1. トップ
  2. カルチャー・教養
  3. 大森時生『記憶の遺影』#17:核(unclear)について。

大森時生『記憶の遺影』#17:核(unclear)について。

  • 2026.5.26
大森時生『記憶の遺影』#17:核(unclear)について。

なぜ、核家族は「核家族」というのか。

英語でもnuclear familyというらしい。核。原子核。忌まわしい兵器を思い浮かべて、『はだしのゲン』2巻冒頭が頭をよぎる。

家族という言葉の前に「核」がついていることの似つかわしくなさ。

夫婦とその子どもだけで構成される、最小単位の家族(僕の家もそれにもれず核家族だ)。余計なものをそぎ落とし、機能だけを残したかたち。ジョージ・マードックという人類学者が提唱した概念だそうだ。祖父母も、おじ・おばも、従兄弟もいない。逃げ場になる別の部屋もない。関係は濃くなり、そのかわりに行き来は減る。閉じた小さな単位。

少し力を加えるだけで全体が一気に崩れる危うい構造物のようでもある。建築学科の生徒の授業で最初に学ぶ、最小単位の建築。

僕は中座することを先輩に詫びて、トイレに行った。便座に座って用を足しながら、溜まったメールの返信をする。小さなトラブルに解決のための指示を出す。そして複数の選択肢から二番目の選択肢を選ぶ。水野さんにLINEをしながら席に戻る。

前話した先輩に会って、少し方式が見えたかもしれないです(過去に似た小説があったら避けた方がベターですが)。

精神科医と患者の対話をベースにしたうえで、その話を聞く大森という形式は物語にしやすいかもしれないです。水野さんがおっしゃっていた「完璧な真実を与えない」という条件とも相性がいい気がしています。

僕がフェイクドキュメンタリー的な手法で小説を書く。一番内側の物語をその二人の対話にし、その患者の話が、一番外側の僕の書くエッセイに影響を及ぼしてくるという三段構造にするということです。

また打ち合わせで相談させてください。真実にフェイクを混ぜるというよりもレイヤー構造を多層化する方がおっしゃっている展開をできる気もしまして。

彼女の隣の家に家族が越してきたのは、春のことだった。

春といっても、住宅展示場みたいな、明るい春ではない。冬物をしまうこともできず、クリーニングに持っていくか迷い、日差しだけがじわじわと強くなっていく時期のことだ。外の気温は上がっても、床は冷たいままだ。彼女は裸足で台所に立っていて、その足裏は靴下を求めていた。

彼女が夫と住む家は杉並区の一軒家だった。夫の父親から譲り受けた家だった。譲り受けた、という言い方をすると聞こえはいいけれど、実際には「あてがわれた」に近かったのかもしれない。

夫の父親は非常に裕福だった。初めて義父の家を訪れた時(実家での挨拶という定型的なイベントがあった)に彼女はそれに気づいた。夫は20歳の頃に母親を亡くしていて、ひとりで住んでいる家だった。

裕福さは空間の使い方に宿る。食卓の上に、今すぐ必要なもの以外を置かない。廊下の幅が少し広い。洗面所に窓が二つある。階段の踊り場が、用もないのにやけに優しく照らされている。

そういう、説明しにくい余白のことで、彼女は夫の父親から富の気配を感じていた。家には小さな庭があった。杉並区に小さな庭がある。その意味合いを「東京の人」以外は理解することはできないだろうな、とぼんやり考える。

芝生はところどころ薄く、裕福さと同時に義父の老いを感じる。数年前までは端正に整備されていたのだろうが、今ではところどころ諦観の念がこもった禿げ跡が見える。彼女は四国に旅行した時に見た野焼きを連想した。

昨年、その家を譲り受けた。義父は「好きに使っていい」と言った。自分は地元で暮らすのだという。地元はどこなのか聞かなかった。一度聞いた気もしたし、そもそも関心はなかった。海が見える場所に住みたいんだ、と義父は言った。彼が海を眺める姿を想像できなかった。

彼は民間の大手シンクタンクに長く勤めていた。都市開発や再開発、交通政策、高齢化を見越した住宅整備などを行っていた。大きなデータ上で人の流れを見て、十年後、二十年後の人口動態を予測し、企業や自治体に「こうあるべきです」と差し出す。

何かを作る人というより、作られる前の理屈を整える人。目に見えるもののずっと手前にいて、しかし金の動きにはかなり近い場所にいる人だった。

そこから40代半ばで独立し、調査とコンサルタントを一気通貫で請け負うコンサルタント会社を起業した。元の会社にいた優秀な部下を何人かそのまま持ち出したそうだ。

「顧客が求めるのはゴールまでなんだよ。途中過程だけだと意味がない。川上から川下まで。川が海に流れるその瞬間が一番大事なんだ。結婚生活と一緒だよ」

義父はいつか代々木上原の地下の中華料理の店で食後酒を傾けながらそう言った。非常に上機嫌だった。その言葉が表している意味がよくわからなかったから、曖昧に微笑んだ。

結婚生活のゴール?それは何?離婚すること?夫が死ぬこと?私が死ぬこと?それとも私が子どもを産むこと?義父が気持ちよく喋る時は、夫はほとんど口をきかなくなる。

たとえば(あくまでたとえばだが)ある駅前の再開発計画が持ち上がるとする。まず地価の推移とここ数年の乗降客数の変化、周辺住民の年齢構成(またそれぞれの所得構成)、昼夜間人口の差、近隣商業施設の売上傾向を洗う。

そこから「どういう施設なら採算が取れるか」「何年後に高齢化率がどれくらい上がるか」「保育施設やクリニックなどどの程度インフラを組み込めば行政が乗ってきやすいか」といった筋道を作る。さらに住民説明会用の資料の言い回しまで整える。

単に分析を出すだけでなく、その分析が通るように空気を整え、自治体とデベロッパーと地権者がそれぞれ納得したように見える地点まで運ぶ。そういう仕事と聞いた。公益性が高く、実際には巨額の金が動く案件を扱っていた。

そう、彼女は義父のことをとても嫌っていた。憎んでいた。

引っ越しのトラックは朝から道路を往復しているのが聞こえた。

彼女はその日は朝から仕事をしていた。イヤホンを耳に入れ、知らない中年の男の「それでは定刻になりましたので」を文字にしていた。

この世界では定刻があふれている。午前0時から午後11時まで。午前2時28分が定刻の何かもあるかもしれない。

昼過ぎ、夫は珍しく家にいた。設計事務所に勤めている夫は、ふだんは帰りが遅い。家で昼をまたぐことはほとんどない。その日は現場ではなく、図面の修正だけでよかったらしく(在宅勤務を行うことに事前に申請する必要がない柔軟な会社だった)ダイニングテーブルの端にノートパソコンを開いていた。プリントアウトした図面に、細いシャープペンで何かを書き込み、定規を少し動かし、また止まる。すぐに終わると言っていたけど、一度始めたらディテールにこだわった。

夫は仕事をしている時、表情が消える。怒っているわけでもなく、集中しているのとも違う。顔から、生活に使う筋肉だけが引いていく。彼女はその顔が好きだった。

インターホンが鳴った。彼女は玄関に向かった。

profile

大森時生

おおもり・ときお/1995年生まれ、東京都出身。2019年にテレビ東京へ入社。『イシナガキクエを探しています』『魔法少女山田』といったフェイクドキュメンタリーシリーズ『TXQ FICTION』などを担当。展覧会「行方不明展」「恐怖心展」も手がける。2023年「世界を変える30歳未満 Forbes JAPAN 30 UNDER 30」に選出。

元記事で読む
の記事をもっとみる