1. トップ
  2. 恋愛
  3. 「星野さんは僕らを帰さなかった」嶋基宏が今だから語る東日本大震災。闘将の冷徹な決断の裏にあった“野球人としての覚悟”

「星野さんは僕らを帰さなかった」嶋基宏が今だから語る東日本大震災。闘将の冷徹な決断の裏にあった“野球人としての覚悟”

  • 2026.4.25

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第8回は、星野が監督として初めて日本一になった楽天時代の選手会長にして正捕手の嶋基宏に話を聞いた。【嶋基宏インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

運命に導かれた、背番号《77》

昨年までは東京ヤクルトスワローズのユニフォームを着ていた。そして2026年シーズンからは中日ドラゴンズのヘッドコーチとなった。指導者として、着実に経験を積んでいる嶋基宏の背中には背番号《77》が躍っている。かつて星野仙一が、ドラゴンズ、阪神タイガース、そして東北楽天ゴールデンイーグルスで身にまとった番号である。闘将・星野仙一の代名詞でもある背番号《77》を、嶋は身につけている。

「球団から、“背番号《77》が空いている”と連絡をいただきました。だから、迷わずつけさせていただきました。本当に運がよかったと思いますし、同時に責任の重さを強く感じています」

昨年までは背番号《73》だった。こちらは、恩師である野村克也が、スワローズ監督時代に背負い、チームを常勝球団に導いていた際に背負っていた番号だ。闘将・星野仙一と、知将・野村克也。球史を代表する名監督の下で、若き日の嶋は研鑽(けんさん)を積んだ。06年から09年まで、野村はイーグルスの監督を務めた。嶋がプロ入りしたのは07年のことで、野村とは入団からの3シーズンをともに過ごした。

「頭を使ってやっていくというのが野村監督で、気持ちだったり、相手に対する闘う姿勢であったり、そういうことで相手を上回っていこうというのが星野監督のやり方でした。“真逆”というわけではないけど、ちょっと戦い方は違いましたね」

すでに現役生活を終えた今、改めて星野と野村を比較した上で、嶋は言う。

「当時は自分も選手だったので、目の前の試合に無我夢中だったけど、改めて振り返ってみると、野村監督の下で、“頭を使って、いい準備をしてゲームに臨む”ということを学んで、星野監督の下で、“闘争心を持って最後まで戦い抜く”ということを経験しました。決して、野村監督は闘争心がないというわけでもないし、星野監督も“準備は大事だ”とか、“狙い球をちゃんと決めろ”と指示をしていたけど、僕にとっては、野村監督と星野監督の教えがバランスよく、ちょうどいいあんばいだったと思いますね」

野球人は野球でしか被災者の力になれない

嶋と星野の物語は、10年オフ、突然のイーグルス監督就任のニュースから始まった。野村の下で、「ID(データ重視)野球の申し子」として英才教育を受けていた嶋にとって、星野の監督就任は晴天の霹靂(へきれき)だった。

「第一印象は、“マジか”です(笑)。失礼ながら、東北には縁もゆかりもない方だと思っていましたから。初めてお会いしたのは、たしか(11年)1月の自主トレ期間だったと思います。仙台の室内練習場で、星野さんが新人の合同自主トレを見学されるということで、そのときに、おそらく初めてお会いしたと思います。テレビで見る通りの威圧感でしたね。背筋が伸びる思いでした」

11年、星野はイーグルスの監督となり、嶋は選手会長となった。彼らを待っていたのは、野球人生、そして日本という国を揺るがす未曾有の事態——東日本大震災だった。3月11日14時46分、イーグルスナインは兵庫・明石でオープン戦を行っていた。震災直後、家族を仙台に残した選手たちは動揺し、一刻も早い帰宅を熱望した。選手会長として、嶋は球団に、そして指揮官に直訴した。しかし、星野の答えは「NO」だった。

「選手の家族はほぼみんな、そのまま仙台に残っていたので、会いたくても会えない。選手たちからは、“早く戻って顔を見たい”という声がほとんどでした。僕は選手会長だったので、その意見を球団を通して星野さんに言ったこともありましたし、監督に直接伝えたこともありました……」

しかし、星野はその要求を突っぱねた。嶋が続ける。

「……だけど、監督は僕らを帰さなかった。星野さんからは、“どうやって仙台に帰るんや。帰ってどうするんや。野球はどうするんや?”と言われました。当時はそれ以上の説明はありませんでした。初めから、“仙台に戻る”という選択肢はありませんでした」

星野の口数は少ない。「なぜ」という説明はなかった。それでも、あれからかなりの時間が経過した今、「野球人は、野球でしか人々を勇気づけられない」という、星野の覚悟に気がついた。嶋は続ける。

