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「あ、やっぱり苦手だった」偶然の再会で、自分の【無理センサー】を再確認した話

  • 2026.5.8

大人の「こんにちは」は、時に筋トレより疲れる

「やっぱり、苦手だった…」そう心の中で静かに呟きながら、私は駅のホームで小さく溜息をつきました。いや、別に何か嫌なことを言われた訳ではありません。むしろ、世間話としては極めて平和。天気の話をし、近況を聞き、「お忙しそうですねぇ」なんて、当たり障りのない会話を数分ほど交わしただけです。でも、疲れた。それはもう、ちょっとした登山のあとくらいには疲れた。なぜなら、その相手は、私が長年「どうにも苦手だなぁ」と思っている方だったからです。大人になると厄介なのは、「苦手です」が顔に出せないところです。いや、出してはいけない訳ではないのでしょうけれど、社会生活というものは、だいたい【うっすら愛想よくしておく】ことで成り立っているので、こちらも反射的に口角を2ミリほど上げ、「わぁ偶然ですねぇ」などと言ってしまう。本心としては、「いや、できれば改札の柱になりたかった」くらい思っているのに、です。しかも、こういう時に限って、なぜか逃げ道がない。電車を待つ数分間、ホームという閉鎖空間の中で、絶妙に離れられない距離感。あれはもう、大人版の鬼ごっこです。しかも鬼がずっと隣にいる。オーマイゴー!

「私も苦手だった!」と言われた時の、あの安心感

私には昔から、「どうしても相性が合わないな」と感じる人が、ごく稀に現れます。基本的には、そこまで好き嫌いが激しいタイプではありません。割と鈍感ですし、「まぁいっか」で流せることも多い。むしろ、好きな人の方が圧倒的に多い人生だったと思います。めちゃくちゃラッキーです。だからこそ、“苦手”が発生すると、自分でも結構うろたえる。以前、共通の友人に恐る恐る打ち明けたことがあります。「実はさ……私、あの人がちょっと苦手で……」すると友人が、食い気味に、「えっ!! 私もめちゃくちゃ苦手!!」と返してきたのです。あの瞬間の安心感たるや。なんでしょうね。別に悪口大会をしたい訳ではないのです。むしろ、その方を話題にすることなんてほとんどありません。でも、“自分だけじゃなかった”という感覚は、ちょっと救いになる。人間というのは不思議なもので、「好きなものが同じ」より、「なんかあの感じ苦手だよね」が一致した時の方が、妙に距離が縮まることがあります。あれはもう、感性の避難訓練みたいなものです。しかも、その友人とは今でも定期的にご飯へ行きます。ただし、話題は別に【苦手な人】についてではないです。子どもの話だったり、老眼の始まりだったり、最近覚えられない芸能人の名前だったり。大人の会話というのは、だいたいそんなものです。

苦手なのは「相手」ではなく、「その人の前の自分」だった

さて、今回のバッタリ遭遇事件。本来なら、軽く会釈して終わればよかったのです。それなのに、その日はなぜか立ち止まってしまいました。そして私は、見事にテンパりました。話題はあっちへ飛び、こっちへ飛び、「そういえばこの前…いや違うな…」みたいな、自分でも着地点の分からない会話を繰り返し、相手の話も落ち着いて聞けない。完全に挙動不審。帰宅後、私は思いました。「あぁ、私、この人が嫌いなんじゃないのかもしれない」もちろん、相性はあるのでしょう。完全に微妙。でもそれ以上に、その人と話している時の“自分”が、ものすごくしんどかったのです。必要以上に気を遣う。変な沈黙を埋めようとする。妙に良い人に見られようとする。つまり、めちゃくちゃ頑張ってしまう。そして、そんな自分に勝手に疲れる。たぶん、“苦手な人”というのは、「自分が自然体でいられない相手」なのかもしれません。逆に、ラクな人っていますよね。変な間があっても平気で、沈黙しても苦しくなくて、「今日スーパーでキャベツ高かったですね」だけで10分しゃべれる人。お互い、ずっと話が尽きなくなってしまう感じ…あれはもう、人類の癒やしです。

