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【山田邦子さん】が語る母の介護と看取りの3年「もっと早く頼っていれば」と感じたものは…

  • 2026.5.27

【山田邦子さん】が語る母の介護と看取りの3年「もっと早く頼っていれば」と感じたものは…

年を重ねるにつれて、誰もが一度は向き合わなければならない親の介護や看取り。山田邦子さんも、2023年10月に見送るまで、母・昭子さんを8歳下の弟さんとともに介護しました。何もかも初めての経験の中で、もっと早くに知っておけばよかったことも多々あり、今思い返すと悔やまれることもあると言いますが、母とゆっくり向き合う時間を持てたことが何よりよかったと振り返ります。

山田邦子さん・タレント

やまだ・くにこ●1960年東京都生まれ。
川村短期大学在学中の80年、諸々の素人参加番組のテレビに出演。
バスガイドのネタがあたり、ドラマプロデューサーにスカウトされ、卒業と同時にドラマデビュー。同年新番組「オレたちひょうきん族」レギュラー。ドラマ、バラエティ番組、舞台、歌手、司会、小説・エッセイを執筆するなど、マルチな才能を発揮。
88~95年、NHK「好きなタレント調査」で連続1位という記録保持者である。
2019年、長唄杵勝会の名取「杵屋勝之邦」を襲名。20年、浅草演芸ホールの高座に上がる。22年、23年と続けて「М-1グランプリ」決勝戦の審査員を務め、24年には一般社団法人日本喜劇人協会の第11代会長に就任。
22年よりYou Tube「山田邦子 クニチャンネル」を配信中。

母とゆっくり向き合えた貴重な時間

山田邦子さんの母・昭子さんが寝込むことになったのは、コロナ禍が始まった2020年頃。自宅で滑って転倒して、脇腹と足の骨を折ったのがきっかけだった。

「動けなくなったのがちょうどコロナが直撃した頃で、『病院に行かない』となって、筋肉がみるみる衰えてしまったんです。家の中でベランダをウロウロしたり、洗濯をしたりはしていたんですよ。運動器なんかも買ったんですけど、どんどん立ち上がれなくなって、歩けなくなって、お医者さんに言われたとおりに、寝たきりになってしまいました」

兄と弟との3人きょうだいの山田さん。8歳年下の弟さんがずっとご両親と同居していたこともあり、母の介護は弟さんがすることになったという。父はすでに1998年に心臓発作で亡くなっていたので、弟さんが一人で見ることになった。

「弟は末っ子だったので、母ととても仲がよくて、よく見てくれたんです。やれ咳をした、やれベッドから落っこちたといってはケアをし、食べるものもすべて用意し、下の世話もしました。起き上がれない人の世話を24時間ですからね、よくやったと思いますよ。ただ初めての介護を一人で頑張りすぎたんでしょうね。根を詰めすぎて具合が悪くなってしまったんです。そこで3年目からは、私も仕事の合間になるべく実家に通うようになりました」

その頃は昭子さんも、ゆっくり自分で食事をしたり、喋ったりはできていた。

「なのでいっぱい喋りましたね。私はこの業界に入って以来、忙しいという理由で、母とあまり旅行にも行けませんでしたし、家族が集まる食事の席でも私だけ欠席という親不孝をしてきました。『そのうち、そのうち』という思いだけはあったのですが、『そのうち』なんてないんだなということを、このときに痛感しました。でも、この介護の3年間はそれを埋め合わせるように、本当に母といっぱい喋ったんです。そして、一緒に一つひとつ断捨離をして、ものを整理していきました」

洋服にアクセサリー、化粧品のマスカラ一つに至るまで、「いる?いらない?」と母に確認しながら整理していく作業は、とても楽しかったのだという。

「楽しかったですね。『なんでこれ取っておいたの?』と聞いて、『これはお前が生まれたときのお皿でさ』なんていう話も聞かされて、『じゃあ私がもらっちゃうよ』とかね。母は毎朝、鰹節削りを使って『カッカッカッカッ』という音をさせて鰹節を削っては、お味噌汁を作ってくれたのですが、その鰹節削りは私がもらうことにしました。そういうことを、母の意識がちゃんとあるうちに、きちんとできたのがよかったなと思います」

母が受けたことを私たちが返していく

まもなく昭子さんは、おしゃべりもできなくなって、本当の寝たきりになってしまった。また弟さんの具合が悪くなり、このときに初めて、姉弟はホームヘルパーさんに介護の支援を頼むようになった。そして、初めて要介護認定を受けたところ、いきなり最も重い要介護5と認定された。

「どれだけの手遅れかということですよ。あまりに知らないことが多過ぎて、何もかも自分たちでやっていたんです。ストローで鼻も唾液も全部吸ってあげましたよ。もうバカですよね。後からドラッグストアに行ってみたら、便利なものがたくさんそろっているじゃないですか。それまでホットタオルを作るのでも、熱いお湯を沸かして『熱い、熱い』って言いながらやっていたのに、タオルを少し濡らしてラップでくるみ電子レンジで加熱すれば、数秒でできることも教えていただきました。やせてしまった母でしたが、それでも抱きかかえたり、起こそうとしたりすると重いんです。弟はそれで腰を痛めましたが、それだってヘルパーさんがプロの技術でやってくださったら楽にできる。早くお願いすべきだったと思いました」

そうしているうちに、家の近所にとてもよいサービス付き高齢者向け住宅があることがわかり、預かってもらうことになった。週末に帰って来たり、車椅子で外出できたり、出入り自由なことがよかった。

「職員の方々がね、お誕生会などのイベントをやってくださるんですよ。母の誕生日のときも、頭に折り紙で作った花冠を載せて、『おめでとう』と祝ってくださったんです。でもそのとき、母はもうわからなくなっていたので、『ああ、もう少し早く入れてあげていたら、社交的な母はどんなに喜んだだろう』と悔やまれました」

もう少し病状が進むと、今度は医師や看護師が常駐している施設が、これも近くにあったので、そこに移ることに。こちらも素晴らしいケアをしてくれるところだった。

「びっくりするような手厚い看護で素晴らしかったです。行くたびに母が何だかきれいになっていくんです。私たちだって一生懸命やっていたんですよ。だけど、そのときよりもずっときれいになっていく。どうしてかを伺ったら、職員の方が『私たちが肩を組んで一緒にお風呂に入っています』と言われて。それを聞いたときは、土下座をして御礼を言いたくなりました。他人にそこまでできるなんて、あの方々は天使ですよ。これは次にそういう困っている方がいらっしゃったときには、私たちがやっていかなきゃいけないことだと、それを母が最後に教えてくれたのだと思いました」

2023年10月、病院で昭子さんは旅立った。89歳だった。介護にプロの手を借りることが遅れた背景には、弟さんが『お母さんは治る』と信じて、介護よりも病院での治療を優先させようとした経緯があった。それは家族であれば痛いほどわかる心情だ。誰もが迷うところに違いない。何が正解かは誰にもわからない。ただ邦子さんは、母の介護経験から「早めに動く。早めに備える」ことの大切さを痛感したという。

「家の階段や廊下に、手すりをもうつけましたよ。それからベッドを電動ベッドに替えました。電動ベッドは介護認定が下りると安くレンタルできるのですが、私は今から自分用に買いました。今のうちに慣れておこうと思って。これが結構いいんですよ。スマホを見るときに、ベッドを起こして椅子の形にしたほうが首が楽です。足を少し上げて寝るだけで血流もよくなる。母の介護で学びましたからね。早め早めに私は備えていこうと思っているんです」

撮影/佐山裕子(主婦の友社)

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