「選手たちからの不満の声はあったけど、星野さんは、“野球人なら、野球で被災者を元気づけろ”という覚悟を述べていたんじゃないのかなと、今なら思います。だから、あえて冷徹な決断を下したんじゃないのか。今はそんな気がします」

選手たちを仙台に戻すことは頑なに拒んだ。しかし、その代替策として、選手の家族を名古屋のホテルへと呼び寄せるよう球団に、星野は指示し、実現させた。厳しさの裏にある、親心の表れだった。

山﨑武司の放出と、大物メジャーリーガーの獲得

嶋と同様、「野村と星野を知る男」、それが本連載にも登場した山﨑武司である。星野政権初年度となる11年。東日本大震災という未曾有の事態に見舞われた。最終的には5位に終わった苦しいシーズンを終えた直後、星野は一つの大きな決断を下す。チームの顔であり、本塁打王、打点王にも輝いた大ベテラン・山﨑の戦力外通告だ。嶋は言う。

「星野さんは中日でも阪神でも、就任してすぐにチームカラーを一新するために大胆な改革を行ってきました。武司さんが(中日ドラゴンズに)移籍したことによって、“楽天でも、それが始まったんだな”と感じました」

かつて本連載で山﨑が語ったところによれば、当時のイーグルスはまだ若く、彼が教育係として厳しく若手を指導していた。しかし、それは裏を返せばチームに「山﨑武司」という色が強烈に染み付いていることを意味していた。「星野さんにとって、僕は邪魔だったんです」と山﨑は振り返る。嶋は言う。

「武司さんの意見は、まさにその通りだと思います。当時の楽天は、よくも悪くも武司さんを中心としたチームだった。でも、星野監督がやりたかったのは、それまでの延長線上にあるチーム作りではなかったんです」

星野にとっての「再建」とは、旧来のリーダーシップに頼るのではなく、自らの手で新しい風を吹き込むことであり、それはドラゴンズ時代も、タイガース時代も同様だった。そして、このイーグルスでもまた同様の手法を採る。まずは「チームの象徴を一新する」という、あまりにも冷徹で痛みを伴う大手術である。山﨑の放出は、単なる若返り策ではなかった。星野は「個」の力に頼る体質を壊そうとしていたと、嶋は分析する。

「言葉は失礼かもしれませんが、ベテランが去った後、監督は明らかに若い選手を我慢して使い続けました。練習に付き合い、一軍で経験を積ませる。それは、誰か一人のリーダーに寄りかかるのではなく、自分たちが当事者として戦う集団になれ、という無言のメッセージだったのだと思います」

山﨑が去った枠に入れ替わるように、翌12年からは松井稼頭央、岩村明憲というメジャー帰りの大物が入団した。これが、内向きだったチームを劇的に変えた。

「それまでの楽天は、外から大物が入ってくることが少ない球団でした。いわば《井の中の蛙》の状態。そこに、アメリカの厳しい環境を勝ち抜いてきたメジャー帰りの二人が入ってきた。彼らの練習方法や考え方は、若い選手たちの基礎になりました。一気に視野が世界レベルに引き上げられたんです」

さらに13年、アンドリュー・ジョーンズ(AJ)とケーシー・マギーという、現役バリバリのメジャーリーガーが加わる。嶋はこの補強こそが、日本一への最後のピースだったと振り返る。

「AJやマギー、さらには斎藤隆さんといった《本物》が加わったことで、チーム内で異文化のミックスが起きました。彼らは若い選手に惜しみなく考え方を教え、勝利への執着心を見せつけた。野村監督が遺した《野球脳》という土壌に、星野監督が連れてきた世界基準の血が混ざり、最高のバランスで結実したのが2013年だったんです」

それは、本連載において何度も見てきた光景だった。一見、ドライに見える冷徹な補強策の裏には、東北に歓喜を届けるための星野流の緻密な計算があった。外からの刺激と、生え抜きの成長。それが混ざり合って、イーグルスは本当の意味で戦う集団となった。GM的視点を持つ星野の「采配」は、勝つためのパズルを完璧に組み合わせていたのである——。

後編に続く)

Profile/嶋 基宏(しま・もとひろ)
1984年12月13日生まれ、岐阜県出身。中京大中京高校から國學院大学を経て、2006年大学生・社会人ドラフト3巡目で東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。1年目から当時の野村克也監督に抜擢され、正捕手の座をつかむ。11年には東日本大震災直後のスピーチで「見せましょう、野球の底力を」と訴え、被災地に勇気を与えた。13年には星野仙一監督の下、主将・正捕手として球団史上初の日本一に貢献。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞2回に輝く。20年に東京ヤクルトスワローズへ移籍し、22年限りで現役引退。現在は中日ドラゴンズの一軍ヘッドコーチを務める。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

元記事で読む
の記事をもっとみる