれ、その存在感は変わらなかった。

だが、ようやく勇気を出して彼女にある質問を投げかけることができたのは、スコットランドのバルモラル・エステートの中にある、人里離れた山小屋で昼食を終え、偶然にも女王と二人きりになったときだった。私は、かつて彼女のクチュリエを務めたハーディ・エイミスについて尋ねた。

エイミスは1946年に自身のメゾンを立ち上げて間もなく、まだ王女だった彼女の服を手がけ始めた。つまり、彼女が自らの意思で選んだ最初のデザイナーだったのである。彼の仕立ては端正で控えめな美しさがあり、洗練された色彩感覚を備えていた。それは、母后が寵愛したドレスメーカー、ノーマン・ハートネルの華麗でロマンティックな装飾性とは対照的だった。もっともハートネルもなお、若き王女のために豪華でネオ・ヴィクトリアンな作品を制作し続け、1947年のウエディングドレスもその代表例である。

しかし、私を惹きつけたのはエイミスの服づくりの才覚に加え、第2次世界大戦中、彼は特殊作戦執行部の上級情報将校として従軍し、中佐にまで昇進したこと。ベルギー・レジスタンスの秘密工作において重要な役割を果たしていたのである。エイミスが2003年に亡くなる前に、私は何度か彼とお会いしたことがあるとエリザベス女王に話した。そして、彼の過去の秘密工作について、何かご存じではないかと尋ねてみた。すると女王は、少し眉を上げながらこう答えた。「ええ、彼がナチスを絞殺するのがとてもうまかった、というあのうわさのことね…」と話し、「もちろん、クチュリエであることは、スパイにとって絶好の隠れみのだったでしょう」と続けた。その言葉は、まるで彼女自身の謎めいた外面の奥に何が潜んでいるのかを示す手がかりのように、私の心に深く刻まれた。

ハーディ・エイミスによる女王のシルクドレス。1968年にセシル・ビートンの撮影で着用した。 Getty Images

❝ええ、ハーディ・エイミスがナチスを絞殺するのがとてもうまかった、というあのうわさのことね…❞──エリザベス女王

エリザベス女王逝去後の2022年9月、私は彼女のために仕立てられた中でも特に重要な衣装を見せてほしいと願い出た。それらは現在、イングランド・ウィンザーの王室公文書館において、膨大なワードローブの一部として整理・保管されている。バッキンガム宮殿での展覧会では、そのうち300点以上が公開される。中でも注目は、ハートネルによる2つの傑作──おとぎ話に出てくるような白いサテンのウエディングドレス、そして1953年の戴冠式で着用された、コモンウェルス諸国のモチーフを金糸で刺しゅうしたドレスである。また、エイミスが手がけた威厳あるグレーサテンのドレスも展示される。真珠の装飾と金色の葉模様の刺しゅうが施されたその一着は、1957年10月、アメリカ公式訪問の際にドワイト・D・アイゼンハワー大統領との晩餐会で女王が着用したものだ。

1953年6月2日の戴冠式で撮影されたエリザベス女王の肖像。 Getty Images

私はウィンザー・グレート・パークにある、名もなき倉庫のような場所を何度も訪れ、女王の長い人生を物語る数々の衣装を間近に見る機会を得た。そのたびに、畏敬の念は深まるばかり。同時に、女王が“君主制”というものを、ジャーナリストのウォルター・バジョットが1867年の著書『The English Constitution』で説いた理念として受け止めるよう育てられていたことも、強く意識させられた。同書の中でバジョットはこう記している。「何よりもまず、王制は敬われねばならない。そこを詮索し始めれば、人はもはや敬意を抱けなくなる。…その神秘こそが王制の生命である。魔法の中へ、白日の光を差し込ませてはならない」。そして私は、女王の象徴的なワードローブが、王室の歴史を物質として今に伝える証拠でもあることを理解した。展覧会のキュレーターであり、国王美術品管理官でもあるキャロライン・ド・ギトーは、「ワードローブそのものが、物語ってくれるのです」と話す。

遠い祖先たちのように、エリザベス女王は甲冑に守られていたわけではない。だが彼女は、ファシズムの台頭、ナチス侵攻の脅威、そして第2次世界大戦という死と隣り合わせの時代を生き抜いた。父王が「王制という織物そのものが引き裂かれかねない」と語ったほど、王室の存続そのものが危機にさらされていた時代である。そのような経験を経て、彼女を守るものとなったのは、自らの個性的な“制服”だった。あるものは明確に軍服的であり、あるものは暗号のようなメッセージを伝え、またあるものは一種の擬装として機能した。しかし、そのすべてが彼女のアイデンティティに不可欠な一部だった。

