1. トップ
  2. 恋愛
  3. 「まるで朝ドラのような光景で…」 デザイナー安野ともこ(67)が振り返る、“シンデレラストーリー”の原点〈販売員→モデル→伝説のブランドへ…〉

「まるで朝ドラのような光景で…」 デザイナー安野ともこ(67)が振り返る、“シンデレラストーリー”の原点〈販売員→モデル→伝説のブランドへ…〉

  • 2026.4.22
左:安野ともこさん、右:近田春夫さん。

ミュージシャンとしてのみならず、幅広いジャンルで活躍してきた近田春夫さんが、半世紀を超えるそのキャリアにおいて親交を重ね、交遊してきた錚々たる女性たちとトークを繰り広げる対談シリーズ「おんな友達との会話」。

5人目のゲストは、安野ともこさん。小泉今日子さん、役所広司さんをはじめとする錚々たるビッグネームのスタイリストを務め、現在はジュエリーブランド「CASUCA(カスカ)」のディレクションを手がける彼女の幅広い活躍の軌跡を追う。


「近田さんに、フルーツのオブジェを腰に下げろ、と言われ…」

「CASUCA HISTORIA」にて。

安野 近田さんは、私の人生の扉を開いてくれたといっても過言ではない大恩人なんですよ。

近田 えっ、そうなの? そもそも、安野が俺と最初に会ったのっていつだっけ。

安野 私が池袋の西武百貨店に勤めてた頃だから、多分、1978年。近田春夫&ハルヲフォンが、デパートの売り場でライブをするという企画があったんですよ。

近田 ああ、あの頃、西武の館内に「シティ」っていうイベントスペースがあってさ、そこでよく僕らのバンドはライブをやってたのよ。その延長かね。

安野 4階に「ウエストビレッジ」っていう売り場があって、そこは、文化屋雑貨店とか、一つ目小僧とか、5坪ぐらいの小さなテナントがたくさん集まった独特のコーナーだった。しょっちゅうイベントもやってて、店員自らがギターを弾いて歌ったりしてたんだけど、そこにハルヲフォンがやってきたんです。

近田 ちょうど、僕らのバンドがパンクに傾斜を深めた時期だよね。

安野 その日のイベントも、テーマはパンクだった。ダンサーとして駆り出された私は、髪の毛を立てて、パンクのファッションを身にまとってたんだけど、近田さんから、「君、そのままじゃ面白くないから、文化屋雑貨店に置いてある大きなフルーツのオブジェをたくさん網に入れて、腰からぶら下げなさい」って指示されて。

近田 そんなこと言った? 全然覚えてない(笑)。

魚が好きすぎて坂戸から築地まで自転車で通う父

安野ともこさん。

安野 せっかくロンドンっぽくカッコよく決めてるのに、何で果物なんかぶら下げなきゃいけないんだろうと思ったけど、そのパフォーマンスが好評で。

近田 パンクってさ、世の中に対する反抗じゃない? だから、ロンドンのオリジナルをまるっきり摸倣しちゃったら、その精神とは矛盾するわけよ。パンクをおちょくるような表現として、パンクとは対極にある、平和この上ない果物という小道具を持ち込んでみたんじゃないかなと思う。

安野 いざやってみたら、私、そのセンスにピンときちゃったんですね。まったく性質の違うものをくっつけるって、こんな素敵なことなんだって。

近田 あれが初対面だったから、安野がどういう人なのかも全然知らなかったけど、あどけないこの子にはそういう悪ふざけのミスマッチが似合いそうだなと直感したんだよ。

安野 大変なカルチャーショックを受けました。それから、ハルヲフォンのライブにも足繫く通うようになり、人脈もそちらの方向に広がっていって……。

近田 そこから現在に至る物語は、後に回すことにして、まずはそれ以前にさかのぼり、安野の生い立ちからうかがいます。生まれはどこなの?

安野 埼玉の坂戸というところ。父親が、とても変わった人だったんです。

近田 どんな風に?

安野 農家の息子として生まれたんですけど、魚が好きだったんです。でも、埼玉は内陸部だから、当時はなかなか新鮮な魚が食べられない。じゃあ、自分が魚を扱えばいいということで、魚屋を始めたんです。

近田 理に適ってはいるよね。

安野 それで、はるばる築地の市場まで、魚を仕入れに自転車で通ってたんです。

近田 ええっ! 坂戸からじゃ、60キロ以上あるでしょ?

安野 そして、みんなに美味しい魚を食べてほしいという一心で、家の近所のみならず、大宮や川越まで行商して売り歩いてた。

近田 それはすごいね。

父の行商について行き“島倉千代子”で客集め

近田春夫さん。

安野 最初は自転車から始めて、それがバイクになり、最終的にはオート三輪を使ってました。派手な色が好きで、オート三輪もフラミンゴのようなピンクだった。

近田 じゃあ、お父さんもお洒落だったの?

