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20年前、無名の新人が放った"消え入りそうな声" 派手な時代の真ん中で、なぜ静けさが際立ったのか

  • 2026.6.15

2006年。派手な曲がチャートをにぎわせ、強い歌声が時代を引っ張っていた。そのまんなかへ、まるで逆の方向から届いた歌があった。声を張らず、囁くように歌う、ひとりの新しい歌い手の声だ。

手嶌葵『テルーの唄』(作詞:宮崎吾朗/作曲:谷山浩子)ーー2006年6月7日発売

スタジオジブリの映画『ゲド戦記』のなかで流れた一曲であり、手嶌葵にとってのメジャーデビュー作だ。大きな声で押すのではなく、ほとんど息のような細さで歌う。それなのに、その声は遠くまで届いた。

なぜ囁き声が、これほど遠くまで届くのか

この曲の歌声は、強くない。張り上げることをしない。高い音をきれいに伸ばして聞かせる、というタイプでもない。むしろ、消え入りそうなほど抑えた声で、言葉をひとつずつ置いていく。にぎやかな時代のなかでは、こういう声はかき消されてしまう。けれどこの曲では、その静けさのほうが、かえって強く響いた。まわりが大きな音を立てるほど、この囁きは際立つ。

歌のうまさを見せつける声ではない。けれど、聞いた人の手をそっと止めさせる力がある。何気なくつけたテレビやラジオから流れてきて、思わず耳を傾けてしまう。そういう声だ。

声の表面には、わずかな揺れと、息の音がそのまま残っている。きれいに整えすぎていない。その素朴さが、作りものではない手ざわりを生む。完璧に磨かれた声よりも、こうしたかすかな揺らぎのある声のほうが、人の心の奥にまっすぐ届くことがある。

派手さで勝負しない歌が、これほど広く届いた。そのこと自体が、この曲の不思議であり、強さだと感じる。

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手嶌葵-2011年6月撮影(C)SANKEI

詩から声へ、受け渡されていったもの

この声に物語が宿るのには、理由がある。手嶌葵は、映画『ゲド戦記』で、ヒロインのテルー役の声を担当している。つまり彼女は、画面のなかでこの曲を歌う登場人物そのものだった。だからこの歌は、外から物語に寄り添う主題歌とは、少し違う。歌っているのは、ほかでもないテルー自身。役の心の揺れと、歌声の震えが、まっすぐ地続きになっている。

この歌は、いくつもの手を経て生まれている。作詞をしたのは、映画の監督を務めた宮崎吾朗だ。本作が彼の監督デビュー作であり、物語を作った監督本人が言葉を綴っているのだ。

詩から、詞へ。詞から、旋律へ。そして旋律から、手嶌葵の声へ。いくつもの段階を受け渡されながら、最後にこの細い歌声へと着地した。受け渡しのたびに余分なものが削ぎ落とされ、いちばん静かなところへたどり着いたように聞こえる。

静けさという強さ

時代がどれだけ大きな音で鳴っていても、深く残るのは、声を張った歌とはかぎらない。この曲を再生すると、最初に立ち上がってくるのは、あの細い、ささやくような声だ。強く出さないのに、まっすぐ芯がある。聞いているうちに、こちらの呼吸まで静かになっていく。

強い声に慣れた耳には、最初は物足りなく感じるかもしれない。けれど一度この静けさに身を委ねると、ほかの歌が急にうるさく思えてくるかもしれない。純度が高い歌声には、そういう不思議な作用がある。

派手なヒット曲が並んだ2006年に、いちばん静かな声が広く届いた。その事実に、私は、声というものが本当に持つ力の在りかを見る気がする。大きさではなく、佇まいで届く声。そういう歌こそ、時を経ても、ふいに耳によみがえる。


※この記事は執筆時点の情報に基づいています。

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