「嫌われてもいい」ができない、40代のリアル

子どもには、つい言ってしまいます。「言いたいことは言った方がいいよ」「無理して合わせなくてもいいんじゃない?」でも、自分はどうか。全然できない。40代半ばになっても、普通に気を遣うし、普通に空気を読むし、普通に“角が立たない正解”を探している。むしろ、大人になればなるほど難しくなっている気すらします。子どもの頃の方が、案外シンプルだったのかもしれません。もちろん、あの頃はあの頃で大変でした。クラス替え、部活、グループ問題、机を誰とくっつけるか問題。今思い返しても、「修学旅行の班決め」とか、ほぼ社会の縮図でした。でも、毎日会うからこそ、仲直りのタイミングもあった。今日ケンカしても、明日また顔を合わせる。体育祭でなんとなく仲直りしたり、部活のひょんなことで距離が縮まったり。子どもの世界には、意外と『人間関係 修復イベント』が多かった気がします。その点、大人は厄介です。距離を取ろうと思えば、永遠に取れてしまう。だからこそ、一度「苦手」が固定されると、更新される機会も少ない。人間関係って、放置すると冷凍保存されるんですね。

「好き嫌いしない人」ほど、突然ダメージを受ける

私は昔から、「誰とでも仲良くできそう」と言われるタイプでした。でも、これは大きな誤解で、正確には、「まぁ大抵のことは気づいていない」「適当に空気を読んで合わせる」「そこまでこだわりが強くない」だけです。多少失礼でも、「悪気ないんだろうな」で流し、会話が噛み合わなくても、「まぁそんな日もある」で終わる。だから、人間関係のストレスが少ない。…と思っていたのですが。何十年かに一度、とんでもなく“合わない人”が現れる。しかも、そういう人に限って、なぜか避けられないポジションにいるのです。ご近所だったり。職場だったり。子ども関係だったり。人生って本当に、絶妙に逃げ道を塞いできます。ただ、若い頃よりは上手になりました。20代の頃は、「苦手!」と思った瞬間、顔に全部出ていたかもしれません。当時は頑張っているつもりでしたが。たぶん今以上に目が泳ぎ、声が上ずり、帰宅後に布団へダイブしていました。今は一応、大人です。帰宅後にダイブするのではなく、子供が寝静まった後にプシュッと一杯ビールを飲みます。良いかどうかは分かりません。少し進化しました。大人でしょ~えっ?オッサンですって?

年を重ねると、人はもっと自由になるのか問題

時々、年配の方の会話に驚かされます。「あの人とは合わへんわ〜」「私は嫌いやけどねぇ」ものすごくカラッと言う。しかも、不思議と嫌味がない。あれは年齢による境地なのでしょうか。それとも、“もう無理して好かれなくてもいい”という解放感なのでしょうか。ホント、誰か詳しく学会発表でもして欲しい。いや、もうまとまった研究があるのかもしれない。知っている人は教えて欲しい。私はまだ、その域には達していません。たぶんどこかで、「ちゃんとして見られたい」が残っている。「感じ悪いと思われたくない」が残っている。でも最近、「全員に好かれる」は、かなり無理ゲーなのだと分かってきました。こちらがどれだけ丁寧に接しても、合わないものは合わない。逆に、何もしていないのに妙に気が合う人もいる。人間関係って、努力だけではどうにもならない“湿度”みたいなものがあります。だから最近は、「苦手な人がいる自分」を、昔より責めなくなりました。だってしょうがない。私はキュウリもピーマンは好きですが、スイカは今も結構勇気がいる。おぅ、そこかよ!という意外なところで意外な苦手が待っている。人間関係も、たぶんそれに近い。

それでも結局、今日も大人をやっている

とはいえ、明日から急に、「あなた苦手なので!」と宣言して生きる訳でもありません。たぶん私はこれからも、苦手な人に会えば笑顔を作るし、「こんにちは〜」と言うし、帰宅後には静かに疲れているのでしょう。でも、それでいいのかもしれません。大人って、たぶん「完璧に割り切れる人」ではなく、「割り切れないまま暮らしていける人」なのだと思います。うん。きっとそうだ。苦手な人がいる。でも、自分も、苦手に思われている誰かがいるかもしれない。そう考えると、少しだけ気がラクになる。結局、人間関係って、「みんな違ってみんなラクじゃない」の世界なのかもしれません。そして私はこれからも、駅のホームで愛想笑いをしながら、「うわぁ、偶然ですねぇ」と大人の仮面をかぶり、ヘンテコな会話をし、その夜、第三のビールではないビールを買って、「よく頑張った」と自分をねぎらい、あれもこれもゴクゴクと流し込むのだと思います。うん。それも悪くない。ではまた!

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