安野 いや、本人はといえば、バカボンのパパみたいなシャツに腹巻きを巻いて、ゴム長履いてるような人でした。

近田 お母さんはどんな人だったの?

安野 母は、父に対してただひたすら従順で、ずっと父の言うことだけを聞いてました。『ゆきゆきて、神軍』っていう映画があるじゃないですか。

近田 はいはい。奥崎謙三を採り上げたドキュメンタリー映画ね。

安野 奥崎さんに尽くす奥さんの献身ぶりを見た時、うちの母親にそっくりだと思いましたから。

近田 じゃあ、お母さんの方は家を守ってたわけ?

安野 家でよろず屋を営んでたんですよ。近所の人が小上がりに座って、しばらくお茶飲んでいくみたいなお店でしたね。家が商店だったから、小さい頃は、お店の棚に並んでるものは、何でも勝手に取って食べていいんだと思ってた。

近田 物心つかないうちは、そう考えちゃうかもね。

安野 保育園に行っても、勝手に園を抜け出して、近くのお菓子屋さんの棚から品物を取って手を付けちゃってたんです。そのたびに叱られても直らないもんだから、保育園をやめさせられちゃいまして。

近田 保育園中退とは、珍しいね(笑)。

安野 それからは、ずっと父親の行商について回ってました。行った先の街頭でお店を広げたら、私は、父が積み上げた魚の木箱の上に立って島倉千代子の「恋しているんだもん」なんかを歌い出す。すると、お客さんが集まり出すという仕組みでした。

近田 その風景、NHKの朝ドラみたいだよ。

安野 お弁当は、決まってしょっぱい鮭がおかずでした。いつも、父親と並んで古い木の橋の欄干に座り、足をぶらぶらさせながら食べたのを覚えてます。いまだに、しょっぱい塩鮭を口にすると父のことを思い出すんです。

近田 しみじみするねえ。

セブン‐イレブンより長く営業する魚屋に

安野 本当に面白い父ではありましたけど、まったく人と馴染めないタイプだから、友達とかも全然いなくって。

近田 仕事が友達みたいな感じだね。

安野 父は、ものすごく熱心に働いたんです。仕事が好きで好きでしょうがなくって、お正月も休まないぐらいだった。後にセブン‐イレブンが世の中に広まった時、うちの方が早くから遅くまでやってるって豪語してました。

近田 当初、セブン‐イレブンの営業時間は、その名の通り午前7時から午後11時までだったもんね。そんなに働いてたんだ。

安野 あまりにも魚への愛が深すぎて、「この魚は美味しいからぜひ食べてほしい」と必死にすすめるものだから、行商に回る先の家の人たちは、父が来たことを知ると、家族みんなで息を潜めて、障子の陰にじっと隠れてたらしい。

懐かしい思い出を語る安野さん。

近田 落語みたいだよ(笑)。それで、商売は上手くいったの?

安野 その努力が実って、家を建てたんですよ。宮大工に頼んで、釘を一本も使わずに作った綺麗な家でした。

近田 それはすごい。

安野 その2階は、襖を開け放つと全部つながる大広間になっていて、宴会場として営業もしていました。生まれた街には置屋があったから、芸者さんを揚げたりして。

近田 粋だねえ。

安野 3、4歳の私も、着物姿でお客さんにお酌したりして。そんなこともあって、私、七五三の着物も自分で着付けできたんですよ。

近田 すでに、スタイリストの素質が片鱗を見せていたのかも。

安野 父親も、歌や踊りが得意だったんです。宴もたけなわになると、満を持して呼ばれた父親が板場から出てきて、田端義夫の「大利根月夜」に合わせ、お盆を持ってオリジナルの振り付けで踊り出したりして。それがまた、すっごく上手で。

近田 人と馴染めないタイプって言っていたけど、芸事は得意だったのね。

高校卒業後、西武百貨店に入社し販売員に

安野 若い頃、ドサ回りの芸人みたいなことをやってたらしいんですよ。

近田 人に歴史ありだね。

安野 最終的に父は、行商の魚屋を、一代でスーパーマーケットにまで成長させました。

近田 おお、ひとつの立志伝だねえ。

安野 ただ、働き過ぎが祟ってか、父は、年が行ってから、道端で倒れちゃったんです。その場所というのが、私と一緒にお弁当を食べていた橋だった。父は、思い出深いあの橋が大好きで、何かにつけては訪れていたらしい。

近田 うわあ、ドラマティックな展開だなあ。

安野 結局、父は、70歳を過ぎた頃に亡くなりました。

近田 今、お父さんの築き上げたスーパーはどうなってるの?

