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30年前、朝のテレビが連れてきた"日常のサビ" 平日の支度に1年間並走した一曲

  • 2026.7.3
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1996年12月、東京・日本武道館で行われた森高千里コンサートより(C)SANKEI

平日の朝、まだ目が開ききらないうちにテレビをつける。寝ぐせのまま洗面所と居間を行き来する数十分、画面から女性ボーカルが流れてくる。歯ブラシをくわえて鏡を見る数秒も、コーヒーを淹れて湯気を待つ数秒も、耳は番組の音を受け取り続けている。1996年4月から1年間、日本中の平日の朝に並走していた一曲があった。

森高千里『ララ サンシャイン』(作詞:森高千里/作曲:伊秩弘将)ーー1996年6月10日発売

テレビをつけたらもう鳴っていて、気がついたら歌い出しを口が覚えていた。家族で部屋が離れていても、別々の家で別々の朝が始まっていても、耳の上では同じBGMが流れている。その同時性のなかで一年ぶんの朝が刻まれた。

リモコンを握らずに覚えていく一年

『ララ サンシャイン』は、1996年4月からちょうど1年間、フジテレビ系の朝の情報番組『めざましテレビ』のテーマソングとして使われた。番組のオープニングで一節、コーナーの変わり目で一節、ニュースの合間にもう一節。歌詞のついたサビがそのままの長さで、朝の時間帯のあちこちに置かれていた。朝食を取る耳にも、洗面所で口をすすぐ耳にも、玄関で靴を履く耳にも、同じ歌声が何度も差し戻されてくる。

朝の番組のテーマは、リスナーの構えがほかの曲とまるで違う。誰もリモコンを握って再生ボタンを押すわけではない。テレビをつけたら、もう鳴っている。耳を傾けに行く能動の聴き方ではなく、耳のほうに勝手に住みついてくる受動の聴き方。出勤前の社会人も、登校前の中高生も、頭は別のことを考えながら、耳だけが森高の声を浴び続ける。

一回ぶん集中して聴いた100回より、毎朝ちらりと耳をかすめた100回のほうが、不思議と長く残る。番組のテーマに選ばれた曲は、選曲権をリスナーから取り上げる代わりに、毎朝の支度の手順そのものに同期して記憶の側へ滑り込む。

明るい朝の音にくぐもらせて差し出す本音

森高千里の歌い口は、はじめから終わりまで軽い。重い荷物を背負わず、足先で地面を蹴っていくような跳ねかたで、サビへ向かって駆け上がる。鼻のあたりに少し残るやわらかさを保ったまま、母音をはっきりと立てて、子音は丸めて転がしていく。だからこの声を朝に聴いても、まだ目の起きていない耳が疲れない。

歌詞は、今日を乗り切る話から始まり、明日へ、もっと長い人生へと時間軸を段階的に広げていく。しんどさを否定せずに、それでも歩ける範囲で歩こう、と差し出す。これを朝の時間帯にテレビが流していたのは、いま振り返るとずいぶん優しい配剤に映る。出勤前の人にも、家事の手を止められない人にも、ベッドから出られなかった人にも、それぞれに合う角度で言葉が入ってくる。励ましの強度がきつくないのに、聴き終わったあと少しだけ視界が明るくなる。

うたう人が叩くから揺らぐ拍が朝に馴染む

「ララ サンシャイン」というタイトルは、口に出した時点でもうメロディが立ち上がっている。「ララ」という意味のない音節が英語の太陽に橋を渡し、サビの中央でこの言葉が反復されるたびに視界の明度が一段ずつ上がっていく。朝の番組と歌い出しが噛み合った理由のひとつは、この単純な明度操作にある。

歌詞のなかで動いているのは、いつも能動の動詞だ。出かける、立ち上がる、歩く、生きる。状態を描くのではなく、行為の連なりで時間を進めていく。朝という時間帯のいちばん大事な作業は要するに体を動かして外に出ていくことで、この曲は歌詞のレベルで朝の手順と噛み合っている。

当時の音楽シーンは、打ち込みのダンスビートが大量のヒットを生んでいた頃でもある。そのまっただ中で森高が選んだのは、音を厚塗りにする方向ではなく、生楽器の手触りで朝の空気を運ぶ方向だった。流行の渦から半歩引いた位置で、自分の声と自分の言葉で日常を歌い続ける。アルバム『TAIYO』の冒頭には、この曲の原型にあたる別ヴァージョンが姉妹のように並び、同じ核から二つの表情が生まれてくる手つきまで見せている。

30年経った耳がいまも反射でなぞる数小節

30年が経った今でも、イントロが鳴り出した瞬間に体のほうが先に反応する人がいる。何時に家を出ていたか、誰と一緒に朝食を取っていたか、どんな鞄を持って出かけていたか。曲そのものの記憶というより、曲が鳴っていた朝の手触りごと戻ってくる。耳の奥にしまわれていたあのサビが、もういちど一日の最初の音として立ち上がる。

毎朝の景色に勝手に紛れ込んでいた音は、景色と一緒に保存される。書き手の言葉の優しさと、テレビという同時性のメディアが噛み合って、この曲は多くの人の朝にも貼りつくかたちで残った。一日のはじまりに鳴った音は、その人の一日ぜんぶに薄く塗り広げられる。30年前の朝に流れていた数分は、いまも誰かの日常のどこかで薄く鳴り続けている。


※この記事は執筆時点の情報に基づいています。

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