1. トップ
  2. スポーツ
  3. 三笘薫は念願叶わず…日本代表、歴代W杯で『背番号7』を背負った選手5人

三笘薫は念願叶わず…日本代表、歴代W杯で『背番号7』を背負った選手5人

  • 2026.6.3

6月11日に開幕を迎えるFIFAワールドカップ。これまで日本代表は1998年から8大会にわたって出場を続けてきた。

今回はその大会の歴史の中で象徴的な意味を持つナンバーのひとつ「7番」を着用した選手を特集しよう。

1998年:伊東輝悦

1998年のフランス大会、日本代表のワールドカップ初挑戦において「背番号7」を託されたのが伊東輝悦だ。この事実だけでも、彼は日本代表のユニフォーム史において特別な存在といえる。

伊東は決して派手な選手ではなかったが、中盤に秩序をもたらすハードワーカーとして長くチームを支えた。この大会終了後もフィリップ・トルシエ監督によって招集され、2002年大会の前に負傷するまでメンバーに名を連ねていた。

この1998年大会の結果は3戦全敗、そして伊東はワールドカップで1試合も出場することなく終わったが、この経験こそが日本のワールドカップストーリーの原点となった。

2002年、2006年:中田英寿

多くの日本のファンにとって、背番号7といまなお最も強く結びついているのは中田英寿だろう。2002年大会を迎える頃、彼はすでに世界最強リーグのセリエAで活躍するスターとして君臨しており、自国開催のワールドカップにおいての重圧を一身に背負う存在だった。

彼にとってこの2002年大会での象徴的な場面はチュニジア戦だった。日本の決勝トーナメント進出を決定づける2点目を奪い、開催国を熱狂の渦に巻き込んだ。2006年大会ではチーム全体が苦戦を強いられたが、中田は最後までリーダーであり続けた。

そして大会後、まだ20代であった彼は若くしてスパイクを脱いだ。彼が纏った「7」は、日本が生んだ最初の世界的スーパースターの記憶とともに伝説となったといえる。

2010年、2014年:遠藤保仁

遠藤保仁は、日本の背番号7に全く異なるアイデンティティを吹き込んだ。中田がカリスマ性と存在感の象徴だったとするならば、遠藤が持ち込んだものは穏やかさと冷静さだった。

2010年大会の岡田武史監督率いたチームにおいて、彼は不可欠なピースだった。最も有名なシーンはデンマーク戦だろう。鮮やかなカーブをかけたフリーキックを沈め、日本のベスト16進出に大きく貢献した。これは日本のワールドカップ史に残るセットプレーの一つだ。

4年後のブラジル大会でも、アルベルト・ザッケローニ体制の重鎮として「7」を背負った。大会自体は失意の結果に終わったが、遠藤の代表における地位は揺るぎないものだった。プレッシャーのかかる場面でもチームに落ち着きを与える唯一無二の司令塔だった。

2018年、2022年:柴崎岳

日本サッカーの重要な転換期に「7」を引き継いだのが柴崎岳だ。2018年大会、西野朗監督の下でディープライン・プレーメイカーとして期待を受けた。

彼のパスは日本のグループリーグ突破を支え、ベルギー戦での戦いぶりも彼のクオリティを知らしめるものとなり、中盤にテンポをもたらす存在になった。

2022年大会でも引き続き「7」を着用したが、森保監督の下ではロシア大会のような絶対的なレギュラーではなくなっていた。それでも、彼が選出されたことはその経験値が高く評価されていた証拠だといえる。

2026年:田中碧

画像: (C)Getty Images
(C)Getty Images

三笘薫が負傷によって出場不可能になったため、川崎時代の盟友でもある田中碧が「7」を引き継ぐ。ある意味では、それは日本の伝統的な中盤の系譜を継ぐ自然な流れになるのかもしれない。

プレス、スペースのカバー、ボックス内への侵入、そしてここぞという場面でのゴール。2022年大会のスペイン戦での劇的弾は記憶に新しいものだ。掴みどころがないプレー、そして重要な場面でこそ発揮される勝負強さは、神様が与えた彼だけの武器である。

佐野と鎌田が好調を維持していることを考えれば、田中はおそらく途中出場から流れを変える役割を担うことになるはず。このビッグマッチが続く大会において、苦しい時に「コントロール」「アグレッシブさ」「自信」をもたらすことができるかどうか。背番号7を着用した田中碧の活躍は、日本代表の成否を占うポイントの一つになるだろう。

※選出基準は、各選手の実績に基づきながら筆者またはメディアの主観的判断も含んでおります。

筆者:石井彰(編集部)

元記事で読む
の記事をもっとみる