安野 私には弟が人いるんですが、全然社会性がなくって、店を継ぐこともなく、結局廃業しちゃいました。建物は、私が仕事で使う衣装の倉庫になっています。

突出したセンスが一気に花開く!

近田 じゃあ、そろそろ、安野本人の人生の話に入るとしようか(笑)。

安野 最初にお話ししたように、私は、高校を卒業して西武百貨店に入社したんですよ。当時は、学生運動の余熱がまだ残っていたじゃないですか。だから、親も大学に行かせたくなかった。私自身も、早く社会人になりたかったしね。

近田 それで、販売員になったのね。

安野 ええ。普通の新入社員は制服を着て売り場に立つのに、私はショップ販売部という部署に配属され、最初に触れたウエストビレッジを担当することになり、そこで扱っている洋服を着ることになったんです。そのブランドというのが、こぐれひでこさんがデザインしていた「2CV(ドゥーシーヴォー)」だった。

近田 それが、後の布石になるわけだね。

池袋西武で注目を浴び、モデルに

安野 ええ。もう、虜になっちゃいました。それ以来、自分の着る服の趣味もすっかり変わっていった。

近田 その頃、俺たちと出会い、フルーツを腰からぶら下げたわけね。

安野 そして、池袋西武にはチャラっとした変な女の子がいるという噂が広まって、こぐれひでこさんとも知り合うことになった。それをきっかけに、ひでこさんの旦那さんであるフォトグラファーの小暮徹さんが、小学館の雑誌のモデルに素人の私を起用してくださったんです。あの時のスタイリストは、プラスチックスのヴォーカリストとしても活躍していた佐藤チカさんでした。

近田 ちょっとしたシンデレラストーリーだね。

安野 そこから、ひでこさんと徹さんのお宅にも出入りするようになり、一気に人間関係が広がっていきました。そうこうするうちに、東京の空気に染まってまいりまして(笑)。

ぜひ、こぐれひでこ篇も併せてお読みください!

近田 西武にはどのぐらい在籍してたの?

安野 2年ぐらいですね。2CVへの想いが募って働きたいと思い始めたんですが、入るためには何か手に職を付けた方がいいだろうと考え、パタンナーを目指し、恵比寿にあるバンタンデザイン研究所に入学したんです。

近田 殊勝だね。技術は身についた?

安野 あんまり身についてない。何となく仕組みが理解できた時点で、あとは経験を積めばいけるんじゃないかと思って、バンタンに通うのを早めにやめちゃったんです。

近田 システムを理解するってことが一番大事だからね。行ってよかったと思うよ。

安野 そして、憧れの2CVに入社が叶い、最初は渋谷にあったパルコPart2の2CVの店舗で店員を務め、その後、本社で営業の仕事に就きました。

近田 こないだ、安野は営業の才能があったって、ひでちゃんが褒めてたよ。パタンナーにならなくて、結果としてはよかったかもしれない(笑)。

安野 ところが、数年経ったら、ひでこさんが2CVを解散しちゃったんです。

近田 そこから、また別の運命が動き出すわけだよね。

安野ともこ(やすの・ともこ)

1959年、埼玉県生まれ。高校卒業後、西武百貨店勤務を経て、こぐれひでこ氏が主宰するアパレルブランド「2CV」に入社。同社解散後、モデルやシンガーとして活動。以降、フリーのコラムニスト、ライター、プランナーなどを務め、小泉今日子との出会いをきっかけに、スタイリストに転身する。1994年には、スタイリスト事務所「CORAZON」を設立し、衣装デザインにも進出する。2007年、ジュエリーブランド「CASUCA」を立ち上げ、現在、目黒で実店舗「CASUCA HISTORIA」を展開。6月7日(日)から上演される「PARCO PRODUCE 2026 カッコーの巣の上で」では衣装を担当。
Instagram @yasunotomoko

近田春夫(ちかだ・はるお)

1951年東京都世田谷区出身。慶應義塾大学文学部中退。75年に近田春夫&ハルヲフォンとしてデビュー。その後、ロック、ヒップホップ、トランスなど、最先端のジャンルで創作を続ける。文筆家としては、「週刊文春」誌上でJポップ時評「考えるヒット」を24年にわたって連載した。著書に、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア)、『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』『グループサウンズ』(文春新書)などがある。最新刊は、半世紀を超えるキャリアを総覧する『未体験白書』(シンコーミュージック・エンタテイメント)。
X @ChikadaHaruo

文=下井草 秀
写真=平松市聖

元記事で読む
の記事をもっとみる