こうして女王の衣服は、精巧に織り上げられたソフトパワーの象徴となった。それは同時に、世界の舞台で伝説的な元首として立つ姿の奥にあった、一人の人間としての人生を伝える、確かな痕跡でもある。幼少期からすでに、エリザベス王女は猛烈なメディアの注目を浴び、その関心の多くは、彼女の装いに向けられていた。誕生前から、祖母であるメアリー王妃が、自らベビー用品の一部を縫い上げていると新聞は報じていた。生まれて間もなくすると、母であるヨーク公爵夫人は、乳児にはウールよりも、フリルのついたコットン素材を好むという話題まで伝えられた。

3歳になるころには、小さな王女はファッション界のリーダーと評され、黄色のトレンドセッターとして注目された。さらに8歳になると、その時代でもっとも洗練された結婚式のひとつでブライズメイドを務め、エドワード・モリニューによる繊細なチュールドレスを身にまとって登場。その式とは、叔父のケント公ジョージ王子が、いとこでもあるマリナ王女と結婚した華やかなロイヤルウエディングだった。なお、このドレスは今回の展覧会にも展示される予定である。翌1935年には、妹のマーガレット王女とともに、ハートネルが手がけたおそろいの淡いピンクのブライズメイドドレスを着用。叔父のグロスター公ヘンリー王子とアリス王女の結婚式という、また別の大きな王室行事に華を添えた。ハートネルは、王女たちの母──1936年、エドワード8世の退位を受けて王妃となった女性──御用達のクチュリエとして名声を高めていった。そして戦争が始まってからも、彼女は軍装ではなく、ハートネルによるパステルカラーのアンサンブルを着続けた。夫であるジョージ6世が、第2次世界大戦のあいだ終始軍服姿を貫いたのとは対照的だった。

1940年9月、バッキンガム宮殿が爆撃を受けた際(その後、ブリッツの期間中に計9度も爆撃を受けることになる)、王と王妃は、まさにその誰の目にもすぐわかる装いで並んで姿を現した。この出来事を受け、エリザベス王太后は、「宮殿が攻撃されたことをむしろうれしく思う。これでイーストエンドの人々と顔を合わせられるから」と語ったのである。戦争末期、エリザベス王女は、セシル・ビートンによって撮影された。そのとき彼女が身にまとっていたのは、母が戦前に身にまとったハートネルによるドレス──いわば“お下がり”だった。王室もまた、国民と同じく配給制度と倹約のルールに従っていることを示す象徴的な装いである。

一方で、ビートンは王女をより兵士らしい姿でも写している。1942年、彼女はグレナディア・ガーズの名誉連隊長に任命された。そして同年4月、16歳の誕生日には、ウィンザー城で連隊を閲兵し、初めての公務を果たした。その新たな軍事的役割は、ビートンによる肖像写真にも表れている。誕生日祝いとして贈られた、連隊の紋章をかたどったダイヤモンドのブローチ、軍帽に付けられた徽章、そして戦時中の肖像写真の多くで着用していた、簡素なユーティリティジャケットとウールスカート。控えめでありながら重要なこの装いも、展覧会で公開される。

さらに、1945年4月に補助地方義勇軍で運転手兼整備士として志願勤務した後に着用した制服も展示される。彼女はその制服姿で、ヨーロッパ戦勝記念日にバッキンガム宮殿のバルコニーに立ち、さらにその夜にはロンドンの街へ出て、祝賀に沸く群衆の中に紛れ込んだ。カーキ色の制服は、まさに“見えていながら見えない”ための擬装となった。この前代未聞の外出に同行した妹のマーガレット王女は、エリザベス王女が「あのひととき、個人的な自由を味わっていた」と回想している。まるで“逆さまのシンデレラ”のように、その制服は彼女を「普通の、名もなき一人」にしてくれたのだった。

❝彼女は、どの場面で何を着るべきかを完全に理解していました──キャロライン・ド・ギトー❞

ヨーロッパ戦勝記念日からわずか数週間後、クレメント・アトリー率いる労働党政権が地滑り的勝利で誕生した。新政権は、国民保健サービス(NHS)の創設、福祉国家の整備、主要産業の国有化といった急進的改革を次々に打ち出していく。そうした時代において、王室──とりわけエリザベス王女は、戦時下の勇敢で包囲された英国の象徴から、戦後の変化の時代にふさわしい存在へと進化していく姿を示さなければならなかった。そのため彼女は、1951年、夫のフィリップ殿下とともに行った初の海外公式訪問であるカナダとアメリカ巡訪のために、エイミスへ衣装制作を依頼した。展覧会キュレーターのキャロライン・ド・ギトーはこう語る。「彼女は、自身の見せ方を他人まかせにする人ではありませんでした。どの場面で何を着るべきかを完全に理解していて、若いうちから非常に独自性のあるスタイルを確立していたのです」

エイミスもまた、当初から理解していた。彼女には、あらゆる細部まで事前に考え抜かれ、少しの不適切さも不調和も感じさせないワードローブが必要だと。彼は1954年の回想録でこう記している。「女王陛下のためにドレスを作ることで、お仕えできたこと、そして今なおそれができることを、私は誇りに思う」そして彼はこう続けた。「陛下は、美しく、そしてその場にふさわしい装いであるために、あらゆる配慮を惜しまれない。しかし、それを終えれば、あとはご自身の仕事に集中される。だからこそ、そのエレガンスは完全に自然なものに見えるのです」。また、「私は、“淡いブルーのドレスの王女”というありきたりなイメージから脱したかったのです」とも語っている。エリザベス王女のために手がけた初期のデザインについて、「ブルーが王女殿下にとって特別な色になることは明らかでした。あの大きく印象的な青い瞳が、それを決定づけていたのです。そこで、殿下との最初の成功作となったのは、厚手のシルクで仕立てたドレスとコートでした。その色は、まさに“サンダー・ブルー”と呼ぶべき深みのある青。そしてコートは、“プリンセス・ライン”として知られる裁断で仕立てられていました。つまり、ウエストに切り替えの縫い目がなく、肩からスカートの裾まで流れるようにラインが続いていくのです。そのシルエットは、ひときわ優雅に揺れ動きました」と語っている。

総じて、エイミスの美学は控えめで節度があり、その背後には、彼自身の戦時経験から培われた規律があった。戦争は彼に、秘密工作員として潜入任務を遂行するために不可欠な、細部への鋭い注意力を授けただけでなく、軍装におけるわずかな違いを見抜く目も養ったのである。そうした文脈で見ると、彼の厳格なデザインが時代を超えて力を持ち続ける理由がわかる。とりわけ今回の展覧会でも印象的な一着と並べて見ると、その魅力は際立つ。それは、乗馬服仕立てで知られるバーナード・ウェザリルが制作した特注の制服だ。1947年6月、エリザベス王女はグレナディア・ガーズの名誉連隊長として、父王ジョージ6世に騎乗で付き添い、トゥルーピング・ザ・カラー(英国君主の公式誕生日を祝う軍事パレード)に臨んだ。この日の彼女が体現した強さ、自信、そして愛国心は、どんなスパンコールの舞踏会ドレスも決してしのぐことはできなかった。そしてその後何年にもわたり、彼女は誇りと威厳をもって近衛兵たちの先頭に立ち、馬上の姿を見せ続けた。

1947年、ロンドンのバッキンガム宮殿にて。グレナディア・ガーズの制服をまとうエリザベス王女。 Getty Images

女王となってからも、彼女は生涯の終わりまで戦略的に装い続けた。常にイギリス製の生地とイギリス人デザイナーを選び、色彩やジュエリーを用いて、外交と統治における卓越した感覚を静かに表現していたのである。そして彼女のワードローブは今も語り続けている。王室がこれまでも幾度となくそうしてきたように、これからの試練に向き合うため再び姿を変えようとしているこの時代に、未来の世代が学ぶべき物語を。

スパイが仕立てた、女王のクチュール

ファッションデザイナーのハーディ・エイミス。1953年に撮影。 Getty Images

ハーディ・エイミスは1909年、ロンドンで生まれた。母は、メイフェアにある宮廷御用達の仕立て店で働く裁縫師だった。彼は回想録の中で、「私は、宮廷ドレスメーカーの階段の上で生まれたようなものだと思いたい」と記している。その母の人脈にも後押しされ、1934年、彼はテーラードスーツで名高いロンドンのクチュールメゾン、ラシャスで働き始める。数年間ヨーロッパで語学を学び働いていた経験から、彼はすでにフランス語とドイツ語に堪能だった。

1939年に戦争が始まると、その語学力を買われて英国陸軍情報部隊に配属される。しかも彼は、軍将校としての任務をこなしながら、クチュールへの情熱も絶やさなかった。1941年には、ノーマン・ハートネルとともにロンドン・ファッションデザイナー協会の創設メンバーとなる。ここで彼は、戦費調達のため重要だった英国ファッション産業の輸出に貢献する一方、特殊作戦執行部でも着実に地位を高めていった。

エイミスの訓練には、爆発物や武器の扱い、パラシュート降下、そして無音で相手を仕留める技術まで含まれていた。これらは後に、ラットウィーク作戦(ナチ協力者排除を目的とした連合軍作戦)への関与、さらにはベルギーの地下抵抗組織を支える秘密工作で重要な役割を果たすことになる。彼がスパイ活動について公に触れた数少ない例のひとつが回想録にある。そこで彼は、「外交における厳しい教訓」が、戦後にクチュールハウスを立ち上げる決意に大いに役立ったと述べている。

そして彼が店を構えたのは、紳士服仕立ての聖地として知られるサヴィル・ロウだった。そこには、ハートネルのスパンコールがきらめくクリノリンとはまったく異なる美学を提示するという明確な意思があった。ハートネルの華麗なドレスは、1937年のジョージ6世の戴冠後、エリザベス王太后によって鮮やかに着こなされていた。その後の数十年、彼がエリザベス女王のために手がけた仕事は、スパイとして決して揺るがぬ沈黙を守り続けた姿勢と同じく、非の打ちどころがなく完璧だった。

Editor: MINA OBA, From Harper's BAZAAR July/August 2026 Issue

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